サヨナラ
目が覚めると、あの熱ははたして現実だったのかと疑ってしまいたくなるほどに、すっかり下がっていた。
身体のどこにも不調の痕跡は残っていない。
まぁ、これもいつものことなんだけど。
でも、夢ではなかった。
その証拠に、布団の上では、わたしの太ももの辺りに身を預けて、アキちゃんが寝息を立てていた。
こちらにまるで眠り姫みたいな顔を向けて、わたしの手を握ったままで、なんと立ち膝で。
どんな物語のさなかにいるのか、そのまぶたと握った右手がピクリピクリと痙攣する。
起こさないようにとそろそろと上半身を立て、その寝顔を見つめていたら、また泣けてきた。
どんなに想いを遠ざけようとしても、結局はブーメランのようにまたこの胸に戻ってきてしまう。
こんなことをされたら、なおさらだ。
自分から終わりにしようって言ったくせに。
どうして今さらあんなふうにキスしたりするのか。
どうして心を乱すのか。
いつも、そうだ。
アキちゃんは、常にわたしの心の中に波を起こす。
低く小さなさざ波だったり、体ごと飲み込まれるような巨大な波だったり、その時々によって様々だけど。
わたしはもう、疲れちゃったよ。
それはたぶんないと思うけれど、もし万が一キソの言うように、別れを決意したのがジェラシーの末だとしても、こんなに騒々しい恋からは、もう手を引こうと思う。
きっと、そのほうが、みんな幸せになれるんだ。
両親も、キソも、わたしも、そしてアキちゃんも。
視線をずらし、ベッドの足元の壁に目をやる。
きらびやかな光に包まれて、あの小悪魔的で艶っぽい目付きと唇をしたロックスターが、挑発的な笑みを浮かべてマイクをつかんでいる。
アキちゃんは芸能人だけど、ポスターとかのグッズを発行してはいないから、出会ったばかりの頃はよくこの写真を眺めては、アキちゃんを想っていた。
でも不思議なことに、ふたりの姿形が今はもうまったく重ならない。
「サヨナラ」
視線を戻し、つぶやいてみたら、声がうわずった。
アキちゃんがボンヤリと瞳を開けた。
ポロポロと涙をこぼすわたしを見上げて、アキちゃんは自分が切りつけられたような顔を、一瞬、した。
体を起こして、腕を伸ばして、額の冷却剤をはがす。
手のひらを当てる。
安堵する表情を浮かべる。
その間も握った手を離さないから、そっとわたしからほどいた。
「どこか、痛い?」
アキちゃんはそう問いかけて、派手なくしゃみをひとつする。
そりゃそうだ、そんな薄着で暖房もかかっていない寒々とした部屋で一晩明かしたんじゃ、風邪も引く。
申し訳ないことをした、仮にも喉を使う仕事なのに支障が出てしまう、とわたしは眉尻を下げる。
「どこも痛くない……ごめんね」
するとアキちゃんは額の手を移動させ、頬の雫を指でぬぐってくれた。
「痛くないのに……どうして泣くの」
そして、なんだかアキちゃんのほうが泣き出しそうに顔をゆがめて、微笑んだ。
その表情を見ていると、決心が鈍りそうに思えて、わたしは瞳を伏せる。
どこも痛くないなんて、嘘。
ずっと、キリキリと、胸が痛い。
はじめて会った時からずっと、休むことなく、この胸は痛み続けている。
手放すことで、この切なさから、いつか逃れられるんだろうか。
「アキちゃん」
目をつむったまま、わたしは口をひらく。
「わたし……キソと結婚するよ。わたしがこの家を出てく。だから、アキちゃんはどこにも行かなくていいよ」
ピクリと震えた指先。
やがて離れるのと同時に、わたしは静かに目を開ける。
ひらけた視界に、口元にゆるく笑みを浮かべながらも、何かを飲み込むように喉仏を上下させたアキちゃんが、ふっと視線を落とすのが見えた。
わたしは、詰めていた息を吐き出す。
二酸化炭素の塊がふるふると震えた。
悲しい結末になったけど、わたしはわたしのやるべきことをすべてやりきった思いがする。
ねぇ、父さん。
感情的になりがちなわたしだけど、今回はかなり頑張ったんじゃないかな。




