プロローグ
師走間近のすがすがしい朝、まだあどけなさの残る少女は、
沢山の本が入った風呂敷を抱えて白い息を吐きながら、
嬉しそうに湯島町に向かって弾むような足取りで、
皇居の手前辺りを歩いていた。
いつも買い物で母や姉とで来ている、歩き慣れた街道のはずが、
興奮のあまり昨晩は一睡も出来なかった少女の目には、
これから起こる明日への期待に胸が高鳴り、
全てが違う景色のように輝いて見えていた。
文明開化の明治八年、日本橋、神田町辺りは
朝から沢山の馬車や荷車が行き交い、
豆腐や魚売りの行商人たちの威勢の良い声が響いて何とも心地が良かった。
少女にとって良く知っている街道とはいえ、こんな早朝に家を、
しかも一人で歩いたことは一度もなかった為、
見た事のないその雰囲気の何もかもが新鮮で興味に満ち溢れていた。
もうすぐ年の瀬が近いせいか、町は一層活気付いていた。
長い黒髪をなびかせながら、下ろしたての袴の裾を鳴らして
さっそうと歩く少女の姿はなんとも早朝には似つかわしくなく、
すれ違う人の視線をちらほらと集めていた。
そんな視線にはまったく気が付かない少女は
学校までの道のりを、鼻歌交じりに楽しんで歩いていた。
暫く歩いていると沢山の音や声の中から、
遠くから竹刀の打ち合う音と、その掛け声が聞こえてきた。
普段、早朝に外出する事が無かったせいか、
こんな近くに道場があった事に全く気が付かなかった少女は、
興味の赴くまま音のする方へと歩いて行った。
次第に打ち合う音が、体に響く程の近さに差し掛かった時、
道場の瓦に朝日が反射し少女の顔を照らした。
一瞬目が眩んだが、目を凝らした先には空け放した雨戸の道場から、
激しく打ち合う稽古に励む門下生達が見えた。
その中の一人に少女は息が止まった。
いや、息を吸うのを忘れたといっていい。
少女は今までに見た事のない凛々しい立ち姿をした青年が、
こちらを向いてじっと竹刀を構えている姿に目を奪われてしまった。
もちろん少女を見ていたのではなく、
相手との構えでたまたまこちらを向いていたのであろう。
その毅然とした構えに、少女はただただ息を呑んで見つめていた。
時に少女は十四歳、名は高倉志乃。
後の国立お茶の水女子大学の前身となる
東京女子師範学校の第一期生として
開校式兼入学式へ向かう途中の出会いであった。
一年前、福島の猪苗代から秩父神社巡りの旅行に行ったときに、
車の中で突如頭の中に振って来た、嘘の様な二人のお話しです。
その時に、すでに名前も齢も、職業も、ラストまでも
まるでタイムマシンで見てきたかのように、頭の中を駆け巡り
一人で泣きながら運転したのを思い出します。
その時家族は寝ていました(笑)
そして帰って来てから、居てもたってもいられず、初めて筆を持ちました。
書いて見てびっくり、文章書けるんだ、私!みたいな(笑)
ありふれた話ですが、どこにでも居そうな二人の、
それでいて普遍的な男女の夫婦の物語です。
楽しんでいただけると嬉しいです。