殴られたような雨とキス
背後で、雨が急に鳴りをひそめた気がした。
背中を、透明な空気でラッピングされたような感覚。
もちろん、雨は変わらず降り続いていて、それは錯覚にすぎないのだけれど。
わたしは、すぐには後ろを振り返れなかった。
キソが電話口で何と言ったか、詳しいことは知らない。
アキちゃんがどこまで事情を飲み込んでいるのか、わからない。
でも、もしすべて知っていたからって、だから何?とも思った。
アキちゃんはきっと、なんとも感じない。
そりゃ、こんな時間に雨の中、しかも面識のない男に呼び出されたことには、腹が立つだろうし、立ってもいいと思う。
けれど。
わたしが嘘をついて、実は見合い相手と酒を呑んでいたとわかっても。
きっと、たぶん、なんてことない。
そう思ってはいても、嘘をついた後ろめたさはぬぐえないのか、「迎えに来てくれてありがとう」とはなかなか言い出せなかった。
そんな中、キソがわたしから手を離し、カバンを持ち替え、脇腹にその手を伸ばす。
「はじめましてー」
緊張感をなし崩すように、陽気な声を出した。
ほどなく、背後でやっぱり傘を持ち替えるようなかすかな音がして、足音がして、スッと白い手が現れたかと思うと、キソの手をしっかりと握った。
「はじめまして」
それは、まぎれもなく聞き慣れたアキちゃんの声で。
温度の感じられない、落ち着いた、透明な低い声で。
わたしは、ようやくそろそろと後ろを振り向いた。
黒い傘をさし、黒いコートに、千鳥柄のマフラーを巻いたアキちゃんの無表情な顔が肩口にあったけれど。
目は合わなかった。
アキちゃんが持ってきてくれたわたしの赤い傘をさしながら、バス停から、アキちゃんと並んで歩いた。
どちらも、黙っていた。
道路脇の街路樹の葉と、傘に当たる雨の音だけが重なって聴こえる。
ポツン、ポツン、と設置された外灯が、落下する雨の直線を浮かび上がらせている。
あまりにも息苦しくて、せめて来てくれたお礼だけでも言おうと、アキちゃんのほうを見たけれど。
アキちゃんはややうつむきかげんで、目も伏せ目がちで、口はキュッと真一文字に閉じているし、明らかに機嫌が良くはなさそうで、やめた。
謝るべきかな、と思った。
まず、仕事の邪魔をしてごめんなさい。
これは、謝ってしかるべきだろう、と納得がいく。
あとは、嘘をついてごめんなさい。
これは、どうなんだろう。
普通の恋人同士だったら、つき合っている相手が、自分の知らないところで、自分とは別の異性とふたりきりで会っているのを知ったら、当然おもしろくないだろうし、謝らなきゃいけないのも理解できる。
でも、残念ながら、わたしたちは普通じゃない。
だから、いろいろと面倒臭い。
アキちゃんの本心もよくわからないし。
それに。
厳密に言うと、わたしは、嘘はついていない。
正直に「見合い相手と会う」とは言わなかったけれど、つき合っていないという意味では、キソは「友達」とも言える。
正確には、友達ですらない、「知り合い」だけど。
なので、そうすると、アキちゃんに責められる理由は明確じゃなくなってくる。
わたしが男友達と会うのはわたしの自由だし、わたしはその友達とそれ以上仲を深めたいわけじゃないから、アキちゃんを裏切ることにはならないと思う。
違うだろうか。
そんなふうにひらき直りながら考えていると、あっという間に家に着いた。
結局、一回も会話をしなかった。
先に玄関の扉に近づき、頭上の電灯の明かりで鍵を見つけようと、バッグの中を探る。
すると、アキちゃんの手がわたしの肩に置かれた。
ぐい、と乱暴に体の向きを変えられる。
反対側の肩に乗せていた傘の柄が、ぐら、と傾く。
何?と思ったら。
アキちゃんにキスをされていた。
こぢんまりとした庭から、一段高くなった玄関先のコンクリートの上に、真っ赤な傘が落ちる。
バッグが落ちる。
雨の飛沫が跳ねる。
わたしの両手は、アキちゃんの厚手のコートの両肩にあって、押し返そうと力を入れていた。
わたしのうなじには、アキちゃんの左の手のひら。
逃げることを許さないと言うように、ガッシリとつかんで、なおも引き寄せる。
口の中に、アキちゃんが強引に舌をねじ込んでくる。
生温かくて、甘い唾液がからみつく。
ほんのりとしょっぱい味もする。
動悸が早い。
痛いくらい。
アキちゃんがさす傘の表面に当たる雨の音が、バラバラと耳に届く。
その響きにまぎれるような車の排気音に、目を見ひらく。
白いヘッドライトが雨筋を浮かび上がらせながら、我が家の前を通過して、隣の家の敷地に入った。
エンジンが止まる。
ドキリ、とした。
人に、見られる。
わたしは押し返すのを諦めて、アキちゃんの肩を、肘を曲げたままのこぶしで、ドンドンと叩いた。
目を閉じているとはいえ、アキちゃんだって物音には気づいているはずだ。
もし、隣人にこんなところを見られたら。
こんな田舎では、わたしたちの噂などたちまち広がる。
おもしろおかしく語られて、好奇の目にさらされて、きっとここにはいられなくなる。
そんなことになったら、せっかく苦労してマイホームを建てた父と、そんな父のところに来てくれたお母さんに申し訳がない。
わたし自身の仕事はもちろんのこと、アキちゃんのミュージシャン人生だって、もろく崩れ去る。
けれどアキちゃんは手を離すどころか、ますます力を込めて、舌もさらに奥へと押し込んでくる。
ドアの開閉音がした。
わたしは叩くのをやめて、ギュッとアキちゃんのマフラーを握った。
呪縛から逃れるように、肘を突っ張って、背筋をそらす。
その瞬間、腰から下の力がカクンと抜けた。
突然の激しい愛撫に、あらがいながらも、魂を根こそぎ持っていかれてしまっていたようだ。
両足も震えて、体を支えられない。
でも、はずみで、唇が離れた。
わたしからも、アキちゃんからも、思わず吐息が漏れる。
真っ白い息が重なって宙に溶ける。
勾配がついて、完全に離れる寸前、アキちゃんの液体がわたしの中にしたたり落ちた。
ようやくアキちゃんの手が離れて、わたしは地べたに両膝をついた。
雨のせいか、それとも夜も遅くそこに人がいるとは思わなかったのか、隣人はわたしたちには気づかずに、家の中へと入っていった。
安堵する一方で、アキちゃんの行動の真意が見えず、わたしはただ息づかいも荒く、アキちゃんを見上げた。
アキちゃんの今まで見たことのない冷ややかな目が、頼りない外灯の明かりに照らされる。
やがてふいっと目をそらすと、わたしを追い越し、傘をたたみ、コートのポケットに入っていた合鍵で施錠を解き、中に入った。
背後で、叩きつけるように扉が閉まる。
何?これ。
横から吹き込んでくる雨に髪を濡らしながら、わたしはしばらくその場に立ち上がれないでいた。




