天使のささやき
その晩、熱が出た。
4160グラムというなかなかの大御所っぷりで産まれたわたしは、その後もすくすくと健康優良児として育ち、風邪すらもほとんど引いてこなかった。
しかし、知恵熱はよく出した。
学期末テストの前日や、親が観覧に来る合唱コンクールのまさに発表直前だとか、本命の公立高校の入試に向かう電車の中だとか、大人になっても今の会社に受かったものの通勤初日の朝だとか、とにかくプレッシャーがかかるとことごとく熱を出した。
でも、今回のはそれらとはちょっと違う気がした。
アキちゃんとの関係が終わってしまったこととか、両親が突然帰ってくることとか、キソとのこととか、いっぺんにいろんなことが起こって、心にも身体にも負荷がかかりすぎてしまったんだろう。
軟弱な精神め、とわたしは自分に唾を吐きかけたくなる。
はじめのうちは、少し頭痛がする程度だったけれど。
そのうち、頭蓋骨が割れるんじゃないかと不安になるほど頭が痛くなってきて、耳鳴りもしはじめ、眩暈もひどくなり、吐き気をもよおし、立っていられずとうとうベッドに倒れ込んだ。
お風呂に入らないと、せめてパジャマに着替えないと、と思うけれど、どうにも動けない。
薬を飲まなきゃ、その前に何か食べなきゃ、と考えるけれど、体がすべての行動を拒否する。
体内に酸素を取り込むのさえ困難になってきて、ここまでツラいのはこれまで経験したことなくて、もしかしてわたしこのまま死ぬのか、とボンヤリ思う。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。
頭をちょっとずらせば、クローゼットの上に置かれた時計を確認できるけれども、それも不可能。
寒くてたまらないと震えたら、それもそのはず、エアコンのスイッチは入れていないし、わたしは布団の上に仰向けに倒れ伏したままだった。
煌々と照らしてくる電灯に吹きかけるように、絶え絶えの呼吸を繰り返す。
これは、罰かもしれないな、と思いつく。
もう終わったとはいえ、道ならぬ恋愛を続けてきた罰。
知らないのをいいことに、両親を騙してきた罰。
アキちゃんのファンの子たちの見えないところで、アキちゃんを独り占めにしてきた罰。
そして、関係が切れたとたん、簡単にキソに寝返った罰。
きっと、そうだ。
そう確信したその時、部屋のドアがノックされた。
アキちゃんだった。
首を動かすのさえ億劫だから、即目視できたわけじゃないけど、返事もしないうちから中に入ってきて、ベッドの横にひざまずき、驚いて目を見ひらいた表情がわたしの顔をのぞき込んできて、わかった。
一瞬、天使かと思った。
人間離れした白い肌に、赤い唇、キリッとした二重まぶたが中性的な、細い黒髪の天使が、わたしを迎えに来たのかと、本気で思った。
だから、笑いかけてしまった。
痛みや、寒さや、罪悪感や、息苦しさから解放されると思ったらホッとして、笑いかけてしまった。
アキちゃんはすぐにわたしの額に冷たい手を乗せて、体温を確認して。
すばやく上半身を抱きかかえ、布団をめくり、その中に押し込む。
立ち上がって、あわただしく部屋を出ていったと思ったら、ほどなくしてアイスノンと額に貼る冷却剤を箱ごと、それとミネラルウォーターのペットボトルを1本かかえて戻ってきた。
「晩ご飯は?食べた?」
冷却剤の裏のビニールをはがしながら、アキちゃんが問う。
額に貼る。
さっきのアキちゃんの手と同じ、ひんやりする。
「ううん」
声が出たことに驚くと同時に、それが自分から発せられたあと、空中に浮かぶような感覚にとらわれる。
「おかゆでも、つくろうか?」
「いらない」
息が苦しい。
「何か胃の中に入れたほうがいい」
「ううん」
そこで、アキちゃんがようやくコートを脱いで。
それから、ペットボトルを開封する音がした。
アキちゃんはペットボトルに口を付け、中身を自らに注ぎ込み、わたしの頭とアイスノンの間に右手を差し込むと。
半びらきのわたしの唇に、自分の唇を押しつけた。
と、水門がひらいたかのように勢いよく水が流れ込んでくる。
わたしがビックリしながらも飲み込んだのを確認すると、また水を入れる。
顔を寄せて、再び同じようにする。
3度、4度と繰り返されて、5回目に視界に覆いかぶさられた時、ようやっと「やめて」とか細い声が吐き出せた。
もう二度とアキちゃんとはキスはできないと思っていた。
だから、正直、嬉しいと感じている自分が確かにいる。
それは、認める。
でも冷静に考えたら、こんなこと、だめだ。
これは、「家族」とか「兄妹」とかの域を超えている。
わたしたちはもう終わったんだから、こんなことしちゃだめだ。
アキちゃんは口を真一文字に結んだまま、至近距離でじっとわたしを見る。
でも、すぐさままた唇を重ねた。
さっきよりも少し粘度のある水が流れ込む。
喉を滑り落ちていく。
今度は、すぐには唇を離さなかった。
舌を入れる。
わたしの舌とからませる。
歯先、歯茎、また舌、と丹念に舐め回す。
断続的な吐息が、熱でうなされているせいなのか、愛撫のせいなのか、わからない。
息も苦しいけれど、胸も締め付けられるように苦しい。
うっすらと目を開けると、示し合わせたようにアキちゃんもちょうどゆっくりと瞳をひらく。
最後に、わたしの唇に溢れた唾液を舌先でからめとると、顔を離した。
「……どうして?」
視界からはずれた、おそらくはベッドのたもとにいるであろうアキちゃんに向かって、問いかける。
涙が溢れて、こめかみを伝い、耳の中に入る。
もう枯れたと思っていたのに、この水分はいったい身体のどこにプールされていたんだろうと不思議に思う。
意味がわからなかったわけでもあるまいに、アキちゃんはその問いには答えず、
「もっと早く帰ってくればよかった」
と後悔を口にした。
「何か嫌な予感はしてたんだけど」
と、言い訳とも懺悔ともつかないことも言った。
そのチグハグな会話に腹立たしくもあり、またわたしの危機的状況を察知してくれたことへの嬉しさもあり、なんとも複雑な気持ちになって、わたしはただ泣きじゃくった。
するとアキちゃんは腕を伸ばして、わたしの頭を横から優しく撫でた。
何度も、何度も、撫でた。
偽善はもうたくさんだとやっとの思いで布団から引っ張り出して、振り払ってやろうと弱々しくかかげたこぶしを、アキちゃんが取った。
そしてそのまま、曲げた指の関節に口づける。
皮膚がめくれて赤くなった傷口に、ピリリと熱い痛みが走る。
「ここにいるから」
アキちゃんがささやいた。
唇を当てたままでしゃべるから、温かい湿った息がささくれた箇所にやわらかく触れる。
「熱が下がるまで、ずっとここにいるから」
涙が止まらなかった。
嬉しいのか、悲しいのか、わからない。
アキちゃんが何を考えているのかも、ぜんぜんわからない。
いつのまにか、泣き疲れて眠っていた。




