真夜中に揺れる
アキちゃんが怒っている。
わたしに対して、怒りをたぎらせている。
こんなこと、はじめてだ。
アキちゃんはいつも穏やかで、優しくて、めったなことでは荒々しい態度も、口調も、表に出すことはなかった。
やっぱり、キソに会うこと、正直に言わなかったせい?
でも、言い訳がましいけど、本当に彼とどうこうする気なんかなかった。
ただ、彼を説得して、交際の申し込みを撤回させたかっただけなのに。
わたしが外で夕食を済ませたため、一緒に食卓を囲むことはなく、アキちゃんはお風呂から上がると、父の元書斎だった仕事部屋にこもって、そのまま出てこなかった。
こちらから出向く勇気などなかった。
弁解する機会を与えてもらえなくて、しかたなく、わたしも部屋に入って、何もする気も起こらずベッドに潜った。
けど、眠れるわけがなかった。
関係を発展させる気がないのは真実だけれど、心のどこかで、キソとの会話を楽しんでいる自分が確かにいたかもしれない、と気づく。
だって彼は、アキちゃんを認めてくれたし。
そんなアキちゃんを好きなわたしを否定しなかった。
気持ち悪がらなかった。
隠してこなければいけなかった想いを、誰かに聞いてもらえるのは、すごく肩が軽くなった気がした。
自分はけして間違っていないって思えた。
わたしはたぶん、嬉しかったんだ。
わたしが好きな人はこういう人で、こんなところが好きなんだって、普通なら職場のランチ時にでも同僚と話す恋愛話をできる相手がやっと見つかって、ただ純粋に嬉しかっただけなんだと思う。
でも、その好きな人に嫌われては元も子もない。
涙が溢れてきて、枕に染み込んだ。
やっぱり、このままなんて、耐えられない。
勇気を振りしぼって、アキちゃんに話をしに行こう。
目元をぬぐって、体を起こす。
枕元のケータイが電子音を鳴らした。
「……父さんはいつもランチひとりなの?」
涙声にならないように気をつけながら、平静をよそおって電話に出た。
ははははー、と浮力の軽い笑い声が届く。
男は女性と違ってつるまないもんだよ、と言い訳めいたことを口にする。
「そういえば、キソダニくんとはどうなった?」
と、今まさに頭を悩ませている核心をついてきたので、思わず怒鳴り出しそうになるのを、なんとかこらえた。
「それを訊くために電話してきたの?」
それでも、若干声の抑揚が乱れるのは抑えられない。
「まぁ、それもあるけど」
わたしは息を吸い込んで、短く吐き出した。
向こう側に聞こえるのを意識しながら。
本当に参っているっていうのを感じ取らせたかった。
「誰かさんがよけいなことをしてくれるから、面倒なことになってる」
「よけいなこと?マユの電話番号を教えたことかい?」
わかっているんじゃん、と今度は少し強めに息を吐く。
「断ってって言ったんだから、そこで終わりでいいの。じゃなかったら、せめてわたしに了承取ってからにしてよ」
そうしたら、絶対に教えないでって釘をさせたのに。
父は困惑気味に答える。
「だって、どうしてもって何べんも言うからさー。切迫した感じだったし、つい。それに、何回か会えば、だんだんイイ人なのがわかってくるだろー?」
「無神経の塊みたいな人だったけど」
アレをどう噛み砕いたら、「イイ人」になるんだろう。
「お前にはそのくらいの人のほうが合うんだって」
どういう意味か、理解しようと試みるが、失敗する。
そして次に発された言葉に、わたしは思わず呼吸をするのを忘れる。
「お前はオレと違って気性が荒いから、アキヒデくんみたいな温和なタイプとじゃ、どっちも疲れるんだよ」
しばらく経ってから息を吸い込んだら、喉が震えてひゅう、と鳴った。
乾燥して、声が出せない。
なのに、背中には滝のように汗が流れた。
父は、わたしたちのことを知っているのか。
訊き返そうと思うけれど、怖くて口にできない。
「聞こえてるかー?」
呑気な声が暗がりの中に響く。
喉がひりついて声を出せなくて、見えていないのがわかっていながら、とりあえず首を前に倒す。
「アキヒデくんのあのやわらかな気質はアヤコさんゆずりだな。でも、ちょっと煮え切らないところがあるかな。そこはアヤコさんと違うな。アヤコさんは一見のほほんとして見えるけど、芯はビックリするほど強靭だからなー」
明るい声質で、ノロケとも取れる話を語る父の様子に、もしかして思い過ごしかも、と頭上に光が射したような気分になる。
「……だからって、キソダニさんみたいな人がいいとも思えないけど」
と、ようやくそれだけ言えた。
フフフ、と父が不敵な笑みを漏らす。
「ピンと来たんだよ。写真だけで好青年さは見て取れたけど、実際に話してみて、この楽天ぶりとしつこさは、おそらくマユの固すぎるガードを陥落させるに違いないって」
「陥落させられていないけど」
楽天的なところとしつこいのは、じゅうぶん身に染みたはずなのに。
「まぁ、もう少し会ってみるといいよ。本当にイイ青年なんだから。貴重じゃないか。一度スッパリ断られたのに、めげないでアプローチかけてくるメンタルの強い男性なんて。よほどお前のこと気に入ったんだよ」
父の心底明るい言葉に、やっぱりさっきのは深い意味はないんだ、とホッとする。
確かに、あんな不条理な条件吹っ掛けられて、それでもつき合いたいと思うなんて、相当な精神力だ。
好意を持ってもらえるのは、正直、ありがたいと思う。
柔軟な脳のつくりも、嫌いじゃない。
度を過ぎた図太ささえ、きっと受け入れられただろう、出会いが早ければ。
でも問題はその一点だけで、それでいてその一点が重大なのだ。
だってわたしは、キソより先に、アキちゃんに出会ってしまったのだから。
父の気持ちもわかる。
離れた娘が心配で、安心して身を預けられる男性を探そうと、懸命に心を砕いてくれているんだろう。
その期待に応えられないことが、本当にもどかしい。
けれど一方で、これだけ縁談を断り続けているんだから、何かそうしなければならない理由があるんじゃないかと疑ったりしないのか、と腹立たしくもある。
その小さな憤りが、とんでもない欲求へと心を加速させる。
どうしよう。
白状したい。
洗いざらい、ぶちまけてみたい。
わたしは、自分の兄で、あなたの息子でもあるアキちゃんのことが好きで、他の誰とも結婚なんてしたくないし、実際にもう男女の関係にもある、と。
全部バラしたら、いったいどんな反応をするだろう。
なんてことだ、と嘆くだろうか。
今すぐ別れろ、と激昂するだろうか。
少なくとも、祝福はしてもらえないんだろうな。
その落胆が、どうにか言葉を飲み込ませた。
けど完全には通っていかなくて、喉の途中で引っ掛かっている感じだ。
そしてすぐに、
「アキヒデくんも喜んでたしな」
と、父が言ったので。
詰まっていたものが凍りついて、ずしりと重くなって、食道をキリキリと圧迫した。
「え?」
「キソダニくんにマユの連絡先を教えたあと、アキヒデくんに報告した。今度の見合い相手はなかなか心根の見上げた男だよってね。ようやく決まりそうだねって喜んでたよ」
悲鳴を上げそうになって、急いで電話を切った。
やっぱり、アキちゃんはすべて知っていたんだ。




