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漆黒の空とアンブレラ

結果から言えば、その日も、キソを説き伏せることには失敗した。


なんだかんだ言いつつ、結局いつも彼のペースに引きずり込まれてしまう。


彼には、何か特別な力があるように思えてならない。


人に有無を言わさず自分の意見に従わせてしまうような、人に自分だけはあなたの味方だと信じ込ませてしまうような、そんな恐ろしい力。


それとも、単にわたしが愚かなのか。


キソが自分の腕時計を見やって、「あぁ、そろそろ帰ろうか」と言った時。


「じゃあ、もうこれっきりで」


わたしは腰を浮かせながら、冗談めいた口調で、かなり本気で言った。


なのに、彼は「またまた」と口角を上げて、足元がふらついたわたしのそばに寄り添って、腕を取った。


背の高い彼のスーツの胸板にわたしの頬が触れた時、アキちゃんとは明らかに違う、自立したひとりの男の人の匂いが香った。


アキちゃんが自立していないって意味じゃなくて、アキちゃんはどっちかって言うと、実直なサラリーマンではなく、夢追い人だ。


堅実に一歩一歩踏みしめて歩いていると言うよりも、どこかフワフワと浮世離れしている。


芸術家だからだろうか。


とにかく、そんな匂いの違いをふいに感じて、わたしは突然、そばの人物をはじめて男性として意識した。


「触らないでよ!」と、わたわたと手を振る。


「そんなこと言ったって、ふらついてんだからしかたないでしょ。おとなしくしなさいって」


「ひとりで歩ける!」


「この前もそんなこと言って、結局バス停まで肩貸してやったんじゃないか」


そうだったのか、とその場面を想像してゾッとする。


「今日はそこまで酔ってないから!」


それは事実で、思考もあの時とは違いしっかりしている。


歩みもしっかりしているはずだ。


わたしはキソのお節介を振り払って、店の外に出た。


雨が降っていた。





「嘘。星が出てたのに」


わたしは傘を持っていなかった。


多少の小雨なら濡れていっても構わないけど、それもためらわれるくらい、けっこうな本降りだった。


道路で雫がバチバチと跳ねる。


「夕立かな」


キソが軒先から真っ黒な空を見上げて、適当なことを、軽そうに言った。


とっぷりと夜も深まった時間に降る雨をそう呼ぶなら、そうだ。


おまけに言うと、夏でもない、真冬のこの季節に降る雨をそう呼ぶんなら、そうだ。


「オレは大丈夫だけど」


キソはそう言って、自分の黒いビジネスバッグから、紺色の折り畳み傘を取り出した。


「入れっぱなしで助かった」


こっちを向いて、ニカッと歯を見せる。


はいはい、とゲンナリした。


確かに、いちいち朝の天気予報をチェックするタイプにも思えなかった。


「マユちゃんも、大丈夫だよ」


「は?」


不審な目をキソに向ける。


何が言いたいのか、といぶかしんだ。


おそらく彼のことだから、一緒に相合傘で帰れば大丈夫、とでも言うんじゃないだろうか。


いや、そう言うだろう、と決めつけた。


ところが、彼の言葉は違った。


「そろそろ来ると思うんだよな」


と、再び腕時計に目を落とす。


「誰が?」


彼の考えることは、まったくもって、わからない。


キソはちょっともったいぶるように一瞬間を置いて、それから嬉しそうに口をひらいた。


「お兄さんが」





「は?」


頭の奥で、小さな落石が転がるような音がした。


ゆらゆらと焦点の定まらない目で、隣のキソを見る。


「誰?」


「お兄さん」


「誰の?」


「マユちゃんの」


「何言ってんの?」


へら、と口元だけに笑いを浮かべた。


次の瞬間、キソが「嘘だよーん」とおどけてくれるのを期待する。


でも、それは裏切られる。


「30分くらい前にマユちゃんがトイレに立ったでしょ。そん時にカバンの中のケータイが鳴ったんだよね。無視しようと思ったんだけど、あんまりしつこいから」


「出たの?」


他人のバッグを勝手に開けて?


信じられない、と彼を凝視した。


身内や恋人じゃあるまいし、と怒りで唇が小刻みに震える。


そのどっちとも言えるアキちゃんのケータイだって、わたしは絶対に無断で触らない。


目の前のこの男の無遠慮さは、範疇を超えている。


もともとそんなに酔ってはいなかったけど、おかげでキッパリと脳が覚醒した。


当の本人はわたしの様子が変わったのなんてまるで気づかないようで、あっけらかんと話を続ける。


「出たら、お兄さんでさ。傘持って出てないのに、雨が降ってきたから心配になって、って言うからさ。じゃあ、迎えに来てくださいってお願いしたの」


そうして、店の名前と細かい場所を教えた。


アキちゃんは、外出するのに支度もあるから、30分くらいかかる、と言ったらしい。


「あ、怒った?」


キソはそこではじめて困ったように両手をあげた。


「なんで?なんで、そんな勝手なことしたの?」


食ってかかるわたしの口調は切羽詰まっていて。


「だって、会いたかったからさ。マユちゃんの大好きなお兄さんに」


言い訳をしながら背中をそらせるキソには、余裕があった。


「そんな怒らなくてもいいじゃない。失礼なことは言ってないよ」


この時間、家にいて仕事をしているアキちゃんに、酔っ払ったどこの馬の骨とも知れない男が「迎えに来い」なんて、じゅうぶん失礼だし。


何より、人のバッグを許可もなしに勝手に開けて、中からケータイを取り出して、勝手に出る、なんて。


出会った当初から、薄々、と言うか、かなり気づいてはいたけれど。


押しが強い、とかいう問題じゃない。


この人、ただの無神経だ。


「バカ!もう二度と連絡なんてしてこないで!」


例え連絡してきたとしても、もう絶対に取り合うもんか。


わたしは、バッグで彼の胸を何度も叩いた。


店から出てきた大学生風の男たちが、出入り口でもめているわたしたちをチラリと見て、声をひそめて何やら愉快そうに耳打ちをする。


痴話ケンカだとでも思ったに違いない。


「なんだよ、マユちゃん、オレ何か悪いことした?」


この期に及んで、キソはまだそんな口ぶり。


交際を迫っている相手の好きな人を呼び出すなんて、どう考えたって悪意があるとしか思えないのに。


それとも、本当に無自覚なの?


だとしたら、それはそれで、タチが悪い。


「ストップ、ストップ」


キソが振りかざしたわたしの腕を、両手でつかむ。


そして、言った。


「なるほど。こりゃ、男前だ」

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