宅配ワニは、背中で語る
タナカハナ様主催【人外宅配便企画】、2作目を書かせていただきました。1作目『この街の、ハウンド運輸』のキャラクターが登場しますが、内容は独立しています。
川の上流から、何かが流れてくる。
瞳美は橋の上で自転車を止めると、サドルにまたがったまま目を凝らした。
静かな川面が鏡のようにオレンジ色の夕陽を反射して、とろりと光っている。両岸の葉桜の影が、コンクリートで固められた土手に斜めに落ちかかり、夜の始まりを告げていた。
問題の『何か』は、ゆったりとこちらに近づいてくる。逆光で色や材質はわからないが、大きさはおよそ瞳美の一抱えほど。流れているのか流れていないのかわからない程度のこの川の流れよりも、早く進んでいるようだ。まるで、意志を持っているかのように。
「……どんぶらこ?」
思わずつぶやいておいて、それは物の名前じゃないだろう、と自分で突っ込む。そう、まるで桃太郎の桃のようだと瞳美は思ったのだ。川を流れてくる、子どもが一人入っていてもおかしくない大きさの物体。
それは瞳美のいる橋の下へといったん姿を消し――反対側から現れたと思ったら、すすす、と南の岸に近づいた。岸辺に生えた草の間に入り込んで行く。
我に返った瞳美は急いでペダルを踏み込み、橋を渡りきると土手の上の道を南に折れた。その場に自転車を止め、籠の中に鞄もバドミントンのラケットも入れっぱなしのまま、コンクリートの階段を降りる。
誰かが、上流で大事なものを落としたのかもしれない。浮いているうちに引き上げた方がいいだろう。不法投棄のゴミかもしれないけれど、それはそれで川に流しっぱなしなのもどうかと思ったのだ。
まさか桃太郎のように、子どもが入っていたりはしないだろうが――いや、でも。
母親の好きな二時間ミステリードラマの一場面が頭をよぎり、瞳美は足を止めて躊躇した。草の向こうに、さっきの『何か』が頭半分見えている。段ボール箱をビニール袋で包んでてっぺんで結んだもの……らしく、箱には『恵媛みかん』の文字。
「桃じゃないんだ」
思わずつぶやいた時、わさわさっ、と目の前の草と箱が動いた。
草をかき分けて、巨大で平べったいものが、地面を這って姿を現した。
灰色の背中は、まるでタイルでも並べたかのように規則正しいチェック模様。そこに、あの箱が載っていた。大きな頭の横に見える両手が、土手を踏みしめて数歩前に出ると、川からずるりと長い尻尾が上がって来る。
先のとがった大きな口がわずかに開き、鋭い歯がずらりと並んでいるのが見えた、と思った瞬間、渋い声がした。
「桃じゃねぇよ」
――その美声に、瞳美は一発で、腰砕けになった。
ワニだ。どこからどう見てもワニ。そのワニが、しゃべっている。
「女子高生は早く帰んな。俺みたいな凶暴なのに襲われたくなかったらな」
ワニは垂直な瞳孔を持つ目で彼女を見ると、大きく裂けた口の端を持ち上げてニヤリと笑った。そして、瞳美の横を通ってコンクリートの土手を上り始めた。
荷物は紐で縛られ、リュックのように前脚に紐をひっかけて背負っているようで、落ちない。
(か、かっこいい……!)
瞳美は急いで、ワニの横に並んだ。
「あの、ワニさん、それ何ですか? 何かお手伝いしましょうか?」
「ああん? おま、真横に立つなよ。スカートん中まる見えだぞ」
ワニに低い位置から見上げられ、瞳美は噴き出した。
「やだ、ちゃんとスパッツ履いてるもん」
「履いてたってケツの形モロ見えだろうが。ハレンチだぜ」
(「ハレンチ」! 「だぜ」!)
親さえ言わないような死語に、瞳美はますます可笑しくなった。
「ワニさん、どこに……」
行くんですか、と尋ねようとした時、ブーンという音がした。土手の上を、スクーターが走って来る。後部座席の荷物ボックスに『ハウンド運輸』という文字が見えた。
スクーターは瞳美の自転車の手前で止まり、若い男がヘルメットを脱いで降り立った。
「ワニ便さん! 遅くなってすいません」
「おう、ハウンドの敏か。時間通りだぜ」
ワニが草の生えた土手の上まで上りきると、敏と呼ばれた青年はワニの背中に荷物を結びつけている紐をほどきだした。アッシュブロンドのふわふわしたミディアムヘア、細身のイマドキの青年だ。
彼は作業をしながら、ちらっと瞳美を見る。
「小平さん、彼女っすか? 隅に置けねーなぁ」
「バーカ、たまたまここで会っただけだ。ナマ言ってんじゃねえ」
(「ナマ言ってんじゃねえ」!)
瞳美は腹筋をひくひくさせながら、なおかつ、彼女呼ばわりされたことにときめいて勝手にニマニマしてしまう口元を両手で抑え込んだ。
『ハウンド運輸』は、犬の獣人が荷物を配達するバイク便業者だ。この東響ではすでにメジャーな獣人宅配業者の一つで、現在では日の本の国の全国津々浦々、犬に限らず様々な形態の獣人たちがその特性を生かし、宅配業を営んでいる。
(この人も、必要な時は犬に変身するんだろうな。ワニさんも人間になるのかな?)
瞳美は思いながら、ワニに視線を戻す。もちろん、人語を話すだけで姿は獣のままの者もいるし、半人半獣の姿の者もいるので、一概には言えないのだが。
敏青年は紐を解き終わると、荷物をスクーターに積みかえながら言った。
「助かりました、中央道の事故渋滞が全然ハケなくて。やっぱワニ便さんは速い!」
「川は渋滞ねぇからな。急いでるんだろ、行けよ」
ワニは軽く尻尾を左右に振る。
「うぃっす! あ、小平さんもう帰るんすか?」
「何だ、仕事か?」
「この荷物ん中に、目を通してまた戻すやつがあるんだとかって」
「俺ぁ、明日のこの時間までここにいる。間に合えば持ってってやるよ」
「うしっ、助かります! じゃ!」
敏青年はスクーターに乗りこみ、テールランプの赤い尾を引きながら去って行った。
「ワニさん……えっと、小平さん? 宅配便やってるんですか?」
瞳美が話しかけると、
「正確には、宅配業者の補助だな。俺ぁ川の上り下りしかしねぇんだ。さ、わかったら早く帰れ。じゃあな」
「あ」
瞳美が他の話題を探しているうちに、ワニは思いがけない素早さで土手を越え、川の反対側に下りて行った。
土手の上から見下ろすと、彼は角を商店街の方へ折れ、三軒目の小料理屋の引き戸を開いて縄暖簾をくぐった。
「邪魔するぜ」
「あら、和仁さんじゃない! 久しぶりねぇ」
ママの柔らかな声を残し、引き戸はぴしゃんと閉まった。中から幾人もの笑い声が響いてくる。
「ワニ便の、小平……和仁さん……」
瞳美は店を見つめたまま、春の宵の甘い空気を大きく吸い込んだ。
山の上から川の流れに乗り、水しぶきを浴びて荷物を運ぶワニを思い浮かべる。流れの浅い場所では歩けるのだから、まさに水陸両用。
(泳ぎもうまいし足も速かったし、ワニだから力も強いんだしスポーツ万能みたいなもんじゃん! それで親切で、声も素敵で……)
ときめきに、胸の高鳴りが止まらない。
瞳美はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。
翌日は土曜日で、瞳美の所属するバドミントン部は午後から練習があるものの、午前中はフリーだった。
彼女は朝から服をじっくり吟味し、最初にデニムのショートパンツと黒のニーハイを選んだ。
「下から見られるんだもん、足よ足。足をばっちり決めてかないと」
スタンドミラーを足元に置いてチェック、一つうなずいてから、上にシャツチュニックを着る。チュニックはピンクとグレーのチェック柄だ。
「んふ、和仁さんの背中と同じ模様。ペアルックみたい」
瞳美はうきうきと部屋を出て階段を駆け降り、リビングルームに入った。父親はすでに仕事に、二歳年上の兄は予備校に出かけた後らしく、母の里美が二人の食器を下げているところだった。
「おはよー!」
「おはよう。あれ、出かけるの?」
「うん! 部活はちゃんと行くよ。お昼ご飯、外で食べてから行く」
瞳美には、朝起きて何か胃に入れる前に水を一杯飲む習慣がある。キッチンで常温のミネラルウォーターをグラスに注ぎながら、里美に尋ねた。
「ねえ、ワニって何が好きかな? 食べ物」
「はあ?」
フライパンのベーコンエッグを皿に移そうとしていた里美は、手を止めて隣の娘を見た。
「会いに行くの?」
昨夜、瞳美は「超かっこいいワニに会った! 小平和仁さんって言うんだって!」と大騒ぎだったのだ。
そんな瞳美に、里美は「ああ、ワニ便の」と答えて娘を驚かせた。瞳美が知らなかっただけで、ワニ便はごくたまにだが、このあたりの川岸に荷物を持って現れるのだそうだ。
「今日の夕方までは、橋の所にいるって言ってたの。お昼、差し入れするんだ。ね、何がいいと思う?」
「……お肉でも買ってったら? そう……鶏肉でいいんじゃない」
フライ返しの動きを再開させながら苦笑いする里美に、瞳美は尋ねる。
「ワニって鶏肉好きなの?」
「テレビで、食べてるとこやってたのよ。……仕事の邪魔、するんじゃないわよ」
「わかってるって!」
瞳美は皿を受け取るとテーブルにつき、さっさと朝食を済ませていったん部屋に引き上げた。
白のカーディガンを羽織ると、ミラーを勉強机に置いて覗きこみ、色つきリップを唇に引く。リップはピーチの香りだ。
(桃太郎は関係ないって言ってたけどね! ワニってどんな香りが好きなんだろ。何かこう、ジャングルっぽい、川っぽい香りってないのかな? ないよね? まいっか!)
川っぽい香りってどんなよ、と自分で突っ込みを入れながら、階段を駆け降りる。
「行ってきまーす!」
瞳美は自転車で近所のスーパーへ行き、開店を待って特売の胸肉を一キロ購入した。さらにコンビニも回ってから、昨日の川原へと向かう。
(いた!)
土手のてっぺん、コンクリートの護岸が切れて草地になった場所に、ワニ――小平和仁はいた。
太陽の方を向き、口をぱかーと開けたまま、じっとしている。
(ひなたぼっこ? あれがひなたぼっこ? 超可愛い!)
昨夜、インターネットでワニの生態について簡単に予習しておいた瞳美は、ワニが日光浴を好む生き物だということを知っていた。
橋のそばに自転車を止め、背後から近づく。和仁の巨体の両側に、脱力したような脚がびろんと広げられている。その、身体に対して意外と小さな脚も、瞳美にとってはときめきポイントだ。
(口先が細い……クロコダイル科だよね。クロコダイルのコダイラさん。ぷぷっ)
そおっ、と横から覗きこんで、瞳美は軽く目を見張った。
和仁の口の中に、小鳥がいたのだ。
腹が白く、背は茶色いその小鳥は、彼の歯の隙間をちょんちょんとつついている。
(わあ、口の中を掃除してる……)
瞳美がじっと観察していると、小鳥はふと顔を上げ、彼の口の端にとまって首を傾げるようにして瞳美を見た。
そして言った。
「ちょっと和仁さん。人間の女の子が来てるわよ」
和仁は目をギロリと動かし、垂直の瞳孔で瞳美を見ると、小鳥がちょんと口から出るのを待って言った。
「お前か」
小鳥は、瞳美がぶら下げているスーパーの袋から肉のパックが透けて見えているのを目に止めると、憤然と言った。
「何よ、待ち合わせ? 久しぶりのご指名だと思ったのに、気が散るから他の女呼ぶのやめてよね。次もチドリクリーニングをよろしく、でも二人っきりでね」
高い笛の音のような声で一声鳴くと、小鳥はぱっと対岸の方へと飛び去り、あっという間に見えなくなった。
瞳美は一歩、和仁に近づいて顔を覗き込む。
「……お邪魔でした?」
「バーカ、子どもが余計な気ぃ回すな」
言ったそばから、その鋭い視線がスーパーの袋を捕える。
「……俺にか? 気が利くじゃねぇか」
(気ぃ回すなって言ったくせに)
可笑しくなりながら、瞳美はニーハイの足を見せつけるのも忘れ、和仁の顔のそばに体育座りで座りこんだ。
「私も一緒にお昼食べていい?」
和仁が鶏肉を食べている間、瞳美もコンビニで買ってきた鶏のから揚げとおにぎりを隣で頬ばった。あまり腹は空いていなかったが、和仁がもしも生肉より人間と同じものを食べたいと言った場合の保険で、買ってあったのだ。
春の陽射しが燦々と降り注ぎ、土手に咲く野の花をそよ風が揺らしている。遠くから、電車のガタンゴトンという響きが微かに聞こえる。
時々、犬の散歩をする人が通りかかるが、犬が怯えて飼い主を引っ張りワニを迂回していく。誰にも邪魔されない、瞳美と和仁、二人(一人と一匹?)だけの時間だ。
「お前も物好きだなぁ。こんな、四十過ぎたおっさんにわざわざ会いに来るなんざ」
和仁はガツガツと肉を喰らっている。
(……四十過ぎたおっさんなんだ……)
正直、言わなければ外見からはわからないんじゃ……と思いながら、瞳美は答える。どうやら彼は、人間にはならないらしい。
「だって、ワニの宅配便、初めて見たんだもん。昨日のハウンドさんとか黒豹さんは、たまに見かけるけど。和仁さんって、いつもどこで働いてるの?」
瞳美が質問すると、肉のお礼なのか日光浴で機嫌がいいのか、和仁はすぐに答えた。
「川沿いの場所に、依頼があった時しか来ねぇからな。普段は上流の山の中だしな」
「何て山?」
「企業秘密」
「けち。……でも、山の中にいたら、依頼の連絡できないじゃない」
「電波届いてるぜ」
えっ。と瞳美がよくよく見ると、彼は首に携帯電話をぶら下げていた。完全防水の機種だ。
「……どうやって話すの?」
「はぁ? 普通にこうやるに決まってんだろうが」
左前脚がひょい、と携帯電話をつかみ、目の真後ろに押し当てた。
ワニの中でも、クロコダイル科は口の外に牙が突き出していて、ただでさえ凶悪な顔がアリゲーター科などに比べてさらに凶悪に見える。そんな彼が、小さな手(巨大な顔に比べて、だが)で携帯電話を持っているだけで、瞳美は感極まって涙ぐみそうになった。
(そこが耳なんだ……かっ、可愛い、めっさギャップ萌え!)
「あ、ねえ、メアド交換」
「仕事用だ」
「けち! ……ワニ便の仕事って、何人、あ違った、何匹でやってるの?」
「斗音川水系は俺だけだ。他の宅配業者を手助けするだけだからな、何匹もいらねぇよ。他の水系にはいるかもしれねぇな」
「何で一人でこの仕事してるの?」
「だー、次々とうるっせーな……たまたま頼まれて、荷物を運んだら、何となくそういうことになっただけだ」
和仁は言いながら、瞳美から視線を逸らした。
ふうん……と瞳美も何となく辺りを見回して、昨日和仁が降りて行った商店街の方に目をやる。
「和仁さんって、お酒も飲むの?」
昨夜、そこのお店に……と思い尋ねると、和仁は肉の塊を飲み込んでから答えた。
「人間の飲み食いするものなら、俺は何でもいけるぜ。一番の好物は生の鶏肉だがな」
(へぇ……お母さん、グッジョブ)
母に感謝しながら、瞳美もご機嫌で昼食を終えた。
そして、割り箸の袋から爪楊枝を取り出す。
「ねぇ。私、さっきの小鳥さんの代わり、してあげよっか」
「ああん?」
言った和仁の口の中に、素早く手を入れる。
「綺麗にしてあげる……」
鋭い牙がずらりと並ぶ口の中、細い爪楊枝を彷徨わせて、瞳美はゴミを探す。口を閉じられない和仁は、あがが、と言っていたが、やがて静かになった。気持ちいいらしい。
(人間の彼氏に膝枕して耳かきしてる時って、こんな気分かな? 幸せ……)
また一人、犬を連れた近所の住民が、二人を大きく迂回して行った。
幸せな時間は、瞬く間に過ぎる。
「部活行かなきゃ。また会えるよね、和仁さん」
瞳美はしぶしぶ立ち上がると、最後に和仁の固い背中を撫でてから、手を振って自転車に乗り去って行った。しばらくしてジャージ姿で現れ、もう一度彼に手を振ると、高校のある北へと自転車を漕いで去って行く。
再び、うらうらとしたのどかな時間が戻ってきた。
和仁はまた口をぱかーと開け、土手の上で日光浴を満喫する。
――ふと、彼の背中に影がさした。
「何だ。忘れ物か」
クロコダイル科は温度変化に敏感だ。和仁はそう言って、わずかに頭を持ち上げて斜め上を見た。
「久しぶり、和仁さん」
そこに立っていたのは、栗色の髪をひとつに結って片方の肩に垂らし、グレーの綿ワンピースに生成りのカーディガンを羽織った、成人の女性。
瞳美の母の、里美だった。
「娘が会ったって聞いて。和仁さん、何度かここに来てるけど、娘と会ったのは初めてよね」
里美は和仁に近づくと、さきほど瞳美がそうしていたように、膝を抱えて彼の顔の横に座りこんだ。
「……似てると思ったぜ。お前の娘だったか」
和仁は、川面に視線を戻す。水鳥が二羽、ゆっくりと下流へ運ばれて行く。
「俺と古い知り合いだってこと、話してねぇのか」
「うん。言ってない」
「そりゃ、言えねぇわな。俺が最初に運んだ『荷物』が、『お前』だなんて」
くく、と笑う和仁の固い背中を、里美の柔らかな手が叩く。
「うるさいなぁ。しょうがないでしょ、旦那と結婚するなら殺す! なんてお父さんが言うからいけないのよ。それに、川に落っこちたのはわざとじゃないし、たまたまあなたがそこにいたのも私のせいじゃないし」
二十年近く前の話だ。
軍馬県の山中にある町に暮らしていた里美は、都会から仕事で来た男と恋に落ちた。里美の父は頑固で感情的な男で、二人の仲を一切認めなかった。
降りしきる雨の中、認めてくれないなら出て行く、と家を飛び出した里美。父に追われて逃げた川沿いの道で、足を滑らせて増水した川に落ちてしまった。
それを助けたのが、山に住みついていた和仁だ。二人はその時すでに、顔見知りだった。
「ま……お前に『このまま逃げて!』とか言われたら、逆らえねぇよ」
一つ鼻息をつく和仁を、里美は横目で眺める。
「そうよね。山に住み始めたばかりの時、うちの鶏を一羽食べちゃったの、見逃してあげたもんね?」
和仁は里美を背に載せ、山を下って、相手の男の泊まっている川沿いのホテルまで連れて行った。そのまま駆け落ちするという二人に、和仁は約束させたのだ。
川の近くに住め。そして、時々でいいから無事を俺に知らせろ、と。
「あなたが時々来てくれるから、お父さんに居場所を知られずに、お母さんに無事を伝えられる。いつも、ありがとう」
里美はビニールに包まれた封筒をトートバッグから出すと、和仁の尻尾に紐で結びつけた。中には、現在の里美一家の写真が入っている。
「ふん。仕事のついでだ」
軽く尻尾をはね上げた和仁に、里美は笑って言った。
「どっちがついでなんだか。……瞳美はあなたにすっかり夢中みたいだけど、勝手に連れて行かないでよ?」
「親の許しがありゃ、連れてっていいのか?」
ニヤリと口の端を持ち上げる和仁に、里美はもう一度、バカ、と背中を叩いた。
一匹のダックスフントが、土手の上を駆けてきた。口に、ビニールに包まれた書類袋をくわえている。
アッシュブロンドの長毛の彼は、和仁の側で書類袋を地面に置いた。
「小平さん、昨日言ってたヤツ持ってきたっス! お願いします!」
「おう」
答える和仁の横で、里美は立ち上がって軽く尻を払った。
「じゃあね、和仁さん。身体に気をつけて、お仕事頑張って」
「お前も元気でな」
短く答えた彼に手を振って、里美は土手の反対側へと降りて行った。
ダックスフントは彼女の後姿をしばらく見送っていたが、やがて和仁に視線を戻すと、目をくりくりさせて言った。
「……やっぱり、小平さんは隅に置けねーや」
「……うるせぇよ」
和仁はぼそりとつぶやき、書類袋を口にくわえると、背を向けた。
ワニの巨体が川へとすべり込み、幾重にも波紋が広がる。傾き始めた春の陽が、ゆらゆらと揺れる川面できらめく。
チェック模様の背中が、波の跡を引いて上流へと去る。――やがて、水面は元のように、岸辺の葉桜を映し出した。
【宅配ワニは、背中で語る 完】
ワニの数え方は「匹」か「頭」か迷ったのですが、新明解国語辞典第五版に従い「匹」にしました。
※アリゲーター科は熱感知器官がないため、温度変化を感知できないそうです。和仁はクロコダイル科なので敏感です。