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わたしの好きな人

「また断ったんだって?」


マグカップをテーブルの隅っこに置くと、アキちゃんがすかさずそう言った。


素知らぬ顔で受け流す。


「え?なんか言った?」とそらとぼけてやる。


テーブルの大半を、五線譜の書かれた白い紙が占めていて、朝食を並べるスペースが確保できない。


「ねぇ、それ片づけてよ」


アキちゃんは足の上に乗せたギターとにらめっこで、細い指で弦をびぃんとつまびいたかと思うと、


「え?なんか言った?」


顔を上げて、結んだ口角も上げた。


そうすると、生意気で、誘引的な、あのロックスターそのものの顔になる。


「誰から情報を得たのよ、そんなこと」


わたしは鼻から息を吐き出しながら、毒づいた。


「父さん」


「あのおしゃべりクソ親父め。黙って旅行気分を噛みしめていればいいのに」


天井のさらに上の空に向かって、こぶしを握る。


「だいたい、お母さんが一緒なんだから、わたしのことよりもお母さんをかまっていればいいのよ」


「心配なんだよ。日本に残してきたから、よけいにね」


アキちゃんは楽譜を集める素振りも見せずに、腕を組んで、しみじみと言う。


父の転勤が決まったのは、お母さんと再婚して半年くらいが過ぎた頃。


家族全員で引っ越すのが、父の希望だったけれど。


仕事を辞めたくなかったわたしとアキちゃんは、ふたりでここに留まることを決めた。


寂しさからか、それともアキちゃんの言う通り心配なのか、父は海外にいながら、しょっちゅうわたしの見合いの席をセッティングする。


今回で、実に5回目だった。


見合いと言ったって、そんな形式ばったものではない。


身内も仲人も同席しない。


父に紹介された人と、ふたりで食事をするだけだ。


「何が気に入らなかったの?」


ようやくテーブルの上を整理しはじめながら、あまり聞く気もなさそうに、アキちゃんは訊く。


楽譜の白と同じくらい白くてしなやかな手が動くのを眺めながら、わたしは無愛想に答える。


「……条件を飲んでくれなかったから」


アキちゃんが、ふと動作を止めた。


「まだそんなこと言ってるんだ」


怒っているようにもうかがえる。


「そんなこと言うよ」


「飲んでくれるわけない」


「わかってるよ」


わたしは地団駄を踏み出しそうだった。


「それでも了承してくれる人がいないと、わたしは、永遠に誰とも結婚できない!」


「マユ!」


温厚なアキちゃんが、珍しく声を荒げた。


震わせたわたしの目をじっと見つめて、やがて人差し指を口に押し当て、まるで幼い子供をなだめるかのように、小さく「し」とつぶやいた。


ゆっくりギターを下ろすと、後ろの壁に立てかける。


わたしは口をへの字に曲げて固く閉じ、皿を運ぼうと、シンクのほうに向き直った。


その背後に、いつのまにか音もなくアキちゃんが近づいていて、ピッタリと寄り添ったかと思うと。


後頭部に軽くキスをした。


ズルい人だ、と涙ぐむ。


けれど、わたしは簡単にほだされてしまう。





条件は、たったひとつだけ。


「あなた以外に好きな人がいてもいいですか?」





真夜中に雨が降り出した。


ベランダに置きっぱなしになっている、プラスチックのバケツが響かせるパラパラという音で、それに気がついた。


ようやく降り出したか、とボンヤリとした思考で思う。


今朝カーテンをひらいた時点では、空はよく晴れていた。


しかし、昼過ぎには西のほうから、薄い灰色をした雲がムクムクと徐々に青を侵食し、夜が来る前には、すでに上空は真っ黒だった。


わたしはもう2時間も前に、布団に入っていた。


けれど、完全には寝入っていなかった。


うつらうつらと夢とも記憶の断片ともつかない映像が、細切れに脳裏に映し出され、ハッとして目が覚める。


そんなことを繰り返していた。


この寒さじゃ雪に変わるかも、と不安に思った時、枕元のケータイが鳴った。


「なんなのよ、こんな時間に」と、思うよりも先に実際に声に出して、電波の向こう側に不満をぶつけた。


ディスプレイに表示された名前で、相手はわかっていた。


「やっほー、マユー」


呑気な声が届く。


主の後ろのほうで、ガヤガヤと騒がしい音がする。


車のクラクションのようなものも聴こえた。


「父さん、今、昼休みなんだよー。天気がいいから、外で昼食でもと思ってー」


「わたしへの誘いの電話じゃないよね、絶対」


とっくに体を起こし、言いながら、マットレスを3発ほどこぶしで殴る。


「当たり前だろー?どんだけ離れてると思ってるんだよー」


どんだけ時差があると思っているんだろうか。


「で?何の用?緊急?」


早く通話を絶ち切ろうと、わたしはせわしなく言った。


「そんなに邪険にするなよー。遠く離れた娘が心配で、こうしてわざわざ電話をかけてきているのにー」


どんだけ時差があると思っているんだろうか、ともう一度思う。


だいたい、今まで他愛もない話で深夜の時間帯に連絡をしてきたことなどなかった。


何か事件じゃないかとチラリとでも疑ったから、応対してやったというのに。


なんだ、これは。


「はいはい、元気ですよ。だから、心配しないで。じゃあ、おやすみ」


怒りと言うより面倒臭くなって、受話部分を耳から離す。


さっさと熟睡すればよかった、と憂う。


「あー!ちょっと待ってー!」


悲痛に叫ぶ声が割れんばかりに響いて、わたしは驚いて再びケータイを耳に当てた。


「何よ」


「大事な話がある」


急に神妙な声。


ドキリ、とする。


どの家も寝静まって、しんと真っ暗な部屋の中、ディスプレイの明かりだけが頼りなく浮かび上がっている。


そんな状態で聞く重く慎重な声は、なんだか自分の過ちを暴かれて、これから責め立てられるような、そんな恐怖に駆り立てられる。


もしそうなったら、わたしはこの場に泣き崩れるしかない。


「え?何?」


語尾が震えないように、緊張しながら言葉を発した。


「いやー、実はお前に会わせたい男性がいてさー」


こざっぱりとしたカラカラと陽気な告白に、今度は面倒臭さよりも怒りが勝った。


「本当に切るから。またね」


もう寝させてください。


「まぁ、待て待て」


相手は粘る。


「この前も言ったけど、もうお見合いはいいって。結婚相手くらい、自分で探せる」


「探せないから、結婚できてないんじゃないか」


血が繋がっていると、そんなひどいことを平気で言えるんだ、となかば感心する。


アキちゃんだって独身だけど、そんなこと口が裂けたって言わないくせに。


「いいから、ほっといて。もう寝るよ」


「まぁ、話くらいは聞きなさい」


「国外からの電話料金って高いんでしょ?長電話してるともったいないよ」


「案ずるな。オレの金だ」


「死んだら、わたしのものになるの」


人のこと指摘できないくらいひどいな、と思ったけれど、止まらなかった。


でも、向こうはまったく気にしていない様子で、むしろ愉快がるように、


「残念ながら、オレの遺産は全額アヤコさんに行くことになってる。お前たちには一銭もやらん」


とのたまったので、あぁそうですか、と両手とも投げ出したい気分になった。


降参です。


「で、どんな人なわけ?」


「おぉ、それがな」


嬉しそうに目をキラキラと輝かせている顔が、12時間の時の壁を越えて、目の前に浮かんだ。





「まだ起きてるの?」


遠慮がちなコンコンという音のあと、さらに控えめな声が、ドアの向こうから聴こえてきた。


「あ、うん」


わたしはケータイを枕元に戻し、ベッドから下りて、ドアに歩み寄り、電灯のスイッチを押す。


少しだけ開けた。


細長い隙間に、アキちゃんのいぶかしげな表情がのぞく。


「ごめん。邪魔しちゃった?」


「いや」と、目をくるりと回して部屋中を見渡し、


「父さん?」


察しがよく、そう言った。


「そう。くだらない用件でさ。ごめんね」


わたしは、また謝る。


やっぱり真夜中は、思った以上に空気が透き通っていて、隅々まで声の通りがよいのだ。


「もう寝るよ。だから、仕事続けて?」


狙ったわけではないけれど、そこで大きなあくびがひとつ出た。


さすがに眠くなってきたらしい。


アキちゃんは鼻でクスッと笑う。


「わかった。おやすみ。また明日」


そうして、静かに扉を閉めた。


わたしは消灯して、もそもそと布団に潜り込む。


アキちゃんは、夜にウェブデザイナーの活動をしている。


この辺は田舎だから、夜は深くなるほど静かだ。


きっと、集中して作業ができるんだろう。


昼間はもっぱら寝て過ごしているんだけれど、朝食には必ず起きてきて、一緒に席に着いてくれる。


そういうところも、優しいんだけど、やっぱりズルいよなぁ、と悔しくなる。


布団を頭までかぶり、「また明日」とアキちゃんの言い方をマネして、何度も唱えてみる。


いつのまにか、すとんと眠りに落ちていた。


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