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初めての商談



 志乃が嫁に行ったと言っても実家におり、食事も今まで通り

お市と奉公人が作り、違いは惣一朗が加わったことくらいだ。


 結婚して一年近くが経とうとしていたが、

志乃の生活はこれと言って変わりはなかった。

 

 ただ大好きだった女学校は中退し、酒店に来る外国人を相手に

英語の本を見ながらたどたどしい通訳をして店に貢献するようにはなっていた。


 だが暇さえあれば惣一朗の傍らで本を読んでいた。

 惣一朗の傍に居る、

志乃にとってそれだけで十分充実した毎日であった。

 

 一方、惣一朗は父重蔵の薦めで、酒蔵に弟子入りするのではなく、

酒の目利きとしての腕を磨き、激動していく明治の波に乗る

商人としての手腕を大いに期待されていた。


 それに応えるべく、元来の器用さでめきめきと頭角を現した惣一朗は、

すぐに奉公人達にも慕われ、取引先からの信頼も受けて、

また酒造の社氏親方からも、一目置かれる存在にまで成長していたのは、

重蔵にとっては驚くべき事であった。


 『こんな出来た婿殿は、そうはおりますまい。将来安泰ですな』


 重蔵がこんな言葉をよく、寄合や取引先で言われるようになったのは

いつ頃だろうか。


 店の内情はほとんど番頭とお勝に任せきりで、惣一朗が店で何をしているのか、

正直ほとんど把握していなかっただけに、外ではもちろん、

家でも惣一朗を褒められるとなんとも言い難い、こそばゆい気持ちになる。

 照れると言うより少々過剰な評価な気さえする。

 

 まだ二十歳そこそこの若者が、まったく隙も見せずに皆に称賛されるなど、

ある意味異様な事なのだ。 

 婿養子の手前、それだけ外はもちろん、

家の中でも気を張って過ごしているという事だ。


 同じ家を預かる男として気の毒に思えてくる。

どうせ娘の志乃はそれには気付いてはいないだろうと、

その鈍感さにため息をこぼしていた・・・・・。

 

 そんなある日、寄合に出た重蔵の耳に、栃木県の下野にあちこち

酒造店が増えたとの噂が飛び込んできた。


 元々ここの一体は米どころとして肥沃な土地、

幕府もなくなり自然と利益の出る酒造に転身する者が出ても不思議ではない。

 ただ米俵ならともかく、内陸過ぎて酒樽を運ぶには山道は危険が多く、

誰も手を付けずにいるというのだ。


 寄合からの帰り道、重蔵はこれを放っておく手はないと模索していた。

 ちょうど深川扇橋から栃木県の生井村まで、

蒸気船の航路が開通していたのを思い出した重蔵は

早速、内国通運会社に寄り道した。


 その夜遅く、普段は早々に寝付く重蔵が、

母屋の書斎で生井村について調べていると、

中庭で竹刀を振るう音がかすかに聞こえてきた。


 少し開けた窓をそっと引くと、惣一朗が上半身を脱ぎ、

離れの縁側に置かれたランプのかすかな灯りでも判るほど、

大量の汗をかきながら一心に稽古をしていた。


 男から見ても惚れ惚れするような、惣一朗のひきしまった背中の筋肉に

思わず「ほお」と重蔵の声が漏れた。


 その声に気が付いた惣一朗が振り向き、母屋の書斎で

こちらを見ている重蔵と目が合った。

 慌てて惣一朗は会釈をして、上着を整えると、重蔵の所に駆け寄って来た。


「申し訳ありません。起こしてしまいましたか」

「いやいや、今日は調べものがあってまだ起きておったよ。気にせんでいい。

それより精が出るな、朝も早いのに疲れないのかね」

「毎日している日課ですから、疲れません。

逆に素振りをしないと落ち着かなくて眠れないくらいです」


 そう言いながら惣一朗は照れくさそうに頭を掻いた。

こんな仕草はまだまだ若い少年のようだ。

「そうか、励んでいる所を邪魔してすまなかったな。」

「いえ・・・・・・。」


 何となく終わってしまった会話に、ふと重蔵はこの一年間、

惣一朗とまともに会話したことがない事に気が付いた。

 元々世間話しが苦手な重蔵だったが、惣一朗からしてみれば、

疎まれていると勘違いされてもおかしくないほど無関心過ぎた。


「惣一朗君、そろそろ志乃と結婚して一年だが、家や店には慣れたかね?

何か不自由なことなどは無いかね」


「不自由など何もありません。お陰様でお義母さんをはじめ

親方衆や店の人たちも、皆さん良くしてくれます。

我が家のつもりで毎日過ごさせて頂いております」


「それは何よりだ。だが、まだだいぶ気を遣っておるな。

『過ごさせて頂いている』は客人の使う言葉だ。

『我が家のつもり』ではなく、ここはもう君の家だよ、惣一朗君」


 淡々とした口調だが、自分を労わる言葉を、

初めて重蔵に言われた惣一朗は、驚いて顔をあげ、

ついで少し照れたように頷いてうつむいた。


「ありがとうございます」

「礼もいらんよ」


 お互い視線は交わさなかったが、男同士、それぞれに通じるものを感じた。

 惣一朗は重蔵に会釈をして、自分たちの離れに戻ろうと

竹刀を片づけていると、また重蔵が惣一朗を呼び止めた。


 惣一朗が書斎の縁側に近寄ると、入るようにと中に呼ばれた。


 惣一朗にとって、重蔵に呼び止められる事も、書斎に入る事も初めてなだけに、何か気に障る事でもしたかと内心、心穏やかではなかった。


 寝静まった高倉家の書斎で、重蔵は、昼間仕入れてきた話しを

惣一朗に語って聞かせた。


「それはいい話です。新規開拓にはぜひ力を入れたい地域ではありませんか?」

「君もそう思うかね?普段は港から手に入る地域の酒しか仕入れてなかったからな、他の酒店と競合になって面白みに欠けていたところだ。ここの酒を入手できれば話題に事欠かないだろう。だが一つ、他にも気になる話を聞いてきてな」


 そういうと重蔵は声を一段低くして、耳打ちするように惣一朗に聞かせた。

すると惣一朗の表情がやや険しくなった。

「田舎はまだ東京と違って閉鎖的です。それについては行った先で何とか手を打つしかないでしょう。万が一の担保として、諏訪様から県令宛の紹介状をもらっておいた方が無難だと思います」


「さすがうちの婿殿は頭の切れが一味違うな。紹介状か、いい案だ。

惣一朗君。今回の取引き先に、わしに同行せんかね?」


 惣一朗は予期せぬ重蔵の誘いに思わず「えっ」と声が漏れた。

 実はかねてより早く仕事を覚えたい惣一朗は、仕入先に同行させてほしいと頼んだことがあったのだが、重蔵に無理をしなくていいとやんわり断られていた。

 それが新規開拓先に同行させてもらえるなど思ってもみなかった。

 正直嬉しかったが、顔に出すことは控えて深く頷き、承諾した。


「頼りにしているぞ、惣一朗君」

 重蔵の何気ない一言が、惣一朗にはとても嬉しい激励の言葉だった。

 お義父さんの期待を裏切らぬよう最善を尽くそうと決め、

就寝の挨拶をした後に部屋を出ようとした時、重蔵がつけ加えるように言った。


「当日まで誰にも話してはいかんぞ。特に志乃にはな」

「え?何故ですか?」

「面倒になるからだ」


 それだけ言うと、もう重蔵は惣一朗の存在を忘れた様に、

また書類に目を走らせ、それ以上話すことはなかった。

 尋ねる機会を失った惣一朗は一礼して、

書斎の縁側からそっと離れて自分たちの部屋に戻って行った。


 翌日、いつものように重蔵は朝早くから出掛けて行った。

 同じころすでに起きていた惣一朗もいつものように薪割りをしていた。


 ただ違っていたのは昨晩、重蔵に同行を許可されたことが嬉しくて、

自然と薪を割る手にも力が入っていた。

 普段と違う割れる響きにいち早く気が付いて寄って来たのはお勝だった。


「お早う、惣さん。今日も精が出るわねぇ。

夏なんだから朝から気張っているとばててしまうわよ。」

「おはようございます。お義母さん。いつもと同じですよ。」


 志乃と違って察しがいいお勝に悟られぬ様に、

惣一朗は平常を保たねばと自分に言い聞かせてまた作業に戻った。


「それにしても志乃はまだ寝ているの?

 一緒に起きる様にさせればいいのに。

 惣さんもいつまでもあの娘を甘やかせないでね」


 惣一朗の働きぶりを見ながら、お勝はため息交じりに

我が子の不出来さを嘆くわりには、

あまり真剣に思っていないのが本音だ。惣一朗は苦笑しながら


「そんなつもりはありません。志乃も遅くまで勉強していますから、

体調管理も仕事のうちですよ」

「あらまぁ、理解のある旦那様だこと。羨ましいわね。

もうすぐ朝げが出来ますよ、そろそろ母屋に来て下さいね。」


 お勝の後ろ姿を見送りながら、昨晩の重蔵との事を話せば

きっとお勝は喜んでくれる。

 もちろん志乃はそれ以上に喜んでくれるだろうと想像しただけで気持ちが高揚してきた。だが、話すなと言われて話してしまったら、子供の約束も守れないような者に仕事は任せられないと呆れられてしまう。

 志乃と一緒にこの喜びを分かち合えないのが、惣一朗には残念でならなかった。


**********************************


 一日の仕事を終えて、奉公人共々皆で夕食をとっていると、下男の余市が配達途中に数寄屋橋近くで、憲兵のいざこざを目にしたとの話題を出して来た。

 皆その話に聞き入った。


「ちょうど一年前にも竹橋で近衛兵の反乱があった」とだれかが言った。

 その一周忌の仇討のつもりなのか、明治政府は何をしているのかと、皆口々に世間の不穏な空気に不満を抱いているようだ。番頭の藤吉郎が神妙な面持ちで言った。


「今、頼れるのは警察隊だけですよ。あいつらは元々士族の連中ですから、憲兵たちよりよほど頼りがいありますよ」

「そうかしら、傍を通っただけで、偉そうにあれこれ指図してくるから、もううんざり」

お市は自分の顔を嫌そうに隠した。

「偉そうって、何を言われるの?」志乃がお市に尋ねた。


「お嬢様は身だしなみがきちんとされていらっしゃるから、何も言われることは無いと思いますけど、私なんてこの前、蔵の掃除をする為に汚い着物をあえて着ていたら『物乞いがうろうろするんじゃない』といきなり怒鳴られたんですよ。見た目であれこれ言う権利なんて警察にはありませんよね」


「あらあらそれは災難だったわね。すぐに私を呼んでくれりゃあ良かったのに」

「そんな奥様を煩わせるほどのことではありませんわ」

「でも、根に持っているでしょうに」


 そうお勝に言われたお市は恥ずかしそうに笑い、聞いていたみんなも笑った。

 重い空気がいく分軽くなり、物騒な話はこれでおしまいと

お勝に終止符を打たれた。


 他愛もない雑談と食事を済ませた惣一朗と志乃が

離れに戻る途中、志乃がだしぬけに言い出した。


「さっきの話、うちは何があっても大丈夫ね」

「何のことだい?」

「世の中が物騒でも、うちには私と惣一朗さんの二人の強者が居るって事よ」


 何を言い出したかと思えば、自分も何かあったら闘うとでも言っているのか。

 呆気に取られた惣一朗は渡り廊下の途中で立ち止まり、

志乃の顔を心配そうに見つめた。


「お願いだから、物騒な事を考えるのはやめてくれ。

 君が思っている以上に強い人間は多いんだよ。

 しかも今はピストルを持っている奴もいるんだから」


 そんな惣一朗の心中をよそに、志乃は庭の隅に置いてある草履をはいて

中庭に出た。

そして蔵に立て掛けてある棒をひょいと握ると惣一朗に向かって構えて見せた。


「だったら私にかかって来てみて」


 どういうつもりか、志乃は何やら嬉しそうに惣一朗を誘っている。

 志乃から薙刀を習っていた事は聞いていたが、

実際手合わせをすることもなかった惣一朗は、

半ば呆れたように自分も草履を履いて中庭に出た。


「ここで俺に勝負しようって言うのかい?お転婆さん」

「いけない?だって惣一朗さんは私の事を信じていないから、

そんな顔をするんでしょう?だったら手っ取り早く確かめてみて」


「やれやれ、怪我をしてもしらないよ」


 惣一朗は竹刀の代わりにほうきを反対に持って、

とりあえず構えの姿勢をとった途端、「パシッ」とほうきを突かれて、

惣一朗の手から危うく枝が落ちそうになった。


 甘く見ていた上に、志乃動きが思った以上に早く、

惣一朗は本気でほうきの枝を握る羽目になった。


 よく見ると志乃の構えに隙は無く、上級者の構えだ。

 惣一朗が舌を巻いていると次々と、志乃から攻撃を仕掛けられ、

防御に徹していたか弱いほうきはすでに悲鳴を上げていた。


 とうとう四打目でほうきは耐え切れず、バリバリと割れてしまった。


 ほうきに気を取られた志乃が、思わず動きを止めたその隙に、

惣一朗は素早く志乃の脇に滑り込み、後ろから棒を握る手を押さえ、

もう片方の手は志乃の腰に回した。


「あっ惣一朗さん、卑怯だわ!これじゃあ勝負にならないわ!」

「これ以上やったら本当に怪我をするよ。君が強いのは十分わかったから」

「だったら離して、まだ勝負はついていないわ」


「やれやれ、本当にお転婆さんだな。

 外でケンカしている時に割り込んだとして、こんな風に抑えられたら

ひとたまりもないだろう。世の中、正々堂々と勝負してくれるとは限らないんだよ」


「あ、そうか。物騒ってそういう事を言うのよね」

「まったく君って人は、本当に可愛いいね」


 惣一朗に可愛いと言われた志乃は、赤面し恥ずかしさのあまり

惣一朗から離れようと身をよじった。


 急に身をよじったものだから、庭の敷石につまずき

志乃は後ろに体がよろめいて倒れそうになったが、

それも難なく惣一朗に受け止められて転ばずに済んだ。


「ほら、言っている傍から危ないだろう」

 抱きとめられて、惣一朗を見上げる恨めしそうな志乃の上目遣いが、

なんとも愛らしく、思わず惣一朗は吹き出してしまった。


「笑わなくてもいいじゃない。ひどいわ、惣一朗さん!」

「ごめん、ごめん。あんまり君が可愛いいからつい・・・」

「もうそんな言葉じゃ騙されないわ!私のこと馬鹿だと思って笑ったんでしょう。私にも判るわ!それくらい」


 志乃は本気でプンプンしているようだったが、

惣一朗にはそれさえも愛おしく思えた。

 そんな志乃をなだめながら惣一朗は離れに帰って行った。


・・・・・・こんな風に自分が思うなど、一年前には想像もしなかった。


 実際、志乃との暮らしは一緒に暮らしていなかったのが不自然だと思うほど、すんなり惣一朗の中に入って来た。

 志乃は毎日よく面白い話しを聞かせてくれた。

 どんなに忙しかった日でも、志乃と夜を語らうだけで

疲れも取れて心も休まった。


 高倉家のどんな場所の中でも、彼女が居るだけで、

自然と自分も溶け込むことが出来た。

 

 そんな中で驚いたのは、世の女性たちが着飾る楽しみを持つ中で、志乃はそれにはまったく興味を示さず、お市やお勝が選んだものを、そのまま着ていた事には本気で驚いた。

 自分の好みはないのかと聞いた所、考えるのが面倒くさいと答えたのには笑った。志乃の興味は全て『外』と惣一朗だけに向けられており、そんなところも惣一朗は好ましく思っていた。



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