ナッツのような 2
ナッツのような
そんな彼を見て、私は彼がまさに頭を抱え込むような悩みを持ってここに居ることが容易に想像できた。彼女の天使のごとき笑顔を真正面で受けたはずなのだが、それでも俯いてしまうのか。私ならあれだけで悩み事は吹き飛ぶぞ。
やはり彼の心配事は失業の類かしら。私も一度失業を経験したことがある。2000年頃だったか、私は上司の失敗を擦り付けられた同期にさらに擦り付けられ、その責任を取る形でその会社を辞めたのだった。その上司と同期は今頃どうしているのだろうか。許しはしたが忘れることのできない、私にとっては大きな出来事である。もし、私にライターという受け皿が無ければ。ライターになれたのは本当に偶然のことだ。日頃から小説をよく読み、たまに小説を書いていたためだろう。しかし、今でも仕事を探しているような状態ならば。考えただけで背筋が凍る。
……今は関係のない話だな。
いずれにせよ、近年、景気が上向きに少し傾こうとしているものの、依然として不景気のままだ。このご時世、失業が多いということはあっても、少ないということはあるまい。あの男性もその波に飲まれたか。
私がそんな風に想像していると、いくらか経ってから彼は口を開いた。
「私は」
どうやら窓際の彼女に話しかけたようだ。私は彼の一言一言を聞き逃すまい、と耳を傾ける。
私は、私は、と繰り返してばかりだったが、彼女が彼の方へ体ごと向きを変えると
「私は」
「私は罪を犯したのです」
そう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
罪、だと。
彼はどうやら真面目な人柄のようだ。それは今の口調から分かる。分かりやすいほどに。だが真面目そうな彼、いや――真面目くんと呼ぼうか。真面目くんは、彼の言葉の通りならば、罪を犯したという。
それがどれ程の罪なのか分からないが、罪、と一括りにするならば、万引き等の軽犯罪から殺人まで選択肢が存在することになるが、一体真面目くんの言う罪とは何を指すのだろう。
私はそこで考えることを止めた。彼が真面目な人物であろうということがわかった、それで今日は十分。これ以上想像を膨らませたとしても何も得られまい、と考えたのである。
飲みかけの珈琲がすっかり冷たくなっていた。それを私は一口で飲み込んで、携帯に届いていた意味のないメールをゴミ箱に移動した。そして、読みかけの電子書籍を最初から読み始めた。
こんなに時間がたっていたのか。携帯のディジタル時計は数分で正午を回ろうとしている。
携帯で小説を読んだ後、気付かぬうちに眠っていたようだ。時間の経過を把握できていなかった。真面目くんもいなくなっている。カウンターには店員が戻ってきている。彼女はカウンターで寝息を立てている。この数時間で変わらなかったのは私だけだった。
「一時を過ぎましたら、一度店を閉めますが宜しいでしょうか」
カウンターで陶器のカップを拭いている男性が、私に対して言った。催促のようだ。
「ええ……分かりました」
邪魔だっただろうか、いや、初めての客が私のように珈琲の一つを頼んだきりで居座っているというのは、どう考えても快くはないだろう。邪魔だったのだ。申し訳ないことをした。
「すみません、こんなにも長く居続けてしまって」
しかし彼はいいえ、と答えた
「貴方の後にお客様は来ませんでした。それに、私たちもほとんど仕事をしていませんので」
しかし……
「ところで、もう一杯珈琲はいかがでしょうか。少しは目を覚ますことが出来るでしょう。」
そう言って微笑んだ。なるほど、もう少し金を使ってくれ、と。私は気兼ねなく返事をした。
「ええ、では、お言葉に甘えて」
私がカウンター席へ移動すると、すでに用意が出来ていたようで、男性はカップへと珈琲を注いだ。他にも何か頼みますかと聞いてきたので、パンケーキを頼んだ。
いい香りが漂ってきた。珈琲を飲んだ。先ほどの珈琲と変わりのない香りだ。男の焼くパンケーキの、淡く香る甘い匂いが私の腹に訴えかけてくる。私の腹は、もう耐えきれないぞというように声をあげた。
「マスターの作る料理はどれも美味しいですよ」
いつの間にか彼女は目覚めており、私は滑稽なほどに驚いてしまった。赤面する。私の腹の鳴った音は予想以上に大きかった。寧ろ店内には私以外客は居らず、彼女は隣の席に座っていたから、聞こえないはずがないことに私は気付かなかった。彼女は私の視線を気にもしないで、大きく伸びをした。マスターと呼ばれた男がくすりと笑った。
男は慣れた手付きでパンケーキを皿に盛って、バターと蜂蜜、それとバニラアイスを添えて、私に差し出した。
「初めての客が貴方のような方で良かったです」
そうだろうか。珈琲だけで何時間も居座っていたというのに。嫌みを言われるなら理解出来るが、感謝される理由が全く無いので、私は肩をすくめた。
「そういえばマスター、あの会社員は帰ったようだね」
「あぁ、彼ならば三十分前に帰られましたよ」
私は彼女らの話を横目に、焼きたてのパンケーキを口に頬張った。単純に上手い。有名なそういった店と同じかそれ以上に美味しいのではなかろうか。
「このパンケーキ、なかなか美味しいですね」
「そう言って頂けて光栄です。……彼女は何を食べさせても美味しいとしか言ってくれないので、自分の腕が分からなくなってきてしまいまして」
彼女の方を横目でちらりと見てから話した。彼女はと言えば目を瞑り――眠っている。
「容姿や性格は良いんですがね、すぐに時間があると眠ってしまうので困ったものですよ」
男はカウンター後方の棚からコーヒーミルを取り出していた。手動の物でなかなか趣がある。
「手動で挽くのですか」
私がそう聞くと
「ええ、どうも電動のものですと良いものが作れません」
珈琲豆も取り出しながら
「しかしながら私の気持ちの問題なのでしょうね。電動だと良いものが作れないと考えている節がありますから」
ごぉりごりと音を立て、豆が粉砕されていく。私はその様をじっくり観察していた。どうしてかは分からないが、惹き付けられるものがあったのかもしれない。
「冷めますよ」
男は見向きもせずに声を発した。……あぁそうだった。パンケーキが冷めてしまう。私は少しだけ温かみを失ったパンケーキに、再びナイフを突き刺した。パンケーキは音も立てず静かに反発して切れた。
*
パンケーキを食べ終えても、彼女はまだ目覚める気配はなかった。一旦店を閉め、午後の準備をすると言うことで、私は店を出ることにした。カップにちびりと残った珈琲を飲み干し、席を立つ。携帯をしまい、男に金を渡した。思っていたより安かった。
入ってきた扉に足を踏み出した。窓から外が見えるが、正午近くのためか、人が多くなってきたように感じる。私はドアノブに手をかけ、
「そうだ」まだ名前を聞いていなかったな、と思って振り向くと、男が「九鬼と申します」と笑った。私は驚いたが、「まだ名前を申しておりませんでしたからね」と九鬼は言った。心でも読んだのか? などと下らない妄想が頭を過ったが、それは気付かぬ内に霧散した。
「貴方は?」
「私は、」
私は、後藤と申します。ありきたりな名前でしょう?
九鬼はそうですねと返し、苦笑した。
私は外に出る。眩しい。上から太陽が光をスポットライトのように私たちを写し出していた。全てに違和感を感じるのは、きっと、この喫茶店に長く居すぎたせいだろう。
あ、しまったな。店員の女性の名前を聞かないで出てきてしまった。そのためだけに後ろに戻るのは、なんだか恥ずかしいので、そそくさと帰路に着いた。
口の中にはまだ、ナッツのような香りが残っている。