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ということで、プロポーズ

キソから電話がかかってきたのは、アキちゃんが身仕度をし、外に出て、その玄関の扉を閉める音がやんで、少し経ってからだった。


わたしはアキちゃんの席に移動していて、今朝方アキちゃんがしていたようにテーブルに突っ伏して、意地でも漏らすもんかと声を押し殺して、泣いていた。


ジーンズのお尻からケータイを取り出して、耳に当てたものの、声は出さなかった。


もう二度と取り合わないと誓っていたけれど、表示された名前を見たら、どうしても一言文句を言ってやりたくなった。


でも、応答はできなかった。


言葉より先に涙が溢れ、ヨダレが溢れ、鼻が詰まり、声が出せなかった。


「どうしたの?何かあった?」


電波の向こう側の声には、いつもの小憎らしい余裕がない。


異常事態を感じ取ったのだろう。


何かあったのだ、誰かのせいで、とまくし立てようとして、息苦しくて咳き込んだ。


「大丈夫かい?オレ、今からそっちへ行こうか」


なんで来ることができるのよ、と疑問が浮かぶのと同時に、彼がサラッと言い訳をはじめる。


「実は昨日、キミらをつけたんだよね。ちょっと気になってさ。家の前まで。理由はあとで話すよ。とにかく行くから」


つけた?家の前まで?


じゃあ、あのキスも見ていたわけ?


想像もしていなかったセリフが飛び出て、もはや問いただしたいのか、罵倒したいのか、よくわからない。


ただ、その非常識な行動とあっけらかんとした傲慢さが、悲しみの底にいたわたしを、ほんの少しだけど浮上させた。


とにかく行くから、とキソはもう一度せわしなく言って、電話を切った。





玄関まで出迎えたわたしを見て、スーツ姿のキソは目をしばたたいた。


「……平気かい?」


優しく問いかけて、後ろ頭をかく。


少し時間が過ぎて、もう涙は止まったけれど、まぶたが厚く腫れ上がっていて、目を全開にできない。


鼻の頭も下も真っ赤なはずで、顔を洗っていないから、頬にはあからさまに涙の通った筋が残っているだろう。


でも、もう全部どうでもよかった。


それらを目の当たりにして、彼が罪悪感をいだけばいいとも思った。


「……入れば」


問いかけには答えず、わたしはキソを室内へとうながした。


彼は黙ってドアを閉め、あとをついてきた。





リビングに通し、コーヒーを出す。


牛乳は温めない、ブラックで出してやった。


手間をかけるのは、本当に大事な相手だからこそだ。


それ以外の人に、そんなことをする必要はない。


来客用のオシャレなカップを手に取り、コーヒーを一口すすって、彼は視線を上げる。


「お兄さんとケンカしたんだ?」


わたしは向かいのソファーに腰を下ろそうとして、その胴を一瞬ぶるっと震えさせた。


ケンカならいい、とお尻を沈ませる。


ただのケンカなら、時間がかかったとしても、また元通りに戻れる。


「……終わったんだよ」


空気を押し返すような声が出る。


「終わっちゃったの」


力なく念を押したところで、またするすると涙が溢れてきた。


終わっちゃった。


終焉。


もう、戻れない、ということ。





「やっぱり、怒ってたんだなー」


カップを置くと、キソは両腕をあげてうーんと伸びをした。


「わかったんだよね、オレ、あの時」


その姿勢のまま、天井のほうを見やる。


わたしは涙をぬぐわず、鼻を繰り返しすすった。


「握手した時、すっげー強く握り返されてさ。正直ビビった。顔は平然としてたけどさ。わかったんだよね、あ、本気だ、この人って」


「……本気?」


ゆるゆるとキソを見る。


彼は視線を合わせて、ふわっと微笑む。


「そ。あ、この人、本気でマユちゃんのこと好きなんだなぁってさ」


「嘘だ」


わたしは断定する。


「嘘じゃないよ。じゃなかったら、そんな敵対心むき出しにしたりしないでしょ。もっと鷹揚に構えてるでしょ」


「構えてたじゃない」


キソは、片手を顔の前でひらひらと振る。


「だから、顔だけだって。相当力入ってたんだから。ま、オレも応戦したけど。マユちゃんが気づかなかっただけで、あの時実はひそかに男同士のバトルが勃発してたってわけだ」


「違うよ」


語調が強くなる。


アキちゃんは、その寸前に別れることを決めていた。


キソと話して、人となりがわかったって言っていた。


だから、そんなことあり得ない。


本当に怒っていたって言うのなら、それはたぶん、夜遅くに突然呼び出されたことに対して、だ。


仕事中なのに、だ。


きっと、その呼び出してきた相手、つまりキソといざ対面して、その怒りが突出しただけに違いない。


「マユちゃん、わかってないなー。そんじゃ、なんでお兄さんが別れるなんて言い出したっていうのさ」


わかっていないのはそっちだ、とじれったくなる。


「アキちゃんはもともとわたしのこと好きでもなんでもないからだよ。キソが現れたから、自分はお役御免だって、わたしを放り出したの」


言って、その言葉に悲しくなって、またするすると泣く。


身体の中の水分をすべて出し切ってしまうんじゃないかと、怖くなる。


「違うって。ジェラシーだよ、ジェラシー」


キソが前のめりになって、そんなことを言う。


「は?」


「ジェラシー。ヤキモチだよ。あんな人の痛みのわかるお兄さんが、そんな非道なことするわけないでしょ。単なるヤキモチだって。ヤキモチと意地。男なんて、キミが思ってるより、ずっと単純なんだからさぁ」


上半身からすぽっと力が抜けた。


あっけに取られた。


アキちゃんの何をアンタがそんなに知っているのだ、と呆れる。


頬を濡らしながら、不本意にも噴き出してしまった。


「オレ、勉強したんだって」


わたしが指摘すると、キソは唇をとがらせた。


彼が言うには、わたしからアキちゃんの仕事の話を聞いた夜、つまりはわたしたちを尾行したあと、家に帰ってネットでアキちゃんのことを検索したらしい。


動画サイトで歌を片っ端から聴いて、本人のブログやファンによる非公認のホームページ、いろんな人からつぶやかれている記事もつぶさに読んだ。


それほどメジャーな立ち位置にはいないけれど、女性に限らず男性にまで熱心な信奉者がいることを知り、そして本人が語る常識的で紳士的な言動に感銘を受け、それから曲もさることながら、つむがれる詞の美しい世界観にもいたく感動したという。


アキちゃんのことがいっぺんに好きになったらしい。


「だから、そんなお兄さんが、その辺の下半身の教育ばかりにいそしんで頭の中身がスッカラカンのクズ男どもみたいなこと、するわけないじゃん」


自信たっぷりに、キソは言う。


言い方は粗雑だけど、そこには確かに熱烈なファンが持つ愛情を感じた。


「でも、わたしは本人からハッキリ聞いたんだよ」


そう答えるわたしのほうが、なんだか気後れする。


「だからさー、さっきも言ったけど、意地だって」


「意地?」


「そう。普段は何があっても動じないって言ってたじゃん、お兄さんって。それがマユちゃんとオレの密会を知ってカッとなった。態度にも出した。マユちゃん以上に本人がその事実に驚いてるんだと思うよ。で、引っ込みがつかなくなった」


キソは難解な推理小説をひもとくように眉を寄せ、人差し指を立てた。


「引っ込み、ですか」


わたしはぽけんとその指先を眺める。


アキちゃんほどじゃないにしろ、長くて女性的な指だ。


「そ。もう意地になっちゃったんだって。子供が夏山でヘラクレスオオカブトムシをつかまえたって友達に大ボラ吹いて、それが一気に学校中に広まって、今さら嘘でしたなんて言い出せなくなるのと一緒。しょーもない男の意地さ。人間的で好感は持てるけど」


「あの」


わたしは疑問が湧くのを止められない。


「わたしたちを別れさせたいの?別れさせたくないの?」


そりゃ、と彼は小鼻をふくらませて、


「そりゃ、あんな強力なライバルはいないほうがいいに決まってる」


と言い切るので、さらにわけがわからなくなる。


「たださ」


「たださ?」


「オレが好きになったのは、お兄さんに恋してるマユちゃんだからさ。そこが難しいところなんだよね」


「それはそれは」


「でも、終わっちゃったって言うのならしかたない。ということで、結婚しよっか」






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