魔車
彼女の身体も冷えから解放され、その息がすうすうと寝息に変わったころ、ようやく彼は決める。
とりあえず、近くの集落へと彼女を連れて行き、そこに彼女を引き渡そう――
とりあえず、とついているのは彼の思考の癖のようなものだ。
とりあえず、とりあえずで決めることを先へと送ってしまう。
火を足で消し、彼女を背におぶうと、少しずつ湖から離れて道のある場所へと――森の方へと歩いていく。
途中で湖を振り替えるラタエル。そして小さく苦笑する。
結局、本来の目的を忘れてしまったな。
そう思うと、意を決して森の道へと歩いていく。
森の道を少し歩き、開けた場所へと出るとそこには見知ったものがあった。
黒い箱に銀の蔦の飾り、それまでは先ほどの魔導乗合車と同じだが、先ほどの物よりも小さいものだ。
さらに、違う点は二つある。
一つは箱の先頭に銀色の四つ足の獣が二匹ついていること。――ただし、銀色の獣は頭などついておらず、ただの一つも動かなかったが。
もう一つは箱の横、四ケ所に分かれて、大きな輪がついていること。
輪がついているもの――すなわち、この国における貴族特権のあかしの一つ。
魔車だ。
茫然と眺めていると箱から背の低い老人が飛び出し、こちらへと歩み寄ってくる。
彼の良く知りえたものだ。
「ぼっちゃま!」
「ぼっちゃまはやめてくれ、もうこの年だ。」
ぼっちゃまと呼ばれた彼はうんざりしたように言葉を返す。
ぼっちゃまと呼んだ老人は、手をもみながらこちらへと来る。
「ぼっちゃま、お探ししましたよ。いったいどこへ行ったのかと。ムニンも慌てておりました。ささ、魔車へと――はて?その背中にいる方は?」
「湖で――たまたま見つけたんだ。浮いていた。だいぶ冷え切っていて…」
「な、なんと!それはいけません!屋敷へとお連れしなくては!ささ、魔車へ!」
「そこらの家に預けるでは…だめか?あまり公にしたくないんだが」
「いけません、ぼっちゃま!ぼっちゃまが保護されたということは栄光あるオルダイン家が保護したも同じ!その庇護下にあるものならば屋敷にお連れするのが道理というものです!ささ、お身体も冷えているでしょう、お早くお屋敷へ帰りましょうぞ」
その言葉に圧倒され、彼女をおぶったまま魔車の横の扉から乗り込むラタエル。
魔車の内装は前と後ろにふかふかとしたソファが据えられており、扉の窓の部分にはベルベットの青いカーテンがつけられて、それはそれは豪奢なものだ。
ラタエルは彼女を前のソファに横たえさせると、彼は後ろのソファに座る。
それを見た老人は扉を閉め、箱の前に据えられた簡素な椅子に座り、ぴしゃりと銀の獣を鞭でたたくと言葉を放つ。
「『獣どもよ、歩め!』」
その言葉とともに、今まで微動だにしなかった銀の獣に命が吹き込まれる。
四つの足をぱかりぱかりと交互に歩ませる。それとともに、魔車の輪もガラガラと音を立て、箱を前へと動かす。
魔車の中で、ぼんやりと外を眺めるラタエルだが、ふと前を見て、慌ててカーテンを閉める。
閉めると同時に、カーテンの外にいくつか影が。
同じような魔車がいくつもガラガラ、ガラガラと音を立てクウェル湖へと進んでゆく。
彼はそれに会いたくはなかったが――それらに姿を見せるためにクウェル湖へといったのだ。
だというのに、今は姿を隠している。
その矛盾に彼は思わず、はは、と乾いた笑いを隠せずにいた。
魔車は、ガラガラと音を立てて町へと進んでいた。