条件をつくるに至る前
4年もつき合ったのに、別れはあっけなかった。
しゅるしゅると夜空をのぼっていった花火の玉が、はじけてひらいてすぐにしゅんと消えてしまうのと同じくらい、見事にあっけなかった。
原因は、わたしだ。
そう、悪いのは、ほかでもない、わたし。
とは言っても、軽率に浮気をしたわけでも、内緒で金融会社から多額の借金をしたわけでもない。
ただ、ひとつ、嘘はついた。
「あなた以外に好きな人はひとりもいない」と。
誤解を生まないよう補正しておくと、当時交際していた人は、その人ひとりしかいなかった。
性的な関係を持っていた相手も、もちろん、他にはいなかった。
じゃあ、わたしが彼氏とは別に恋い焦がれていたのは、いったい誰なのかと言うと。
なんのことはない、某人気ロックバンドのヴォーカル様だ。
ヴォーカル様との出会いは、彼氏よりもずっと前、まだ学生の時だ。
リビングに、3つ下のイトコが買ってきた音楽雑誌が放置してあって、それをたまたまわたしが手に取った。
表紙を目にして、ガーン!と横っ面を殴り付けられたような衝撃が走った。
運命の廻り合いとは、まさにこのこと。
一目惚れなんて、本当にあるんだと思い知った。
3人組のバンドメンバーの真ん中で、こちらを見据えていた彼。
とにかくその、人間としては未熟なんだけど、世の中の大人たちを見下したような、若者特有の高慢な眼差しと。
男なのに、女性のようななまめかしさすら感じさせる、赤みを帯びた唇に。
わたしは、一瞬でノックアウトされてしまったのだ。
新譜は、リリースされるそばから買った。
雑誌も買いあさった。
お小遣いが許す限りは、グッズも買い揃えた。
素晴らしいのは、容姿だけではなかった。
彼は、アーティストとして申し分ない才能があったので、歌うだけではなく、曲もつくるし、詞も書いた。
演奏もした。
わたしは、外見には似つかわしくない、その叙情的で、それでいてキャッチーなメロディーにひたすら感動し。
詩的で壮大な物語のような言葉たちに慰められ、励まされ、時に涙した。
彼は、親よりも偉大で、友達よりも近しい。
わたしにとって、神様のように崇高だった。
だけど、わたしも当然、身分をわきまえているから。
ステージ上で、何万人という女性たちに囲まれて、もはや奇声に近い声援を浴びている彼と、その中のただの1ファンでしかないわたしが結ばれる、なんてこと。
無論、ありえない。
そんなことは、重々承知していた。
夢にも思い描かなかった。
わたしは、間違いなく彼のことが大好きだったけれど。
それは、少女漫画の中の完全完璧なヒーローに憧れをいだくのと同じで、実際におつき合いをするなんてことは、何て言うか、現実味がなかった。
テレビを観ていて、突然、そのスクリーンの画面から、彼が笑顔でにょっきりと抜け出てくるくらい、リアリティーがなかった。
そうだ。
熱病的とはいえ、所詮は憧れに過ぎなかったのだ。
ただ、その憧憬が度を越える人もいる。
わたしはそこまで至らなかったが、客席の端っこにいながら、ステージ上の崇拝者と本気でどうにかなろうと画策する者もいる。
そういうやからが、ファンレターに自分の電話番号とプリクラを同封したり、テレビ局の裏口で出待ちをしたりするのだろう。
まれに。
お笑い芸人であったり、発展途上の俳優さんだったりが、その罠にウッカリはまって交際に発展することもないこともないので。
それを、彼氏は心配したのかもしれない。
でも、そんなこと、その時は思いつきもしなかった。
まず、メールが来なくなった。
いくらほどこっちが送っても、返事は来なかった。
電話もかかって来なくなった。
こちらからかけると、すぐに留守電になった。
はじめのうちは、わけがわからなかった。
何に怒っているのだろう、と思った。
怒っているのかどうかさえ、定かではなかった。
とにかく理由が知りたかった。
突如、音信不通となった理由を。
会いに行こうかと思いついた。
自宅には何度もお邪魔したことがあったし、バイト先も知っていた。
でも、明らかに拒絶されているのがわかっている状況で、面と向かって顔を合わせるのは、なんだか怖い気がした。
聞きたくない事実を突きつけられる恐れがあった。
例えば、別れ話とか。
想像しただけで、どっと背中に汗をかいた。
わたしは、彼氏に嫌われる心当たりを、頭の中、大急ぎで捜索した。
だけど、発見できなかった。
どうしてだろう、何がいけなかったんだろう、とオロオロする。
すでに、終わってしまうこと前提だった。
どうしてだろう、ついこの間だって、この部屋に遊びに来たばかりなのに。
自分の部屋の中。
ベッドの上に腰かけながら、何気なく、横の壁に視線をやる。
尊敬するヴォーカル様のポスターが、デカデカと貼られていた。
あ。
これだ。
これに違いない、とわたしは確信した。
と言うのも、彼氏はとにかくヤキモチ妬きで。
わたしが口をきく男性には、例えそれが通りすがりの道を尋ねただけの相手であっても、片っ端から攻撃的になった。
友達の彼氏の話をしただけで不機嫌になられた時には、正直、ほとほとウンザリしたものだ。
でもまさか、言わば住む世界の異なる芸能人にまで、一般人と同等のレベルで嫉妬に狂う、なんてこと。
まさか、そこまではないだろう、と高をくくっていた。
わたしがそのバンドの曲を好んでよく聴くことは、彼氏も知っていたし。
彼氏自身、イイ歌だと言っていたし。
そんな歌をつくるヴォーカル様に対して、好印象をいだいているようにも見受けられた。
しかし、万が一の場合も想定して、彼氏が来る危険性のある日には、前日の夜からポスターだけははがしておいた。
隠しておいた。
なのに、その日は油断があった。
そして、連絡が途絶えた。
グチャグチャになったパズルのピースが、ひとつ残らずピタッと当てはまる。
間違いない。
これだ。
とっさに、ケータイを手に取った。
謝罪のメールを打とうと考えたわけじゃない、逆だ。
わたしは腹が立っていた。
それは、胃の底にふつふつと沸き上がるような、地味で控えめな怒りではなく、瞬間的にカッと沸騰した、噴火のような怒りだった。
ふざけんなよ、と。
その嫉妬深さを、今までさんざん我慢してきたのに。
すべて愛情の現れだと、気持ちを納得させてきたのに。
わたしは偶像を愛でてもいけないんですか?と。
悪人を素手でバッタバッタと倒していく正義の味方を、文庫本の外側から、頬杖ついて羨望の眼差しで「カッコいい」と漏らしてはいけないんですか?と。
そんなこと言っていたら、そのうち、オス猫を撫でただけでも、「妊娠する」と言って逆上するんじゃないの?
そこまではさすがに打ち込まなかったけれども。
と言うか、頭に血がのぼり過ぎていたせいで、その内容はほとんど覚えていない。
サヨナラと告げたかどうかさえ、わからない。
ただ自分を徹底的に肯定する文章をダラダラと長く書き連ねて、最後に「もう少し大人になったほうがいいよ」と付け加えたのだけは、記憶にある。
そして、何のためらいもなく、送信。
返信は来なかった。
来なくても、別に気にならなかった。
言いたいことは言ったし、未練もサッパリとなかった。
こうして、わたしの4年間の恋愛は幕を閉じた。
その矢先、父が再婚した。
あまりにも唐突だったので、かなり驚いたけれど。
わたしも突発的に恋を終わらせてしまったところだったので、そこは、やっぱり親子なんだなぁ、と納得することにした。
それに、新しい母は、取り立てて美人というわけではなかったけれど、とても優しそうで、笑顔がふんわりとしたシフォンケーキみたいな人で。
見ているだけで、こちらを安心させた。
素敵な人を選んだじゃないかと、ひそかに胸の内で父に賞賛の拍手を贈った。
彼女には、息子がひとりいた。
わたしよりも、ひとつお兄さん。
はじめてこの家を訪れた日。
古びたギター1本とノートパソコンをかかえてやって来た彼は、わたしが「どうぞ」と声をかけるまで、ひたすら玄関に立ち尽くしていた。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げる彼。
売れないミュージシャンと、ウェブデザイナーをやっているのだと、あとから聞いた。
わたしは卒倒しそうになった。
彼の顔が、わたしのベッドの横の壁で不敵な笑みを浮かべる、敬愛するロックスターとそっくりだったから。
ただ、彼のほうが、目付きがいくぶん穏やかで、人の良さそうな雰囲気が漂っていたし。
笑うと前歯が2本飛び出して、端正な顔つきがたちまち崩れた。
背は、わたしと変わらないくらい、低い。
それが、アキちゃんだった。
今から、ちょうど1年前のこと。




