事の始まりは唐突に
大学で復習をしてからの帰り、いきなり先輩に呼び止められた。
「いよう、毎度のことながら不景気な顔をしているねぇ」
「……なんですか先輩。藪から棒に」
僕――藤村洸は確かにいつも不景気な顔をしているという自覚はあるけれど、それを毎度毎度この先輩は挨拶代りに言ってくる。馬鹿にしているように思えるけど、この先輩の事だ。ただ思った事を言っているだけかもしれない。
「それで先輩、今日は一体何の用ですか?」
僕が尋ねると、先輩はいつもの人を魅了する笑顔を浮かべて1枚のチケットを見せてきた。
「いやー。後輩君は運がいいねぇ。このチケット、なんと超希少価値のあるものなんだ。だが、俺には使えない。そう使えないんだ。そ こ で 特別に と く べ つ に! 後輩君に譲って上げようと思うんだ」
「……譲るということはタダだったりします?」
「おいおいおい、聞いてなかったのか? 超希少価値のあるチケットなんだぞ? もう皆が欲しがるようなチケットなんだぞ? それがタダな訳ないじゃないか」
まただ。この先輩はいつもこうやって僕にガラクタを売りつけてくる。この前だってすっごい健康になれるとか言ってへんてこりんな器具を持ってきたし、その前には霊験あらたかな壺とか言って明らかに素人が作ったと思わせるような変な形の壺を持ってきた。そしてそれらを両方とも一万円で買わされていた。
「……今回も一万円なんですか?」
「お、やけに素直じゃないか。いつもならもっと駄々をこねるのに」
「先輩相手にそんな事をしても無駄だと最近悟ったんですよ」
「……なんだかやけに棘があるように聞こえるが。まぁ今まできちんと買ってくれていた後輩君へのご褒美も兼ねて一万円のところをなんと九九五〇円にまけてあげようじゃないか」
たった五〇円て……消費税分にもならないじゃないか。
ちなみに僕は大学生で家庭教師のバイトをしているから他の学生よりかは自由に使えるお金は多い。それを先輩も分かっているからこうやって売り付けにくるんだろう。勿論、売りやすい相手として認識されてもいそうだけど。
「先輩はいつもそうやって変なものを売り付けてきますよね。しかも高額で」
「ハッハッハッ! いやーそれほどでもないよ」
「誰も褒めてません」
そう言いながら僕は鞄から財布を取り出すと、中に入っていた諭吉さんを無造作に突きだした。
「はい、これでいいでしょう? それと五〇円は要らないです」
「お、そうか。いやーいつも悪いねえ。ほら、俺もノルマが厳しくてさ」
言いながら先輩は諭吉さんを受けとると対価であるチケットを僕に差し出してきた。それを受け取ると僕はろくに内容を確かめもせずに無造作に財布の中へしまい込んだ。
「何のノルマですか。何の。それより僕はもう帰りますけど、構いませんよね?」
「ああ、サンキューな。っと、言い忘れてた。そのチケットだけどよ、枕の下に敷いて使うんだぞ」
「……普通のチケットの使い方じゃないですね」
「ハッハッハ。気にするな気にするな。そんなチケットもたまにはあるさ」
この先輩に何を言っても無駄だった。とりあえず帰ろう。
「それでは失礼します」
「おう、またなー」
手をブンブンと振る先輩を背に僕は家路についた。
「ただいまー」
玄関の扉を開けて帰宅を告げると、ドタドタドタと物凄い音を立てて駆け降りてくる人物がいた。その人物は降りてきた勢いそのままに僕に突進してきた。
「お兄ーーーーちゃーーーーん。おかえりーーーーー!」
「うぶへ」
その人物の体当たりを真正面から受け止めたんだけど思わず変な声が出てしまった。それでも何とか踏みとどまり倒れるのだけは避けた。
「お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん」
胸元でずっと顔を擦り付けているこの子は僕の妹、藤村灯。僕の一つ下で現在高校三年生。身体も立派に成長していてお腹にむにゅっとした感触がする。だからもうそろそろこういったスキンシップは止めて欲しい。
さらに妹と言っても血は繋がっていない、つまりは義妹だ。なんだそのギャルゲと言われそうだけど繋がっていない物は仕方ない。だから余計に止めて欲しい。
しかもこの子は見た目は完璧に学校のアイドルと言えるくらいに可愛い。ポニーテールにしてる髪型は活動的な感じを醸し出して義妹にはぴったりで、その可愛らしさを倍増させている。なので本当に止めて欲しい。
と、未だに義妹が顔を擦りつけている後ろからぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい。今日はちょっと遅かったわね」
そう声を掛けてきたのは僕の姉である藤村宵だった。
「うん、先輩にちょっと呼び止められてね。それでちょっと時間が掛かっちゃったみたい」
「あら……いつもガラクタを売り付けてくる先輩?」
笑顔でありながら異様なプレッシャーを感じる。姉さんは先輩の事嫌いだからなぁ。
ちなみに姉さんは僕の一つ上で同じ大学に通っている。学部は違うけど。だから先輩とは会ったこともある。既にその時から毛嫌いしていたと思う。
そして、やっぱり義姉。さらに言うと、義姉さんと義妹がお互いに血の繋がった姉妹で、義母さんの血を引いている。つまり二人は義母さんの連れ子で、僕が父さんの連れ子。
僕の生みの母がいない理由は離婚じゃなくて死別。僕を生んだ時に亡くなったそうだ。
話を戻して義姉さんについてだけど、義姉さんは妹同様に大学のカリスマと言えるくらいには美人。どれぐらい美人かというと大体10人中9人は振り返る感じ。男も女も、ね。
ただ問題は……。
「もう、あの人には近付いたらだめよ。洸ちゃんは人が良いんだからいつも騙されてるのよ。今回は大丈夫だった?」
そう言いながら後ろに回って僕に抱き付いてくる。いつもこうやって後ろから抱き締めてくるのだ。義妹以上にスタイルの良い義姉さんに抱きつかれて背中にもにゅっとした感触がする。本当に止めて欲しい。
とりあえず意識しないようにして返事をする。
「うん、大丈夫だったよ。なんか話したかっただけみたい」
本当の事を言うと火に油を注ぐ行為になるのは重々承知しているからここは敢えて嘘を吐く。義姉さんは耳に息をふーっとかけながら「本当?」と囁いた。それは止めてください。
「本当だって。それより部屋に行きたいんだけど。着替えもしたいし……」
僕がそう言うと、二人は渋々離れてくれた。そして義妹は「あとで遊ぼ」と言い残して自室へ戻り、義姉さんも「それじゃもうすぐご飯だから」と言い残して台所へと戻った。
我が家のご飯は持ち回り制ではあるものの、殆ど義姉さんが作っている。結構美味しくて、もうあれ以外は食べたいと思えないくらい。胃袋を掴まれるとはまさにこの事を言うのだろうか。
部屋で着替え、義姉さんのご飯を食べ、食後に義妹とゲームをして遊ぶ。途中で義姉さんも混ざってきたけど楽しかった。
「それじゃおやすみ」
「うん、お兄ちゃんおやすみー」
「はい、おやすみなさい」
挨拶をしてから自室へと戻る。そこから明日の残っていた予習を終わらせ布団へともぐる。
あ、忘れてた。一応先輩が言っていたことをやっておこう。せっかく一万円払ったんだしね。
僕は財布からチケットを取り出して枕の下に敷いた。
「おやすみ」
誰にともなく呟いて目を閉じる。意識はすぐに深い深い海の底へと沈むように落ちていった。
いつもと変わり映えのない日々。でもそれが自分にとって居心地の良い素敵な幸せであったことに僕は気付いていなかった。