あなたに言いたかった言葉
裏口はすぐに見つかって、たやすく入ることができた。
管理する人なのか、制服じゃないから警備員ではないだろうが、わたしと同年代くらいの男性が座っていて。
「妹です」とすごんだら、その鬼気迫る表情と装束に気圧されたのか、すんなりと楽屋まで案内してくれた。
でも、いざ扉を前にすると、尻込みして、ノックするのがためらわれた。
ごくん、と唾を飲む。
扉にはプレートがかけられているけれど、名前は書かれていない。
本当にこの中にアキちゃんはいるのだろうか、と不安になる。
実はもうステージを終えて帰ったあとで、すでにもぬけのカラなんじゃないか、と。
そばに誰かいないかなと辺りを見回すけれど、狭く薄暗い通路には、用途のわからない機器とコードの束が散らばっているだけで、人影はない。
アキちゃんの居場所を尋ねて、ここに案内されたんだから、大丈夫。
何のためにここまで来たんだ、と自分を奮い立たせ。
しっとりとした前髪を整えて、髪の毛に付けたバラの花の向きを確かめ、キャミソールの肩紐の部分に触れたあと。
気合いを込めて、こぶしを叩きつけた。
どうぞ、と低くくぐもった声がした。
緊張感の漂ったものに聴こえた。
どうやらライブはこれからだ、と安堵すると同時に、直前はデリケートになる、と以前話していたことがあるのを思い出して、少し怖じ気づく。
予期せぬ派手な来訪者に、どんな反応をするだろうと考えると逃げ出したくなったけれど。
もう後戻りはできない、と思い切ってドアを押した。
「やぁ、花嫁さんだ」
大きな鏡を背にして丸椅子に座っていたアキちゃんは、わたしの姿を見て、目を細めた。
驚くふうでも、嫌悪するふうでもなかった。
ごく自然に、まるで待っていたと言わんばかりに、アキちゃんはわたしを微笑んで迎えてくれた。
あれ?今日はわたしの結婚式じゃなかったっけ?と、ドアの前に立ちふさがったまま、自分の純白の衣装に目を落とす。
そうだよね、間違いないよね、とこっちがいぶかしみながら、アキちゃんに向き直る。
アキちゃんはほとんど黒に近いグレーのスラックス、濃いブルーのシャツという出で立ちで。
黒髪は無造作に整えられ、ほんの少しメイクを仕立てられているようで、目がいつもより鋭敏に見えた。
色気も感じられる。
隅にあるラックに引っかけられたハンガーには、スラックスと同色のジャケットがかかっている。
そのたもとには愛用のギターが立てかけられ、ヘッド部分にはハットがかぶせられていた。
それらを身に付けてステージに立つんだ、と想像する。
その姿は、艶っぽさを彷彿とさせ、成熟した男性の色香を匂わせ、イメージの中のはずなのに、なんとなく気恥ずかしさをいだかせた。
あの、と視線をアキちゃんの足元にずらす。
ピカピカのブーツが目に入る。
「結婚、やめてきちゃった」
と、鼻の頭をかいた。
「うん」
それでも、アキちゃんは落ち着いている。
「ふいたほうがいいんじゃない?」
「え?」
「髪も肩も濡れてる。歩いてきたの?」
問いかけながら、横にある大きな鞄から白いタオルを引っ張り出して、こちらに投げる。
雨が降ってきたのはお見通しのようだ。
わたしはそれを危なっかしくキャッチすると、
「走ってきたんだよ、ずっと」
アキちゃんは噴き出した。
「ずっと?その格好で?」
えへへ、と照れ笑いをする。
タオルを髪に寄せる。
わたしが好んで使っている柔軟剤の甘い香りが鼻に届く。
「そりゃ、見たかった」
「いや、見せられないし」
片手をパーにして手前に出しながら、耳まで熱くなるのを感じる。
あの有り様は、アキちゃんには見せられない。
名前も知らない他人は、もう二度と顔を合わせることもないだろうからいいけど、家で頻繁に出くわす機会のあるアキちゃんにだけは、悪いけど、ごめんだ。
「どうして、やめたの?」
美しい顔をしたミュージシャンは、足を組んで、そう尋ねてきた。
不思議な感じがした。
あんなに険悪な関係解消をしたことも、ここんとこずっと言葉をかわすどころか、顔も合わせないでいたことも、夢の中のことのように現実味がない。
恋人として過ごしていた頃と何ら変わりなく、笑って会話をしている。
わたしたちは、本当に別れてしまったのだろうか。
今日、わたしは本当に他の男の人と結婚しようとしたんだろうか。
アキちゃんに影を落とす不幸な生い立ちですら、忘れそうになる。
でも。
わたしには、伝えなければいけないことがある。
「アキちゃん」
と呼びかけてから、神妙に、一気に、
「わたしは、やっぱり他の人となんか結婚できない。アキちゃんじゃなきゃ、だめ。アキちゃんのことが、誰よりも、好きだよ」




