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結婚式


 その日は梅雨も終わり、カラリと良く晴れた初夏、

日差しは眩しいがその頃の東京は、まだ七月でもさほど暑くもなく、

夜は涼しいくらいの気候で、見事な結婚式日和となった。


 結婚式の七月一日までの日々は、慌ただしく過ぎていき、

 瞬く間とはこの事を言うのだと、志乃は追われるように毎日を過ごし

気が付けば今日のこの日を迎えていた。


 神田明神は二人の晴れ姿を一目見ようと、大勢の見物人が押し寄せて、

まるでお祭りの様な賑わいになっていた。


 そこへ人力車に乗った花嫁が、美しい絹の刺繍をふんだんに織り込んだ

白無垢姿で降りてきた。

 額には大きな角隠しを目深にかぶり、表情は見せないのが作法である。


 仲人の婦人に手を引かれ、ゆっくりと神宮内の門前で待つ、

紋付き袴を着た凛々しい新郎、惣一朗の元へと導かれて行く。


 だが志乃は待ち切れずに顔を上げてしまった。

途端、群衆から大きなため息にも似た、甘い声が辺りに響いた。


 子供の誰かが思わずつぶやいた。

「まるで、天女様だ…」


 そう、それほどまでに化粧をした志乃の花嫁姿は美しく、

これほどにあでやかで美しい花嫁はなかなか見られるものではない。


 皆、志乃の境内の玉砂利を踏む足音、草履の擦れる音にすら耳を傾け、

着物の端からわずかに見える指先の細さ、

進んでいく仕草の一つ一つに息を呑み、その見事なまでの美しさに

目を奪われなかった者など一人もいなかった。


 やがて待っていた惣一朗の元へとたどり着き、

惣一朗が志乃のその手を取った瞬間、大きな歓声と拍手が沸き上がった。


「おめでとう!おめでとう!」


 式はこれからだと言うのにこの盛り上がり様、盛大な拍手と歓声の中、

志乃と惣一朗はお互いに微笑みながら式場の中に入って行った。


**********************************

 

 式も滞りなく終わり、高倉家では祝宴の真っ最中だった。

 さすが酒蔵とあって帰るものは誰もおらず、宴は夜通し続く勢いである。

重蔵はよほど嬉しいのか、惜しみなく上等の酒や肴を存分に客たちに振る舞い、

もてなし続けていた。


 朝から大忙しの志乃と惣一朗は一足先に失礼して、

改築の終えた高倉家の離れに構えた新居にて、二人で一息ついていた。


「志乃さんお疲れさま。皆さんものすごい酒豪で、

断っていないと、あのまま酔いつぶされるかと思ったよ」


「お式ってあんなにお酒を飲まされるものなのね。

うちのお父さんも普段は全然飲まないのに、あんなに飲んでいるは初めて見たわ。

それにしても本当にいいお式だったわ・・・・・」

「そうだね、君のご両親には本当に感謝しても、し尽くせないよ」


 二人は縁側の椅子に向かい合わせに座り、惣一朗は酔い覚ましの水を

飲みながら、満月を見つめて想いにふけっているようだった。

 志乃はそんな惣一朗を夢見心地で見つめながら、

うっとりと幸せに酔いしれていた。


「どうしたの?眠くなった?」

「あ、いえ、まだ、大丈夫です」

「こっちにおいで」


 惣一朗は水の入った湯呑を置き、志乃に向かって両手を広げた。

 だからといってどうしていいか分からず、もじもじしていると、

惣一朗が椅子から立ち上がり、志乃の前にきてしゃがみ、

その長い黒髪の束をそっと手に絡めて口づけをしてくれた。


「やっと君に触れられる」


 真っ直ぐに自分に向けられる惣一朗の視線とその言葉に、

何と答えていいか分からず、恥ずかしさでうつむいていると、

志乃の髪を優しくなでながら惣一朗は話し出した。


「君は本当に綺麗だ。あの時もそう思ったよ」

「あの時・・・・・?」


 志乃は恥ずかしそうに顔を上げ、惣一朗をわずかに見上げた。

 目の前の惣一朗はいつもにも増して男らしく見えた。


「二年前かな、正月前の朝。道場で稽古している時に見えたんだ、

朝日を浴びて輝いて立っていた君を」


「それ、私だわ」

 志乃はなんの根拠もなく、それが自分だと直感した。


「そうだよ、忘れもしない君だった。その後、毎日の様に見に来ていたね。

あれから俺も気になって、外から見える場所で稽古をする様になったんだよ。

その後偶然、慶応塾の使いで神保町の文具店に行った時に

、店から出てきた君を見付けたんだ。それで店主に君が来る日を尋ねておいたんだ」


「じゃあ、あの小筆は・・・・・。」

「偶然じゃないよ」


 さすがに照れたように、惣一朗は頭を掻きながら白状した。

「店主に、もし俺の事を聞かれたら、名を教えて欲しいと頼んでおいたんだ」

「私、あれから何度もあなたを捜しに文具店に行ったわ」

「ごめん、あの後色々あって、行くに行けなかったんだ」


 志乃は胸が熱く締め付けられた、あの時の辛さを思い出し、

握りしめた両手を胸元に当て、小さく背中を丸めた。

 その背中に惣一朗は手を添えて告白した。


「言っただろう、ずっと見ていたって。君は俺の初恋の人なんだよ」

「初恋・・・・・・・・・・。」


 そうつぶやき、おもむろに顔を上げた志乃の瞳から、

一筋の涙が流れた。


 『初恋』 


 志乃にとって初めて聞くその短い言葉は、訳もなく胸を苦しくさせ、

なぜ自分が泣いているのかさえ分からなくさせた。


 惣一朗は月光に照らされた輝く涙の美しさに、

しばし言葉を忘れて見とれていた。


 短い沈黙の間、志乃も長い間、自分が惣一朗に恋い焦がれていたことを、

それが初恋だったことを、今更ながら気が付いた瞬間だった。


「私・・・・・私も、惣一朗さんが初恋です・・・・・・・・・・」


 消え入りそうな声だったが、志乃も、自分の想いを

惣一朗に伝えることができた。


 惣一朗は優しく髪をなでながら微笑んだ。

「ありがとう。もう泣かなくていいんだよ。

これからはずっと一緒に生きていこう」

「はい・・・、はい・・・・・・・・・・」


 志乃はそれだけ言うのが精一杯で、惣一朗は志乃の涙をそっとふき、

今度はその目元に口づけをしてくれた


 そしてそのまま用意されてあった布団に、惣一朗は志乃を抱いて運び、

その夜二人は結ばれた。

 志乃は今まで気が付かなかった色んな感情と惣一朗の温もりと安堵感とで、

すぐに眠りについてしまった。


 かすかに覚えているのは、自分の名を呼びながら優しくなでる

大きな手の心地よさと、体を押される様な、にぶい痛みがあった事くらいであった。


***********************************


 翌朝、目を覚ますとすでに太陽は高く昇っており、見慣れない天井だが

いつも自分が使っている机や着物が掛けてあった。

何だか頭がぼんやりして下腹部が痛い。


 隣はもう一組の布団が、すでに綺麗に片付けられていた。

うそ!・・・・・なんてこと!私は昨日、惣一朗さんと結婚したのに!


 志乃は慌てて布団から飛び起きると、敷布団にはわずかだが血が付いていた。

 月経にはまだ早かったはず・・・・・・?


 思わず自分の浴衣も見渡したが何も付いていなかった。

 敷布団掛けを外しながら、友人の多江が内緒話のように、

学校を辞める時に言っていたのを思い出した。


「これって、多江さんが言っていた処女の・・・・・・・・・・」


 そこまで言いかけて、昨晩自分が惣一朗と初夜を迎えたのを思い出した。

 だが記憶があいまいで、ただ寝心地よかったくらいしか覚えていなかった。


(あああっ!どうして私って、いつも肝心な時にこうなの!)

 と自己嫌悪に陥ったのもつかの間、朝から惣一朗とどんな顔で会えばいいのか、

恥ずかしくて敷布団掛けを握りしめたまま、部屋の中をうろうろしていた。


 惣一朗に会うのも恥ずかしいが、両親に会うのはもっと恥ずかしい。

 奉公人達もきっと知っているだろう。


 奥手の志乃にはこの手の知識は皆無と言っていい、いや拷問に近い。

女学校でも恋話になると、いつの間にか居なくなり、

志乃の耳に入る事はほとんどなかった。


 朝からどう接していいか分からず、部屋から出られずに考えあぐねていると、

渡り廊下をわざと足音を鳴らしながらお勝がやって来た。


「これ志乃!お前という娘は自覚が足りない!惣さんなんて五時には起きて、

巻き割りまでやってくれたのに、この娘は~!」

「五時?どうして起こしてくれないのよ!お母さんの意地悪!」


 お勝は苦笑した。新婚の家庭に起しに来るほど野暮ではない。

なのに『意地悪』と言ってふくれる娘に少々嬉しくもあった。


「さぁさ、早く着替えて!惣さんがね、志乃が疲れているだろうから

もう少し寝かせておいて欲しいと頼むからよ。

だいたい新婚所帯に来させて『起こして』はないだろう」


 そう言うと、志乃が握りしめている敷布団掛けをさっと奪い、

呆気に取られている娘を尻目に母屋に戻って行った。

 やはり母にはかなわない・・・・・。


 身支度を整え、気まずそうに母屋の茶の間入ると、

すでに惣一朗は食事中だった。

「お早う、よく眠れた?先に頂いているよ」


 志乃に微笑む、さわやかな惣一朗の顔を直視できず、

志乃は目線を反らしながら

「お早うございます、すみません・・・・・」とだけかろうじて言えた。

「謝ることないよ。俺は早起きに慣れているから自然と目が覚めてしまうんだよ」


 そこへ志乃の朝食の膳を運んできたお市が

「おはようございます、お嬢様。さっ、お嬢様の朝げをお持ちいたしましたわ、

若旦那様とご一緒にどうぞ」

と、わざわざ惣一朗の隣に膳を置いてくれた。お市はいつもと変わらない顔をしていた。

「ありがとう、お市さん」


 志乃は恥ずかしそうに惣一朗の隣に正座し、視線を感じて隣を見た。

志乃を見つめる惣一朗の瞳はとても優しげで、志乃は慌てて自分の膳に視線を戻した。


 そんな志乃の目の前にお勝が座っており、惣一朗に話しかけた。

「惣さん、昨日はあなたの立派な姿にみんな羨んでいたわ!

宴の席ではずっとその話題で大盛り上がりだったのよ!私も鼻が高いわ」


「お誉めにあずかり光栄です。高倉の名に恥じにないように、

更に精進してまいります」

「さすが惣さん立派だわ!でも堅苦しいのはなしよ、夫だけで沢山だわ」


 これには志乃も笑い、緊張もいく分和らいだ。

「ご家族みなさん、仲がよろしいのですね。昨日は姉上の芳乃様と

ご主人の諏訪様もご出席されていましたが、宴席にはお出にならずに、

お帰りになったのですか?」


「ええ、諏訪様は内閣府の官僚でしょう、酔った人達に絡まれるのが嫌なのよ。

たまには、はめを外せばあの顔も少しはましになるのに」

「仕事柄、お立場がおありなのでしょう、仕方のない事です」


「惣さんは本当に理解があるのねぇ、私は、お役人はどうにも好きになれないわ」

「お母さん、朝から言い過ぎよ。まだお酒が残っているの?」

「ご免なさいね、私も酒が残るなんてもう齢かしらねぇ、

早く隠居させておくれね。ではお二人さん、ごゆっくり」


 そう言うと食べ終わった自分の膳を持って、

さっさと居間から出て行ってしまった。

 急に静かになった部屋には、志乃と惣一朗の二人きりになってしまった。


 気まずい雰囲気に耐えられず、志乃が惣一朗に話しかけた。

「あの、お父さんは?」

「旦那様なら早朝から出掛けられたよ」

「旦那様じゃないわ、お義父さんよ、あ・な・た!」


 と、この場の困った空気をほぐすつもりで志乃は冗談めかして言った。

すると惣一朗は「こらっ!」と笑いながら志乃を急に押し倒してきた。

 

 突然の事に驚いたが、惣一朗が笑うので、志乃も途端に緊張がほぐれて

一緒に笑った。お互いをぎゅっと抱きしめながら。


「嬉しい・・・・・本当に惣一朗さんが家に居るのね・・・・・」

「君も俺の腕の中にいる」

「うん・・・・・」


「失礼します」

 急に扉が開き、二人が抱き合いながら畳の上で横たわっている姿を、

茶を運んできたお市にしっかりと見られてしまった。


「きゃあ!」

 志乃とお市は同時に叫んだが、お市の方が数倍、動きが早かった。


「失礼しました!」

とお市は素早く扉を閉めてその場を去って行った。

 志乃は恥ずかしさのあまり惣一朗の腕の中で顔を覆い、

惣一朗は爆笑しながら更に志乃を強く抱きしめてきた。 


「見られちゃったわ!どうしよう、恥ずかしいわ!」

 と志乃は赤面しながら惣一朗の腕の中でもがくが、

そんな志乃には一向に構わず、惣一朗はしきりに笑い続け


「いいじゃないか、俺達はもう夫婦になったんだから。結婚してしばらくは

『新婚』と言って、何をしても大抵は大目に見てもらえるのを知っているかい?」


と今度は真面目な顔をして志乃を諭としてきた。

すでに涙目になっている志乃は、大きな瞳で惣一朗を見上げて心細そうに聞いた。


「そうなの?」

「そうだとも!」

そう言うと、また惣一朗は子犬を抱くように志乃を全身で抱きしめてきた。


「もう!惣一朗さん。ご飯中よ!ご飯!」

 真っ赤になった志乃の必死な声と、惣一朗の笑い声が

しばらく居間の外まで響き続けていた。


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