表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/61

待っていた客人


早朝から会っていたというのに、楽しい時間はあっという間に過ぎ、

もう帰宅時間が迫ってきていた。


 家への帰り道は朝とは対照的に二人とも無言に近く、ただ草履の擦れる音だけがやたら耳に響いてきた。

 またいつでも会えるのに、別れがこんなにも辛いものだと、志乃は初めて知った。

これが『せつなさ』という感情なのだと。


あの角を曲がれば高倉家だ。先に口を開いたのは惣一朗だった。


「今日はありがとう。楽しかったよ」

「私こそ誘ってくださって、とても嬉しかったです」


 ぎこちない会話が終わるころ、高倉家の玄関の前に着いてしまった。

 惣一朗は先日の挨拶も兼ねて一緒に玄関を開けた。


「ただいまー」

「遅くなりました。ただいま戻りました。」


 声を聞きつけて先にやって来たのはお市だった。


「お帰りなさいませ、お嬢様。あら?そちらが若様・・・?」

「ええ、惣一朗さんよ。惣一朗さん、こちらはうちの台所を任せているお市さんです」

「河野惣一朗と申します。どうぞお見知りおきください」惣一朗はお市に会釈した。


「そんなもったいない!志乃お嬢様の旦那様になられる方が、私どもにその様に頭をお下げになるなど、お辞めください!」お市は慌てて土間の脇に土下座をした。


 惣一朗は慌てて頭を上げて欲しいとお市を促しているところへ、お勝がやって来た。


「ああ、惣一朗さん、志乃、お帰りなさい。さぁ二人とも上がって頂だいな」

「いえ、私はここで失礼いたします、先日はありがとうございました」

「そんな気を遣わなくていいのよ、もうすぐここはあなたの家になるんだから。それに少しお話もあるのよ。ちょっとだけ上がって下さいな」

「それではお言葉に甘えて、失礼いたします」


 母、お勝の気さくな人柄に、逆に気遣いは無用なのだと悟った惣一朗は素直に従うことにした。

 惣一朗は、いまだお勝に聞けずにいるが、道場の近くで転んで倒れていた女性を助け、後にそれが見合いの席で志乃の母だと知った。

 あれは偶然ではなかったのでは・・・・・・と気になっていたのだ。だからこその突然の見合い話なのだろうか。

 何にせよ、自分を見込んで婿にと選んでくれたのは正直、有難い話しだった。

 志乃は少しでも惣一朗と一緒に居られる時間が長くなり、嬉しくて隣で母と惣一朗を眺めてぼんやりしていた。


「志乃、何をボケっとしているの。奥の客間に惣一朗さんを案内してあげてお市さん、お茶をお願いね」

「はい、奥様」お市は台所に行く前に志乃に、小声で耳打ちをして行った。

「想像以上に素敵な殿方じゃありませんか」


 家の廊下を惣一朗と二人で歩く。考えた事もなかった。自分の家なのに、他人の家に居る様な不思議な気分で客間の扉を開けた。


 そこには田口呉服店の主人が、待っていたとばかりにこちらを見て座っていた。


「あっ田口のおじ様?」

「やぁ志乃さん大きくなりましたね、それにずいぶんとお綺麗になって!」

「やだわ、おじ様。いつも冗談ばっかり」


 親しげに話す二人を、惣一朗は横に立って見ていた。

 田口はすっと立ち上がると、満面の笑みを浮かべながら両手を広げ、惣一朗に歩み寄ったかと思うと、いきなり惣一朗の肩をつかみ、背中をバンバンと叩きながら


「君が高倉の旦那様が待ちに待った婿殿だね!噂通りの美男子じゃないか!いゃあ、これはりっぱな紋付袴を準備しないと見劣りしてしまうねぇ!

 志乃さんもお綺麗すぎて芳乃様以上の物を準備しないと、店の名折れと言われてしまいそうですな!」


 と田口に返事に困るお世辞言葉を並べられ、二人が呆気に取られていると、田口ははしゃぎ過ぎたと改めて、

「このたびは河野様、志乃様、ご婚約おめでとうございます。職人一同、丹精込めてご婚礼衣装を仕立てさせていただきます。今日は河野様がいらっしゃると伺い、ご挨拶にと参いった次第です」


「あ、私も挨拶が遅れました。河野惣一朗と申します」

「婚礼衣装・・・・・」


 志乃は聞き慣れないその言葉をつぶやき、惣一朗の顔を見た。

 すると惣一朗もさすがにその言葉にひるんだのか、赤面して志乃から視線を外した。

 志乃もそれに気が付き、慌てて同様に反対方向を向いて赤面した。

 

 それを見て、益々上機嫌なのは田口だけであった。

「ははははっもう初々しくてお似合いのお二人ですな!」


(初々しい…)まさかこんな形で一本とられるとは思っても見なかった惣一朗は、大人の言葉の上手さに内心、冷や汗をかいてしまった。


 そこへお茶を運んできたお勝とお市が部屋に入るなり楽しそうに会話に入って来た。

「あらあら、楽しそうです事、もう盛り上がっていますの?」

「いやいや、先が楽しみですなぁ高倉さん、こんな立派なご子息、どちらのご紹介ですか?」

「私の古い知人の紹介でしてね。もう明日にでも婚礼をあげさせてもいいくらい、仲がよくて」とお勝もからかうように田口と笑い出した。


 志乃と惣一朗は、はもう勘弁してとばかりに、直立ったまま赤面してうつむいていた。それを見ながら

「では、近いうちに衣装の採寸に来てくださいまし」とすました顔で田口は帰って行った。

 

 志乃と惣一朗は予期せぬ来客と、恥ずかしい会話の連続に、ただ茫然と立ったままでいるので、お勝は惣一朗に椅子を勧めた。やっと二人は地に足が付いた心持になった。


「驚かせてごめんなさいね、惣一朗さん」

「あ、いえ、大丈夫です」

「ひどいわ、お母さん!本当にびっくりしたのよ。どうして急に田口のおじさまが来たの?」

「でも楽しかったでしょう?」

「そういう事を聞いてるんじゃなくて、私が言いたいのは・・・・・」

「はいはい、田口さんは先ほど急に来られて、二人の話をしたら、惣一朗さんにぜひ会いたいと言って帰らないから…仕方ないでしょう『婚礼衣装はぜ当店に』って商売の挨拶よ」

「だったら先にそう言ってよ、かえって時に玄関とかで!」

「ああ、そうよね」


 お勝はなんの悪びれもなく、気が付かなかったとばかりに掌を返して茶を飲んだ。

 このやり取りを見ていた惣一朗は、志乃は母似だなと、心の中でほくそ笑んだ。

 そしてまたお勝が唐突な事を言い出した。


「今度から惣一朗さんを『惣さん』って呼んでもいいかしら」

「はい、構いません」惣一朗もすぐに快く返事をした。

「お母―さん!」

「何よ、あなたもそうなさいよ。『そういちろう』なんて長いでしょう、『そうさん』の方が粋じゃないの!」

 

 志乃はこれ以上母とのやり取りを惣一朗に聞かれるのが恥ずかしかったので、この母に意見するのをあきらめる事にした。


「ところで惣さん。結納の日取りですが、勝手で申し訳ありませんが、先に河野先生と話し合って決めさせていただきました。ちょうど十一日後が大安なので、その日にしました」


「そんなに早くですか?私の方はまだ何の準備も・・・・・」

 惣一朗は一瞬困った顔をして、考え込んでしまった。


「大丈夫、惣さんは婿養子として高倉家に来て下さる方、全てこちらで準備いたしますから、体だけ万全に整えていて下さればいいんですよ。」

「それでは申し訳が立ちません。せめて何か贈り物でもさせて下さい」

「いえ、それよりあなたがこの高倉家をさらに栄えさせて、盤石なものとして下されば、それ以上の贈り物はありません。何より、志乃を幸せにして下されば、親としてこれ以上望むものなどありはしません」


 お勝の優しい心遣いと、自分への全幅の信頼を感じた惣一朗は心を打たれた。

「…なんと、有難いお言葉を。この惣一朗、神明に誓って志乃さんを幸せにしてみせます」


 惣一朗は椅子から立ち上がり、お勝の傍へ行き、その場で正座して深々と頭を下げた。

その礼儀正しさにお勝もうんうんと嬉しそうに何度も頷いていた。志乃はその光景をまるで夢を見ている気分で見つめていた。ただこみ上げてくる感動だけが、全身に湧きたっていくのを漠然と感じていた。


 その後、結納の段取りを簡単に説明し、当日は夫の重蔵も出席する旨を伝えて、お勝との話しは終わった。志乃は惣一朗が見えなくなるまで、ずっと玄関の前で手を振り続け、家に入ると夕飯の支度が出来上がっていた。


「素敵な殿方でしたわー」先ほどからお市はそればかり繰り返して飯を食べていた。

「本当に、今日もまた見直したわ、本当にいい青年よ!」お勝も親ばか丸出しである。

「何よ、惣一朗さんは売り物じゃないわよ!」


 皆があまりにも惣一朗を褒めるので、ムキになるところがまだまだ子供な志乃である。

「誰も取って食いやしないわよ、もう一人占めかい?志乃」


 これには奉公人の皆が大笑いした。高倉家では当時としては珍しく、慌ただしい朝は別として、夕食だけは家主と奉公人が板の間と茶の間を挟んで共に食していた。これはお勝が嫁入りしてから決めた事だった。


 食事を介して奉公人と普段出来ない世間話をする。そのせいか、みな高倉の為に良く尽くし不平を言う者もおらず、どんな重労働も快くやってくれた。人が一番の財産だとお勝は自身の境遇から知っていたのだ。そんな母の娘が一風変わっていても無理はなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ