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結納の日




 結納の日までは慌ただしく、あの日以来、志乃は惣一朗と

会う事は無かったが、お互い文のやり取りを交わしていたので、

淋しさよりも次に会える楽しみの方が増していた。


 そして学業にも自然と熱が入り、結婚したら中退するとの

約束もあったので、今まで以上に熱心に夜遅くまで机に向かって

勉強に励んでいた。


 そしてとうとう結納の朝、また寝不足の顔で起きてきた志乃に、

椅子に座って帳簿に目を通していた重蔵が、志乃の顔をチラリと見て言った。


「志乃、また遅くまで本を読んでおったのか?」

「お早うございます、お父さん。今日はいい天気ですね」

「相変わらずのん気だな、志乃は」


 それだけ言うと茶をすすり、また帳簿に視線を戻した。

 そこへ大声でいつものように近づいて来たのは母だった。


「志乃!今頃起きてきたの?今日が何の日か忘れたの?

 まったくもう、早くご飯を食べて支度しないと遅れてしまうわよ!」


「え?だってお昼からでしょう?まだ時間は十分あるわ」

「何を言っているの、この娘は!結納って何だか分っている?

 姉さんの時を忘れたの?」


「・・・・・・忘れちゃったぁ」

「――――!この娘はぁ!」


 隣で茶を飲んでいた重蔵が、ぶほっと茶を吹き出した音に、

志乃とお勝は驚き、お互いに顔を見合わせて笑い出した。

 どんな時にも動じない重蔵が、初めて見せた動揺だったからだ。


 志乃は母にせかされて、慌てて着替えてるとお腹にお茶づけを流し込み、

着付けも髪結いも、外の専門の職人の所に行き仕上げてもらった。


 これは確かに時間が足りないと、ようやく志乃も気が付いて

焦り始めた頃、全ての支度が整い、河野家に向かう準備が出来た。


 家で待つ重蔵と一緒に人力車で河野家に向かうと、

すでに河野と惣一朗、数人の奉公人が道場の門前で志乃達を待っていた。


「お待たせいたしました。遅くなり、あいすみません」

「いえ、いえ。まだ半刻もあります。お待ちしておりました。」

「お初にお目にかかります。志乃の父、高倉重蔵と申します」

 父は深々と河野と惣一朗にも頭を下げた。


 こんな父を見るのは姉の結婚式以来だが、

まさか自分の時も父がこうするとは思ってもいなかった志乃は、

なんだか妙な気分になった。


 それよりも志乃は久しぶりに会う惣一朗をじっと見ていたが、

惣一朗はこちらを見ることなく、ずっと両親の相手をしていた。

 そこへ河野が志乃へ近づいて来た。


「志乃さん、この度はおめでとうございます。さっまずは中へどうぞ」

「はい、ありがとうございます」


 道場の中に入るのは初めてだ。

もちろん結納は隣の屋敷で行われるのだが、この道場で

いつも惣一朗が稽古をしていたと思うと、感慨深い気持ちで一杯になった。


 ここの垣根で惣一朗を見つめ続けて二年半・・・。

 まさか自分にこんな日が訪れるなんて夢にも思っていなかった。



 屋敷の中へ通されると、そこには仲人らしき夫婦がすでに上座に座っていた。


「遅くなりました、福沢先生。この度は仲人をお引き受け下さり、

感謝に堪えません」

「本当に先生にお引き受け頂けるなんて、娘にはもったいなく、

光栄の極みでございます」


 志乃の両親はそれぞれ感謝の言葉を口にし、

仲人夫婦に両手をついて深々と頭を下げた。


「いえいえ、こちらこそ高倉さんと惣一朗君の為です。

 仲人など造作も無い事、こちらこそめでたい席に呼んで頂けて

喜ばしいかぎりです」

 

 志乃は福沢諭吉本人を見るのは初めてだった。

 座っていても大柄なのは一目でわかるほど体格がよく、

落ち着いた物腰で知性が顔に出ている中年の男性であった。


 福沢は志乃を見てニコリと笑うと志乃は慌てて会釈した。

 姉の芳乃の時はどこかの偉い大臣でふんぞり返っていたのを

子供ながらに覚えている。


 志乃はいつか福沢に会えたら聞きたいことが山のようにあったのだが、

いきなりこの席で会えるとは思ってもいなかった動揺と衝撃とで、

志乃は緊張と混乱の中にいた。


 とうとう整理のつかなくなった志乃の頭の中は真っ白になり、

いつものように、志乃の思考はすっかり何処かに行ってしまった。

 そうとは知らない大人たちは早速、結納の口上をし始めた。


 ・・・・・気が付いた時にはすでに終盤に差し掛かり、

志乃はまたもや母に小突かれ、ハッと我に返る始末。


「返事よ!返事!」母がお辞儀をした姿勢のままで

志乃にそっと小声で促したので、元々うつむいていた志乃は

緊張でまともに声が出せなかったのが、今回は幸いした。


「よ、宜しくお願いいたします・・・」


 志乃はやっと聞き取れるくらいの、か細い声でうつむいたまま返事をした。

「奥ゆかしいお嬢様ですね」と福沢は微笑んでくれた。

 

 それが終わりの言葉だったのだろうか・・・・・、

その場の雰囲気が途端に和み、無事に結納は終わった。

 別室に会食が用意されており、皆そちらへと移動を始めた時、

惣一朗が志乃に近づいて来た。


「志乃さん、今日も一段と綺麗だね、見惚れてしまったよ。

正式な場だったからすぐに話せなくて・・・久しぶりに会えて嬉しいよ」


 惣一朗は、久しぶりに見る優しい笑顔で話しかけてくれた。

 志乃は先程の重々しい雰囲気に圧倒されて、

何をしていたのかまったく覚えていない始末だっただけに、

惣一朗の声でやっと正気を取り戻したのだ。


 ・・・・・志乃が上げたその顔は、猛獣の檻からまさに救い出された、

そんな顔をしていた。


 首を傾けて志乃の顔を覗き込んだ惣一朗は、心配そうに

「どうしたの?緊張して気分でも悪くなった?大丈夫?」

と、しきりに気遣ってくれた。


 志乃は自分自身、もっと物おじしないしっかり者だと思っていただけに

知らない作法やしきたりと、立派な大人達に圧倒されてしまった自分に

情けない気持ちになり、つい惣一朗にわがままを言ってしまった。


「だって皆さん堂々としていて、惣一朗さんも大人みたいで

私だけ子供で・・・ズルイわ」


 それだけ言うと、惣一朗に会えた嬉しさよりも

たまらなく泣きたくなった。


 そんな志乃の気持ちを知ってか知らずか、

惣一朗は志乃の頭をポンポンと軽くなでながら、諭すように言った。


「結納は私だって初めてで緊張したよ、誰でも知らなくて当然だよ。」

「でも、惣一朗さんはちゃんと立派に出来ていたわ」

「当たり前だよ、高倉家に恥をかかせられないから、

師匠に教わって練習したんだよ」


『恥をかかせられない』・・・・・ああそうなんだ・・・・・。


 志乃は分かっていたはずなのに、あまりにも自分が子供過ぎて

何でも親任せにしていたことを改めて思い知った。


(私って本当にだめだわ、惣一朗さんは杉田も河野の姓も捨てて、

高倉になると決心してくれているのに、私ときたら自分の事ばかり・・・・・・)


 そう思った途端、自分の愚かさを痛感して無性に恥ずかしくなり、

また逃げ出したくなった志乃はうつむいてしまった。

 だが惣一朗は微笑み、そっと耳元でささやいた。


「君は君のままでいいんだよ」


 驚いて見上げた惣一朗の眼はとても優しく、

ありのままの志乃を受け入れてくれているようだった。

 そして志乃の手を取り、皆が待つ会食の部屋へと案内してくれた。


 志乃は、惣一朗の為にも早く大人になろうと、今日この日、

心の底から思った。


 



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