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悲しい水面

昨夜は、アキちゃんのところに話をしに行こうかどうしようか散々悩んだ末、結局くじけた。


絶対寝られないと思っていたけれど、お酒も入っていたし、仕事の疲れもあってか、気がついたら意識が途切れていた。


夢うつつに、ギターの音色を聴いたような気がした。


朝、あらかじめセットしておいた時間キッカリにケータイのアラームが鳴って、布団から引きずり出すようにして体を起こす。


熟睡できていないのが、頭の重さでわかる。


今日が仕事休みでよかった、とため息をつく。


のろのろと顔を洗って、着替えて、ダイニングに下りていくと。


テーブルに突っ伏すような形で、アキちゃんが眠っていた。





椅子に浅く腰を据えて、その右の太ももにアコースティックギターを立てかけて。


机上に投げ出された両腕の下には、乱れたオタマジャクシが並んだ五線譜が数枚。


足元の床には、シャープペンが転がっていた。


それをそっと拾い上げて、音を立てないように、息も止めながら楽譜の隣に置こうとして、手を止める。


横を向いて寝息を立てているアキちゃんの伏せられたまつげは黒く、長く。


まるでマスカラが塗られているみたいで、しげしげと眺めてしまう。


肌は、透き通るように白い。


うっすらとひらいた唇は、ぽってりとして赤みを帯びている。


本当に、悔しくなるくらい、キレイな男の人だ。


いつからここにいたんだろう、暖房はもうすっかり部屋中を暖かい空気で満たしている。


ふと、なにげなく楽譜の隅っこに殴り書きされた文字が目に入る。


『インスタントコーヒー』


曲のタイトルだろうか。


もしかしたら今朝は起きてこないかな、と思っていた。


だから意外だったけど、顔が見られて、ホッとする。


意識がないから、ちょうどいい。


目覚めていたら、どんな顔をしたらいいか、どんな言葉を発したらいいか、わからなかった。


怒られていても、気まずくても、それでも会いたいんだよなぁって、つくづく神経の根っこまでアキちゃんのことが好きな自分を再認識する。


このまま起きなければいいのに。


そうしたら、飽きがくるまで眺めていられる。


心臓の拍動がやまない限り、見つめていられる。


だけど、至福の時間はそうは長く続かない。


わたしの息づかいに促されたのか、頬を硬いテーブルにくっつけたまま、アキちゃんのふたつの瞳がゆっくりとひらかれた。


視点がぶつかって、瞳孔がかすかに揺れるのを見る。


慌てて身をひるがえした。


「ごめん」と謝っていた。


黙って見ていたこと、それから起こしてしまったことに対しての謝罪のつもりだったけれど。


アキちゃんに嘘をついたことへのお詫びも、そこには滲んでいたように思う。


アキちゃんがどう感じ取ったかは、判然としない。


何も答えず、背後でただ楽譜をまとめる音だけがした。


「……それ、新しい歌?」


訊いても、アキちゃんからは何も返答が返ってこない。


沈黙に耐えられず、シンクへ向かおうと足を踏み出しかけた時。


「イイ青年じゃない」


と、唐突にアキちゃんが言った。


いつもの穏やかで、優しい口調だ。


一瞬、許されたのかと思って、涙がせり上がってきそうになるのを飲み込みながら振り返る。


その時点では、まだ意味が理解できていなかった。


「キソダニくんだっけ?明るくて、利発そうで、マユと気が合いそうだ」


ギターを手に取りながら、目も合わせずに、口元に小さく笑みを浮かべて、アキちゃんは言った。


奈落の底に突き落とされる思いがした。


「……どういう意味?」


声が震える。


鼓動が激しくなって、心臓が壁を破って飛び出してきそうに思えて、胸の前で両方のこぶしを握る。


シャープペンを抱きしめたままなのに、気づく。


「そのままだよ」


「そのままって……わかんない」


いや、本当はわかる。


アキちゃんは、わたしがキソとつき合えばいい、って言っているんだ。


でも、信じたくない、ってわたしの中のわたしが叫ぶ。


アキちゃんは息を吐く。


何回も言わせるな、とでも言うように。


わたしはますます強くこぶしを握る。


シャープペンがキリリとかすかな音をきしませる。


「アキちゃんは……それでいいの?」


そう訊いて、こくんと唾を飲み込んだ。


よくないって言って欲しい、きっと言ってくれる。


すがるような、祈るような気持ち。


すると、アキちゃんはしれっとして、けど穏やかさは少しも崩さずに言った。


「いいんじゃないかな」


それを聞いた直後、襟首を何者かにつかまれて、高く天にまで引っ張り上げられて、そのあと地上に思いきり叩きつけられたような衝撃が、身体中に走った。


何?その他人事みたいな言い方。


わたしは瞬間的に脳が沸騰するのを感じ、同時に持っていたシャープペンをアキちゃんに投げつけた。


とっさのことで、アキちゃんは身をそらしたものの、避けられず、ペンはトレーナーの左肩に当たって、床に転がった。


「じゃあ、なんでキスなんかしたのよ!」


悲鳴に近い金切り声が出た。


「じゃあ、なんで嘘なんかついたの」


アキちゃんの目に、また冷たさが宿った。


「正直に言えばよかったじゃない、見合いした相手とまた会うって。10年ぶりの旧友との再会なんて、なんでわざわざそんな嘘をつく必要があったの」


「それは……」


口ごもる。


これだという理由は、わたしにもハッキリしない。


アキちゃんの顔を見たら、つい口をついて出てしまったのだ。


「オレをあざむいて他の男と会うってことは、そういうことでしょ」


どういうことよ!とまた声を荒げたくなる。


こんな時でも平淡とした態度のアキちゃんに、じれて、怒って、また何かぶつけたいと思うけれど、もう何も持っていない。


さすがに食器棚から皿を取り出して投げつけるわけにはいかないと思うくらいには、理性があった。


父の言葉を思い出す。


お前は気性が荒いから、温和なアキヒデくんとじゃ、どっちも疲れるんだよ。


そうかもしれない、と思えてしまうことが、悲しい。


悲しくて、涙が出る。


でも、父の意見は正しいかもしれないけど、ちょっと違う。


アキちゃんは温和と言うよりも、おそらく実際は感情の波の動きが人よりも弱いのだ。


そのために、いつも落ち着いて穏やかに見える。


わたしが見合いをしようと、何の関心も示さない。


それと同じように、どんなに熱っぽくキスをかわそうと、けして気持ちが高揚したりはしない。


思えば、最初からそうだったじゃないか。


いつもいつも一所懸命で、アップアップして、ドキドキしているのは、わたし。


アキちゃんは違う。


どんな時も、何を言っても、アキちゃんの水面は波立たない。

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