重蔵の条件
そんな志乃との結婚生活もあっという間に一年が過ぎ、いよいよ重蔵と買い付けに行く日がやって来た。
その朝、深川扇橋の船着き場に重蔵と共に行く奉公人の二人とお勝、志乃、惣一朗が重蔵の見送りに来ていた。
陸路を行くときは店の前での見送りだが、船で行く時は必ず船着き場まで皆で見送りにきていた為、惣一朗が居る事を不審に思うものなど誰もいなかった。
「さて、出発の時間だ。そろそろ乗るとするか。」
「あなた気を付けて行って下さいね。」
「ああ、案ずるな。今回は凄腕の用心棒も一緒だからな」
「用心棒?雇ったんですか?何処にいるんです?」
お勝が桟橋をきょろきょろと見渡したが誰もそれらしい人物は見当たらなかった。
「惣一朗君。準備はいいかね」
突然重蔵が口にした名前に、お勝も志乃もギョッとした顔で惣一朗を見た。
「すみません、お義母さん、志乃。今回はお義父さんと一緒に買い付けに行くことになりました。
黙っていてすみません。留守の間、志乃を宜しくお願いします」
「そんなの一言も聞いていないわ!嫌よ!駄目よ!」
「そうですよ!急すぎますよ、何の準備もなく惣さんも困っているじゃありませんか!」
志乃とお勝が、鳥の大群顔負けに騒ぎ始めたので、重蔵が手の平を見せて二人を制した。
一瞬二人が黙った隙に、ためらう惣一朗と奉公人達の背中を押して、先に船に乗せ、重蔵がここぞとばかりに迫力の渋顔で言った。
「お前たちは過保護すぎだ。そろそろ惣一朗君にもわしの後を継ぐ準備をしてもらわんといかん。商談は一年やそこらで覚えられるものじゃないんだ」
「だからって、急すぎやしませんか?志乃が可哀想ですよ!」
「お前はすぐに志乃が可哀想だと言い出すから、黙っていたんだ。今回の買い付けに同行することは、惣一朗君はとっくに了解済みだ。どうせ一週間程度の旅だ、待てるだろう」
「だったら私も連れて行って!」
「馬鹿を言うんじゃない!向こうはまだ維新戦争の落ち武者が潜んでいるかもしれん所だぞ。遊びに行くところではない。お前もいい加減に分をわきまえなさい。お勝、危なっかしい真似をせんように志乃を頼むぞ。」
滅多に怒らない重蔵に頭ごなし言われた志乃は、急に目の前が真っ暗になり、フラフラした体をお勝に支えられた。その姿を船上で見守っていた惣一朗も、さすがに心が痛んだ。
やはり話しておくべきだったか・・・。いや、話していたら何が何でもついて行くと駄々をこねられて、まず家から出られなかっただろう。お義父さんはこれを予想していたのか。
志乃が放心しているのを確認すると、最後に重蔵も船に乗り込み、不安げな表情で船を見送るお勝と志乃を残し、船から梯子が外され、続いてロープもほどかれた。蒸気船は湯気をあげてゆっくりと動き始めた。
「志乃―!黙っていて済まない。すぐに帰るから安心して待っていてくれー!」
船上で大きく手を振りながら、惣一朗は懸命に志乃に向かって叫んでいた。
次第に船が船着き場から離れて川の中央に沿ってどんどん遠ざかって行く。
船が離れて行くにつれ、惣一朗の声も次第に小さくなった頃、ようやく志乃は我に返った。
あまりの驚きに思考がついていけずまた真っ白になっていたのだ。
気が付けば、船の上で惣一朗が手を振っていた。いつの間にあんなところまで!
志乃はお勝の手を払いのけ、突然すぎる惣一朗の旅立ちが理解できずに、夢中で船を追いかけて土手を走り出した。
「行かないで惣一朗さん!待って!行かないで!」
蒸気船はまだ火力が上らず、ゆっくりと上流を目指して進んでいた。
追いかけてくる志乃を船のデッキの上で、重蔵と惣一朗達はハラハラしながら見守っていた。
走っている志乃に気が付いた乗客が「可哀想に、別れたくない人でも乗っているのか」と話しているのが耳に届き、惣一朗は居てもたってもいられなかったが、船の上ではなすすべもなく、志乃をただ見守るしか出来なかった。
「志乃のやつめ、なかなか諦めんな。みっともない、あんなに裾を乱して走りおって」
重蔵は悪態をつきつつも、手すりを握る手はじっとりと汗がにじんでいた。
息を切らして着物が乱れるのも構わず、転びそうになりながらも全力で走っている志乃の姿に、惣一朗はもう見ていることが出来ず、こんなことなら話しておくべきだったと後悔で自分を責めた。
ちょうど対岸への渡し場を蒸気船が通過した時、何を思ったのか志乃は渡し場の方に降りて行き、並んでいた客たちを押しのけて渡し場の先端まで進むと、なんの躊躇もなくいきなり川に飛び込んでしまった。
渡し場にいた客は悲鳴を上げ、その場に居た船頭は驚き、志乃を固唾をのんで見守っていた多くの船上の客達からも悲鳴が上がり、渡し場は突然の出来事で大騒ぎとなった。
続いて船の方から大きな水音が上った。
志乃が飛び込んだとほぼ同時に、惣一朗が川の中に飛び込んだのだ。
惣一朗は船と変わらぬ速さで、志乃に向かって一直線に泳いで行った。
川に飛び込んだ当の志乃は、水の中に入ったところまでは覚えていたが、どうしてこうなったのか自分でも分からず、水の中でもがいていた。
すぐに着物のたもとは重くなり、腕が上がらず、顔を川面にあげられなくなった。
帯は水を吸ってギュウギュウと胸を締め付けて息が吸えなくて苦しい。
急激に気が遠のき、次に気が付いた時、惣一朗の呼ぶ声が聞こえた。
志乃が飛び込んだ時に惣一朗の到着よりも早く、他の待ち客や船頭が川に飛び込み、すぐに志乃は助けられたのだ。志乃はすぐに気を失ったのが幸いして、あまり水を飲んでいなかった。
「志乃!志乃!大丈夫かいしっかりして!志乃!」
「そ・・・惣一朗さん・・・・・!惣一朗さん!」
「良かった・・・・・!志乃・・・」
飲み込んだ水をむせながら、わんわんと泣きじゃくる志乃を惣一朗が抱きしめると、びしょ濡れの二人を囲んで、渡し場にいた客たちからは歓声が上った。
惣一朗は全身で安堵のため息をついて暫く動けなくなった。志乃は何が起こったのがまだ分からずに、ただ泣きじゃくるだけだった。
そんな二人に船頭が申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「取込み中悪いが、あんた達、あの蒸気船の客だろう?船が止まっているからあんた達を待っているんじゃねえのかい?よかったら渡し船で連れて行ってやるよ」
見ると確かに川の真ん中で湯気が少なくなっている蒸気船が、少し遠くに止まっていた。
きっと重蔵が無理を言って停めさせたに違いない。
惣一朗は、船頭に志乃を助けてもらった礼も兼ねて十分な駄賃を支払い、蒸気船まで連れて行ってもらう事にした。
もちろん志乃は惣一朗の服を握って離さず、惣一朗もここで志乃を置いて行くことなど考えていなかった。
二人が小舟で蒸気船に近づくと、デッキからロープが投げられた。
志乃が怪訝な顔で見ているので、惣一朗は大丈夫だよと言って、ロープを自分の踵にぐるぐると巻き付け、志乃を自分の首にしがみつかせた。
片方の手で志乃を支え、もう片方でロープを握ると引き上げの合図を送った。するとグラグラと揺れながら上に引き上げられて行った。
こんな場面は普通、女の子は怖くて目をつぶるか、悲鳴を上げるところだが志乃に至っては、何故か大はしゃぎた。
「貨物船の荷物になった気分ね」とのたまった。
無事にデッキに引き上げられた二人はここでも大歓声と拍手で迎えられた。
何故か重蔵たちの姿は何処にも見当たらなかった。
「こんな出来事は、一生でもなかなか見られるものじゃない。感動したよ」
「物凄く泳ぎが早くて驚いたよ君。凄いじゃないか」
「彼と別れたくなかったのね。純愛なのね。感動して泣いてしまったわよ」
「体は大丈夫かね?けがはしていないのか?」
乗客たちは皆思い思いの事を口にして惣一朗達を取り囲んた。
志乃はさすがにこの人山に驚いて固まってしまった。しおらしく怯えていると乗客に思ってもらえれば上等だ。
惣一朗は、志乃が水を飲み、具合が悪いので休ませて欲しいと、心配する乗客たちに丁寧にお礼と詫びを言いながらその場を離れた。
乗客たちから見えない反対側まで志乃を連れて行くと、高倉の奉公人の一人、余市が船内の扉から手招きしていた。
「若旦那様、志乃お嬢様、こちらです。旦那様がお待ちです」
そそくさと人目を忍んで船内に潜り込むと、余市が涙ぐんで志乃の無事を安堵した。
志乃はようやく自分が何をしでかしたのか、じわじわと実感が湧いてきていた。
それから重蔵の待つ船室に連れて行かれた二人は、深川扇橋で見たのと同じ、こわもての渋顔をした重蔵に出迎えられた。
「志乃。まずは無事で何よりだ。惣一朗君も体は平気かね」
「はい、お義父さん私は平気です。志乃は水を少し飲んだだけで、もう大丈夫です」
「そうかその程度で良かったな。それで志乃。申し開きがあるなら言ってみろ。多少なりとも聞いてやるぞ」
普段から口数の少ない父が、志乃の話を聞くと言っている。こんな時の重蔵が一番怖いことくらいは志乃も十分解っていた。志乃は恐る恐るだが、意を決っして言った。
「ごめんなさいお父さん。無我夢中で馬鹿な真似をしてしまいました。でもお願いします!私も連れて行ってください。おとなしくしています。何でもいう事を聞きます。だから追い出さないで!」
志乃はその場で土下座して平謝りと言わんばかりに重蔵に謝った。すかさず惣一朗も隣に土下座して同じように嘆願した。
「私からもお願いします。危険な目に遭わないように気を配ります。どうか志乃も連れて行ってやって下さい」
二人の哀れな姿を見た奉公人二人は、オロオロしながら重蔵の言葉を黙って待った。
重蔵は深いため息をついてから、窓の外に目をやると
「もう無理だな。見ろ。お前を降ろしたくとも船はとっくに動き出しておる。二人とも、今頃何を言っているんだ」
え?と顔を見合わせた志乃と惣一朗は窓の外を見ると、すでにかなりの速度を上げて蒸気船は上流へと進んでいた。先ほどの遅れも取り戻そうと更に加速されていた。
「じゃあ、私、惣一朗さんと一緒に行っていいの?」
「致し方ないな。ただし条件がいくつかある」
「やったわー、惣一朗さん。嬉しい、良かったー!」
「ゴボンッ。志乃、聞いていたのか、わしは条件があると言ったぞ」
すでに惣一朗の首に抱きついていた志乃を、引き剥がしながら惣一朗は重蔵に聞いた。
「条件とは何でしょうか」
「志乃は今回の旅では、わしの娘ではなく、わしと惣一朗君のお抱え女中として随行してもらう事にする」
志乃よりも先に惣一朗が驚いて、重蔵に難色を示した。
「え?それは仕置きとして、でしょうか?志乃にはあまりにも可哀想です」
「まぁ話を聞きなさい。惣一朗君も志乃の事となると、怖い物知らずだな」
重蔵にからかう様に皮肉られた惣一朗は珍しく、頬が少し赤らんだ。
「驚くのも無理はないが、志乃の同行は予定外だからな。
これから行く村での対策だ。これから話す事を心して聞きなさい」
惣一朗の隣に奉公人達も加わり、四人は重蔵の話に聞き入った。
「これから行く生井村についてだ。ここは日光街道の近くにあり大きな宿場町もある。
本当は米沢まで足を運んで、東光の酒が欲しい処だが、生井村まで運ぶ手立てがない。
今回はこの一帯に最近できたという、酒造店から仕入れようと考えている。
宿場が近い分、酒の需要も多いだろうからな。そして今後この地区の酒造屋から仕入れた品を、定期的に蒸気船で運べたらどうかと思っている。
だが問題が一つあってな。『生江一族』という豪商だか地主だかが、この地区一体を牛耳っているそうだ。なんでも全ての品物はこの一族を通さないと売買ができないらしい。
それもかなりの手間賃を取られるそうだ。
宿場だけで売り買いするにはさほどの額ではないようだが、わしらの様に蒸気船を使って運賃をかけて仕入れる者にしてみれば、手間賃は盗人に捕られるようなものだ。できればご免こうむりたい。
そこでだ。うまく生江家に取り入って普通に取引が出来るのが一番だと思っている」
「それと私が女中になるのと何の関係があるの?」
「そう急くな、志乃。まだ話は終わっておらん。お前が女中になる訳か?それは生江家の機嫌を出来るだけ損ねたくないのと、お前のその顔を誰にも見られたくないからだ」
「さっぱり意味が分からないわ」
「わしも寄合で聞いただけの噂で、どこまで本当か判らんが、生江家に少しでも逆らえば一家全員雲のように消えていなくなるらしい。または裏で人身売買も平気で行っているという話しだ。
お前はお勝に似て器量よしだからな、さらわれて売られる可能性がある。」
「まさか!私たちは旅行者ですよ。生井村の人間でもないのに迂闊に手出しするとは思えませんが・・・」
さすがにこれには惣一朗も口をはさんだ。重蔵は苦笑しつつも真顔で答えた。
「わしもどこまで本当かは判からん。判らんから用心に越したことはないと思っている。
機嫌を損ねると言ったのは、わしらは商売で生江家に来くのに、乳房連れと知れれば物見遊山だと思われかねん。真剣さに欠けるからな。
わしと惣一朗君付きの女中にすることで、わしが大物豪商として箔を付ける、という事でよかろう?」
ああ・・・と惣一朗は納得したように頷いたが、志乃はまだ腑に落ちない様子で首をかしげていた。
「そんな訳で志乃、今回はわしらの身の回りのことを頼んだぞ」
「はーい、わかりましたお父さん」
「お父さんじゃない。旦那様と呼びなさい。惣一朗君も若旦那様と呼ぶんだぞ」
「ええー!そこまでしないと駄目?うっかり呼んでしまいそうで、自信がないわ」
「嫌なら宿から一歩たりとも出る事まかりならんぞ」
「・・・・・!わっ分かりました、旦那様」
ニタリと笑った重蔵に、志乃は冷や汗をかきながら、惣一朗と一緒にいられるのなら、これくらいは我慢しようとしぶしぶ納得した。
志乃とは別に重蔵の話しに冷や汗をかいた惣一朗は、心穏やかではなかった。
これから行く先は志乃にとって危険な場所かもしれない。
考えただけで惣一朗の全身には、毛が逆立つような悪寒が走っていた。




