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お見合いから三日後



 志乃は朝から落ち着かず、昨晩もあまり眠れなかった。何度も襟元や髪を結い直してそわそわしていた。

そんな志乃を見かねたお勝が


「志乃、いい加減におし。出る前に気疲れしてしまうわ」とため息交じりに呆れて言った。

「だって落ち着かないんだもの、どこか変じゃない?」

「十分お綺麗ですよ」とお勝と同じく呆れ気味のお市が言った。

「お世辞じゃなくて、本当のことよ!」

「お前、鏡に映る自分を見てどう思うの?」

「どうって言われても、分からないから聞いているんじゃない!」


 と母の問いに困り顔で答える志乃は、やはり自分が周囲からどの様に見られているのかまったく分かっていないのだ。


「もういいから、大丈夫だから、早く行きなさい・・・・・・。」

「えっ?だってまだ七時半よ、いくら何でも早すぎるわ」

「きっと惣一朗様も早くいらっしゃっている様な気がしますわ」とお市も勧めてくれた。


 単純な志乃はそうかもしれないと思い、巾着を片手に嬉しそうに足早に玄関に向かった。

「帰りは必ず送ってもらうのよ、帰宅は四時よ。」

「子供じゃないんだから一人で帰れるわ」

「駄目ですよ、お嬢様はもう婚約されたのですから、夕方に一人で歩かれたら危ないです」

 

 それにと、お市が近づいてきて小声で志乃の耳元につぶやいた。

「私も若様に会ってみたいです」

 志乃は頬を染めながらも嬉しそうに頷き、今日も元気に高倉家を後にした。


 神保町の文具店はにぎやかな古書店街の一角にある。緑豊かな公園や学生たちでにぎわうその町は、江戸の風情をまだなお残し、だが行き交う人は洋服を着た者が多く、看板も横浜を見習って西洋風の物が多く立ち並び、その独特さは志乃のお気に入りであった。

 

 今日は着物を着て、長い腰まで伸びた黒髪には、桜色の西洋サテンの長いリボンが結ばれていた。そのリボンは風になびくごとに、志乃の美しさを一層引き立てていた。


 歩きながら惣一朗が居るか居ないか、花びら占いの様に考えながら到着したが、待ち合わせまでまだ一時間以上も早い。さすがに居るわけがなかった。かすかな期待は落胆変わったが、待つのも楽しいと思い直した直後、突然横から声を掛けられた。


「やっぱり志乃さん、ずいぶんと早いですね」

「あっ惣一朗さん、お早うございます」

「お早うございます」

「惣一朗さん、ずいぶんと早いんですね」


 志乃の質問に惣一朗は笑った。今しがた自分が同じ質問をしたばかりだというのに。

「ええ、道場に居ても落ち着かないので、早めに出てぶらりとしていました」

 志乃はその言葉に胸が躍った。惣一朗もまた、自分と同じ気持ちなのかと。

「志乃さんもずいぶん早いですね、十時でも良かったんですよ」

「私も落ち着かなくて・・・・・・。」

 

 そういうと二人はお互いに少し恥ずかしそうに笑い合い、なんとなく歩き出した。

「今日は天気も良くて良かった」

「ええ、本当に気持ちのいい日だわ」

「そのリボン」

「え?」

「君に良く似合っている」

 

 このリボンは今日の為に散々悩んで、自分でやっと決めたものだった。いつもはお市に選んでもらったものを気にもせずに付けていた。

 だからそれを一番に気付いて褒めてもらえたのは嬉しい反面気恥ずかしくもあった。なんだか心の中を見透かされているようで…。

「ありがとうございます」志乃は頬を染めながらポツリと答えた。


 見合いの時には気が付かなかった志乃の身長は、惣一朗の肩の辺りだろうか。抱き上げた時にその体の細さは分かった。

 誰が見ても美しい少女が、自分の言葉一つで頬を染め、とても初々しい仕草には新鮮さを覚えた。今まで近寄って来た女達はみな着飾り、自分の気を惹こうと色目を使うだけの、うっとおしい生き物だった。 だが志乃と歩く惣一朗はとても穏やかな気持ちになり、こんなにも素朴で美しい商人の娘が世の中に居たのには、正直驚いた。


 この春風のような少女が、頑なだった自分の心を少しずつ溶かしていくのがはっきりとわかるほど、こうも自分を惹き付けて離さないのは何故なのか、惣一朗自身不思議だった。


 惣一朗は以前、慶応塾の福沢先生が講義の中で「不自由の中にこそ自由がある」と語っていたのを思い出していた。ある意味、今の自分のような気がして妙に納得した。

 元々東京を離れるつもりだった惣一朗にとって、志乃(自由)を得て、高倉家(不自由)を背負うのならそれもいいかもしれない。それだけの価値がこの娘にはあるような気がしていた。


 しばらく他愛もない会話をしながら歩いていると、つつじが満開の隅田川付近に差し掛かると、心地よい風が吹く先の向こうに、大きな商船が停泊しているのが見えた。

 何やら荷卸しをしているのか、波止場では大勢が忙しそうに行き交っていた。それを見た志乃かだしぬけに言い出した。


「私、いつか外国に行ってみようと思っているんです」

「外国?君一人で?」

「ええ!だから女学校でも英語を習い始めているんです。まだ全然話せませんけど」


 惣一朗は正直かなり驚いた。文明開化の時代とはいえ、女子一人で異国へ行きたいと思うものだろうか?益々志乃に興味が湧いた惣一朗は、冗談半分で志乃に言ってみた。


「じゃあ私も一緒に連れて行ってもらおうかな」

志乃は横に立っている惣一朗の方を向き、驚いた表情をしたが、瞳を大きく輝かせて

「本当?本当に一緒に行って下さるの?」

「いいよ、私は英語が話せないから、そうだな、剣術を披露して日本のサムライを異国人に見せてやるのはどうかな?」


 志乃は歓声を上げて、今にも飛び上がらんばかりに興奮して賛成した。

「素敵!なんて素敵なの!じゃあ、お父さんの日本酒も持って行って、世界に広めましょう!なんて夢みたいなの!」


 確かに夢みたいな話に、こうも無邪気に喜ぶ志乃を見て、惣一朗は本当にその夢を叶えてあげたい気持ちになった。ふと、

 自分の中に忘れていた『温かい何か』がある事に気が付き、惣一朗は一瞬戸惑ったが、志乃を見て素直に今そこにある『感情』を受け入れようと思った。


「どこの国からの荷物か気になりません?なんて、きっと近場の荷物ですよね。外国船なら横浜に行かないと滅多に見られないもの」

「志乃さんは本当に外国が好きなんだね」

「ええ、だって福沢先生のご本の『西洋事情』の中に『お互いに教え合い学び合い、相手の国の便利を考えて発展を願うべきだ』と書いてあるんです。

 異国人でも同じ人間ですもの、色んな文化に触れて相手にも日本を知ってもらいたいと思うんです」


「すごいな、福沢先生の本まで読んでいるんだね。難しくないの?」

「お父さんの書斎にあったのを読んだだけです。初めは難しかったけれど、読み終えた時は世界が一変したわ!あと近藤真琴先生のご本も!今でもあの感動は忘れられません」

 

 志乃は外国の話しになると夢中になるらしい。それを惣一朗はベンチの隣の席に座り、心地よく聞いていた。

 元々惣一朗は十歳の時より杉田家の収入を担うために、福沢の慶応塾で下働きとして出入りしていた。時折り外国帰りの客たちや異国人も出入りしていたので、知らない話ではなかった。

 また、塾生が使用した半紙を燃やしたり、教材を買いに神保町に行くうちに立ち寄った古書店で字も覚え、庭掃除の傍らで講義を聞き、大抵の内容は理解できるようになっていた。

 まさに門前の小僧である。

 

 志乃は商船を見ながら、一人で話し続けていたことに気が付き、慌てて横に座っている惣一朗の方を見た。だが心配無用とばかりに、その目は楽しそうに志乃の話しに頷いてくれていた。


 「ごめんなさい。私、外国の話しになるとつい夢中になってしまって…、学校でもよくみんなに呆れられているんです」


 「私は全然気にならないよ。むしろ楽しい。女の子がそんなに詳しい方が驚きだよ」

 そう言う惣一朗の優しい視線に、志乃は胸を射抜かれたような痛みとは違う、別の感覚に戸惑いながら、恥ずかしそうに聞いてみた。


「私って、なんか変な人に見えません?」

「え?うーん、志乃さんは黙っているだけなら深窓の令嬢そのものに見えるけどね」

「それってやっぱり・・・変な人に見えるんですね・・・・・・」

「いやいや、そんな意外なところも、私はいいと思うよ」


 惣一朗の声は不思議だった。さっきからこんなにも心が揺れる…。つい十日前までは名前しか知らない遠い人だったのに、今はずっと前から知っている人のように思える。

 まるで両親や姉の様に昔から当たり前に傍に居た人・・・・・・。そんな錯覚さえ感じるのは一体なぜだろう…。志乃は若い男性とはじめて普通に話をしている自分にも内心驚いていた。


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