大切なもの
「だから、アキちゃんに話したんだ?」
わたしは話を先回りして、そう訊いてみた。
父さんはイタズラが見つかってしまった男の子のように、居心地の悪そうな笑顔を見せる。
「キソダニくんからの電話を切ったあとだ。最初はいつものように報告だけをして終えようと思ってた。その報告だって、いじわるだよなー。ほっときゃいいものを、そうできなかった。心の底じゃずっと、お前たちがさっさと別れりゃいいと望んでいたんだよ」
吐き出してから、心底ツラそうに顔をゆがめる。
痛むのか、自分の左胸にこぶしを当てた。
気がつくと、隣のお母さんも、わたしまで同じようなしぐさをしていた。
「オレはアキヒデくんに、今度の男は今までと違う、心根の見上げたヤツだ、と言っていた。それで、アキヒデくんは何て答えたと思う?」
わたしは記憶をたどる。
今回は忘れていなかった。
「ようやく決まりそうだね、って言ったんでしょ?」
言葉にすると、また悲しみがぶり返してきた。
アキちゃんは、もうその時点から、終わりにするタイミングを計りはじめていたのかもしれない。
「そうなんだよ。まったくビックリしたね」
空気を軽く振動させるように笑ったあと、父さんは背筋をしゃんと伸ばした。
わたしをまっすぐに見る。
「とにかく、それで目が覚めた。アキヒデくんが自分の気持ちより、オレたちのことを、家族を、何よりマユのことを守ろうとしているのを思い知って、おのれが恥ずかしくてたまらなくなったんだ」
「え?ちょっと待って」
わたしは手のひらを前に出して、制止する。
「なんだよ」
「わたしのことを?守ろうと?」
何それ。
「そうだよ。わからなかったのか?アキヒデくんはお前を世間の目から守ろうとしたんだ。何よりも大切で、誰よりも愛するお前の幸せのために、自分の気持ちを封印することを決めたんだ」
「……嘘でしょ?」
また言ってしまった。
目を何度もしばたたいてしまう。
付けまつげがはずれ落ちやしないか、心配になる。
「何言ってるんだ。嘘じゃないよ」
父さんは目を丸くして驚いてから、呆れる声を出した。
「知らなかったのか」
「知らない。知らないよ、そんなこと」
わたしは慌てる。
「言ってくれなきゃ、そんなのわかんない」
「バカだなぁ。そんなことアキヒデくんから言えるわけないじゃないか。言ったら、別れられたか?」
首をぶんぶん音が鳴りそうなほど振る。
そんなこと、するわけない。
絶対に。
「だろー?アキヒデくんもそれがわかっていたんだ。本心をさらけ出したら説き伏せる自信がない、って。だから、何も言わない、って。悪役のまま、嫌われて終わりたい、ってそう言っていたんだよ」
「何よそれ」
わたしは、その場にしゃがみこみそうだった。
足が震えて、腰から力が抜けて、立っていられない。
両手でスカートのツルツルした生地を強く握って、なんとか持ちこたえていた。
それまで黙ってわたしたちのやり取りを聞いていたお母さんが、マユちゃん、とおずおずと切り出す。
「あの子はね、あの子なりに真剣なんだと思うの」
そうして、父さんの様子をうかがうように視線をやる。
父さんが意を決したようにうなずく。
再び、わたしにやわらかい笑みを向けた。
「……アキヒデはね、自分の生物学上の父親のことをひどく嫌っていてね。というのも、わたしの前の夫は本当にどうしようもない男でね。わたしもアキヒデも本当に苦しめられたの。あの子はね、自分にもその性質が受け継がれてやしないかって怯えているのよ」
そんな話ははじめて聞いた。
もともと口数はけして多くないアキちゃんだったから、当然といえば、当然かもしれない。
「あの子はね、実の父親がわたしと自分を不幸にしたように、自分自身もマユちゃんを不幸にしてしまうと思い込んでいるのよ。だったら別の、マユちゃんを一生大事にしてくれるだろう男性に託そうとしたんだと思う。そのほうが、マユちゃんにとって幸せだって」
「バカじゃないの」
わたしは一刀両断に吐き捨てていた。
目の端に涙が滲んでくる。
それを、小指の先で、マスカラが落ちないように気をくばりながら、ぬぐう。
「わたしにとって何が幸せかなんて、アキちゃんが決めることじゃない。わたしが決めることなのに」
本当にね、とお母さんが目を細める。
「わたしは、アキちゃんがアキちゃんだから、好きになったのに。アキちゃんのそばにいれたら、それがいちばんの幸せなのに」
他の人じゃ、絶対にこんな気持ちになれない。
切ないけれど、胸が苦しくなるけれど、それを上回るポカポカした温もりを与えてもらえる。
泣きたい時もあるけれど、それ以上に嬉しい時間のほうが圧倒的に多い。
寂しい夜もあるけれど、その分、また会うことができる朝を、とてもいとおしく感じる。
この世に生きるすべてのものを、この世に起こるあらゆることを、許して、愛したい思いにかられる。
ただ、そばにいるだけで。
この気持ちは、まぎれもなく、アキちゃんと過ごしてきたから、得られたもの。
アキちゃんが教えてくれたもの。
涙が下まつげを伝って、とめどなくこぼれて。
両手に顔を伏せた。
「マユ、本当に大切なものが何かわかったなら、行くんだ」
そんな声が耳に飛び込んできて、わたしは覆っていた手から顔を上げた。
父さんを見る。
「……え?」
ずっと胸につかえていたものが取れたためか、それともいろんな意味で諦めたのか、あるいはその両方か、ふたりはやけにスッキリとした表情をしていた。
毅然としても見える。
「一緒にいて楽しいってことは、ともに生活をしていく上で大事なことには違いないけどな。でも、お前はそれだけじゃ、だめだろう?」
問いかけながらも、父さんにはもうその答えがわかっているようだった。
それから、眉をひそめて、
「その代わりと言っちゃあなんだけど、許してくれないか。お前たちの間を引き裂こうとした愚かなオレたちを、どうか許してくれないかな」
そうして、静かにお母さんと目を見合わせ、手と手を取り合うと、またわたしのほうに揃って視線を向けた。
覚悟を決めた眼差しに見えた。
「そんなの」
とっくに許している。
しかたのないことだ、わたしだって父さんたちの立場だったら、きっと反対していた。
「でもでも」
だからと言って、自分のワガママだけで突っ走るわけにはいかない。
ここまで来てしまっているのだ。
ここで理性を失ったら、想いのままに行動したら、残された両親にそのすべてのしわ寄せが行ってしまう。
これまでにも、わたしたちのせいでさんざん気苦労をかけただろうに、その上また尻拭いをさせられない。
それこそ、親不孝だ。
わたしの言いたいことを察知したのか、
「いいんだよ」
父さんが目尻を吊り上げ、少し強めの口調で言う。
「娘の不手際の後処理をするのは、親のつとめだ」
そして、とふっと頬をほころばせた。
「悦びでもある。まぁ、まだお前にはわからないだろうけどな」




