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MY HEART STATION

作者: 北館由麻

2011年東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One~オンライン作家たちによるアンソロジー~』(VOL.1)に掲載されていた作品の再掲載となります。

 あの不思議な感覚を誰かに伝えようとするとき、どんな言葉をつかえばいいのだろう。



 今から思えば、大学時代というのはなんと時間を無駄に、いや贅沢に使い、遊び呆けていたことか。社会に出たこともないのに、大学卒業と同時に楽園から追放されてしまうようなイメージだけは、どこからともなく事前に刷り込まれていたようだ。

 もちろん勉強もした。でも私の大学生活の中での勉強は完全におまけだった。

 比較的真面目に頑張っていたのはバイトだろうか。でも、これも考えてみれば遊びやショッピングに使うお金が欲しくて頑張っていたと言っても過言ではない。

 楽園生活を謳歌するために、大学入学と同時にテニスサークルに入った。その名前自体に爽やかな印象があって人聞きが悪くないという点が気に入り、リニューアル直後のテニスコート設備がピカピカと輝いていたので入会を決めた。実際、最初は純粋にテニスが楽しくて、先輩が優しくて、同級生は早耳で、入って本当によかったと思った。

 しかし、三ヶ月もすればその評価は見事にひっくり返る。早い話、人間関係が面倒になったのだ。優しいと思った男の先輩は結局下心があり、よく話しかけてくる同級生の女子は単なるうわさ好きだった。ただそれだけなら面倒ではないのだけれども、悪条件は重なるもので、私に目を掛けてくれた先輩はサークル内で王子的な存在だったから、同級生たちがこぞって私を除け者にした。かばってくれる友達もいたけど、王子の下心に応える気はなかったので私は半年でテニスサークルを抜けた。

 ちょっとやそっとじゃめげない私も、さすがに気分が滅入った。そしてさらに悲しいのは、こんなときに慰めてくれる素敵な彼氏が隣にいないことだと思った。

 最後に付き合っていた男とぐだぐだな関係になり、嫌気が差して「もう二度と会わない」と決めたのは半年前のことだった。大学に入れば彼氏の一人や二人はすぐにできるだろうと簡単に考えていたが、高校時代とは違って大学では生徒同士も緩い関係だ。しかも目に入る男は軒並み圏外で、このままではいつまで経っても彼氏などできそうにない。

 待っているだけではダメだと悟った私は、早速活動を開始した。これだけ情報の溢れる時代に、無理に大学の中で彼氏を選ぶ必要もない。そう思うと急に世界が開けたような気がして、あまり深く考えもせずにメル友を募集し、気に入った数人の人とやり取りを続け、実際に会ってみては首を傾げるという変な方向に前向きな日々を過ごしていた。



 数回の失敗を重ね、ほんの少し痛い経験をした後、私は今までとは違うノリのメル友に出会った。大学生になって二度目の春が巡ってくる頃のことだ。実はそろそろこの活動も不毛だと気付き始め、なんとなくこれで最後にしようと思っているタイミングだった。

 彼はいきなりオネエ言葉でメールをよこした。短い文章に垣間見えるユーモアのセンスにクスッと笑いながら、私は面白がって返信を打ち込んだ。毎日一度だけのやり取りだけど、楽しくて、彼への返信だけはどんなに忙しくても眠くても欠かさなかった。

 でも、ある日バイトでありえない失敗をしてしまい、凹みに凹んだ私はメールを打ち込む元気も出なかった。こういうメル友の段階では、こちらが返信をしなければ、相手からも次のメールは来ない。結局メル友は、友というものの、ずいぶん遠い存在だ。その夜、私はしんと静まり返った自室の、なかなか温まらないふとんの中で、自分には二度と春がやって来ないんじゃないかと、楽園の住人らしからぬことを思った。



 翌日、少し元気になった私はオネエ言葉の彼にメールを送った。大学の講義が終わってバイトに向かう途中、彼から返信が来た。メールを開いた私の目に飛び込んできたのは、期待を裏切らないオネエ言葉だった。

「ちょっともう! メール来ないからすっごく心配したわよ! でもよかったぁ。早く元気出してね」

 私はその短い文面を何度も何度も読み返した。こんな私のことを心配してくれる人がいたことに驚き、見知らぬ私のことを励ましてくれることに感謝した。

 それからほどなく彼と直接電話で話し、初めて二人で会うことにした。電話で話してわかったのだけど、彼の実家が私のバイト先の近所だったのだ。待ち合わせ場所は自然とその最寄りの駅になり、私はバイト以外の用件で初めてその駅に降り立った。

 改札に向かいながら「特技はマシンガントーク」と自称するオネエ言葉の大学生とはどんな男だろう、とドキドキしていた。電話で話したときにはオネエ言葉ではなかったので少しホッとしたのだけど、電話では残念ながら容姿までは判断がつかない。あまり過度に期待すると十中八苦ガッカリな結果に終わるということはすでに学習済みだ。とはいえ実際は事前に期待してもしなくても、許容範囲内か圏外かについて厳格な審査が初見で行われるのだから、結果はアリかナシかの二択となる。改札口にたどり着いた私は、すぐに彼の姿を探した。

 高校生、幼児連れの母親、いい感じに歳を重ねた老夫妻……視線を少しずつ動かしながら改札を通り抜け、出口のほうへ移動する。そこで私の視線はピタリと止まった。

 出口のすぐ脇に、身体にフィットするデザインのTシャツに緩めのジーンズ姿で、首にはレザーのチョーカーをさげた大学生らしき男性が突っ立っている。たぶん彼に間違いない。私は彼の真正面まで歩いていった。

希美のぞみさん?」

 電話と同じ声だ。彼を見上げると、急に周囲は陽光が満ちて明るくなった。Tシャツから伸びる彼の腕は形の良い筋肉質で、それを意外に思いながらもう一度顔を確かめる。目が合った瞬間、彼は笑った。細い目は笑うとなくなってしまう。だけど、気持ちの良い笑顔だった。

「そうです。はじめまして」

 太陽の下ですくすくと育った印象の青年は「それじゃあ行こう」と言って駅を出た。彼の後に従いながら私は、いつも使っているこの古びた駅が、あんなに明るい場所だっただろうかと訝しく思った。埃っぽくて暗い感じの駅舎なのに、今はちっとも嫌な気がしない。

 駅の前には黒いSUVスポーツユーティリティビークルが停まっていて、彼は助手席を差して「どうぞ」と言った。事前に彼が市外の大学へ自動車通学していることは聞いていたが、もっと小さな車を想像していたので驚いた。いや、私にとっては彼に関することすべてが驚きだった。

 初めてのデートはドライブがてら彼の大学の近くにある大きな湖へと向かった。彼の名前は拓海たくみ。サーファーっぽい外見だなと思っていたら、小学生のときには海洋少年団に所属していて、ボートを漕ぐのも得意だと言う。実際、湖のボートでその腕前を披露してくれたが、それでこの締まった体型なのか、と力強いオール捌きを見て私は納得した。

 私が今まで付き合った男はどの人も綺麗な顔をした痩せ型で、スラリとしていると言えば聞こえはいいが、どこかか細く頼りなかった。

 でも拓海は彼らとは全然違う。きちんと土に根を張って育ってきた逞しさが感じられる。

 ドライブの最中、私は大学に入ってからのあれこれを、それこそマシンガン並みの勢いで並べたが、拓海はニコニコしながら辛抱強く最後まで聞いて、頷きながら私の手に自分の手を重ねた。

「大変だったね。でも大丈夫」

 なにが大丈夫なのかわからないけれど、このとき私も心の中では「そっか、大丈夫なんだ」と理屈抜きに納得していた。

 デートを終えて帰宅した私に拓海は「希美といると楽しいね。またすぐに会いたい」とストレートな内容のメールをよこした。オネエ言葉はどこに行ったんだ、と思いながらも私は生身の拓海に強く惹かれていたと思う。以前こだわっていた彼氏の条件からすると拓海は規格外なのだけど、そんな条件自体がバカバカしくなってしまった。私は昔からのこだわりを、頭の中でくしゃくしゃに丸めてポイとそこらへんに投げ捨てた。



 それから始まった拓海と二人で過ごす日々は、まるで楽園を駆け巡るような心弾む毎日だった。拓海は大学生としては私と同じ学年だったが、高校時代に海外留学していたため実年齢は二歳年上だ。でも彼を年上だと意識したことはあまりない。考え方は当然私よりもしっかりしているが、先輩風を吹かせることもなく、おっちょこちょいの私をニコニコ眺めているという態度だ。大学で課されるレポートの多さを嘆いても、バイトで失敗して怒られたことを愚痴っても、いつも拓海はうんうんと頷きながら耳を傾けてくれて、最後に「でも大丈夫」と言う。それから「おいで」と言われて彼の大きな胸に飛び込んだら、本当になにもかもが大丈夫な気がするから不思議だなと思う。彼の腕の中はいつも温かくておひさまの匂いがした。

 冬には拓海が教えてくれるというので、私は生まれて初めてスノーボードに挑戦した。スキーなら得意と言ってもいいレベルなのだが、スノボはバインディングの装着の仕方すらわからずにまごつき、リフトの乗降だけでも筋肉痛になるほどで、両足が固定されている状態で雪の斜面を滑るのは予想以上に怖かった。しかし拓海は根気よく私に付き合ってくれて、私もなんとか彼のようにカッコよく滑りたくて意地になって頑張った。

「希美がこんなに頑張り屋さんだとは思わなかったよ」

 何度も無様に尻餅をついて斜面にクレーターを作りながら下まで降りてくると、拓海はすっかり感激した面持ちでそう言った。

「そうかな。全然まともに滑ることなんかできてないけど」

 あまりにも大げさに褒めるので照れくさかった。それでも拓海は何度も何度も褒めてくれた。

「連れて来るまでは、もしかしたらちょっと滑っただけで『もう二度とやらない』って言うんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだ」

 私は苦笑しながら、確かに自分なら言いそうなセリフだと思った。でもそんな私が苦労しながらも頑張れたのは、拓海が優しいからだ。そのことを言葉にしようと思ったが、彼の穏やかな笑顔を見たら、胸がいっぱいになってなにも言えなかった。

 拓海は落ち着いた人だけど、彼の存在はいつも活力に満ちていて、彼が笑うと周りまで温かくなる。そんな拓海のそばにいると、私も温かくなって心地いい。こうしてずっと二人で歳を重ねていけたらいいのに、と思う。そうすればきっとなにもかも大丈夫なのだ。



 しかし、無情にも楽園を去らねばならない日がやって来た。

 ちゃっかり者の拓海はそれほど苦労せずに内定をもらい、要領の悪い私はギリギリまで周りに気を揉ませながらもなんとか滑り込みセーフを決めた。二人の勤務地は同じ都市だが場所が離れてしまい、当然のことながら、大学時代のようには会うことが出来なくなった。

 大学で経済を専攻していた私は、それなりに名のある企業の経理課に配属され、理系だった拓海は電子機器メーカーの研究部門で、私にはさっぱりわけのわからない設計を仕事としていた。お互いに忙しく、メールや電話で話すだけの毎日が続く。社会人になりたての私は、会社では緊張しつつも、大人の階段を一段上がったことで相当浮かれていた。朝のラッシュには雑誌で研究し尽くしたOLスタイルで参戦し、夜の歓迎会ではちやほやされて四方八方に愛嬌を振りまいた。疲れてもいたが、それ以上の高揚感に包まれて、新たなOL生活を楽しんでいた。

 そのうち拓海からのメールは夜中に来るようになっていた。内容も「疲れた」とか「眠い」とか、彼にしては元気がない。会う時間も作れないほど忙しいのか、とメールを見るたびに胸が痛んだ。だから返信には自分なりに気持ちを込めて「無理しすぎない程度に頑張って」とか「休めるときに休んでね」と慰労の言葉を添えた。

 だが、会わないでいると次第に私の中の拓海の存在感が薄くなっていった。たまに二人で写っている写真を見るが、これは今の私たちではない。そう思うと部屋に一人きりでいることが寂しくて切なかった。

 拓海はどんな格好で出勤しているのだろう。研究職だからスーツじゃなくてもいいとは聞いていたが、ジーンズ姿なのだろうか。ご飯はどうしているのだろう。職場には女の子もたくさんいるのだろうか。とにかく私にはわからないことが多すぎた。会って話せばすぐに解決するような疑問が次から次へと湧いてくる。

 こんな状態で拓海と私は付き合っていると言えるのか。

 そう考えていた矢先に、同じ経理課の先輩が産休に入ることになった。小柄な先輩はお腹の膨らみも目立たず、妊婦だと気がつかない人もいるくらいだったが、この頃はさすがにお腹が重いとこぼしている。先輩の産休中は課内で彼女の仕事をシェアすることになったので、私もいくつかの業務を請け負った。私自身の仕事のメインは社員の出張旅費関係なのだが、先輩は他社への支払い業務をメインにしていたので、私も初めて対外的な仕事をさせてもらえることになった。とはいえ、借り上げ社宅の振込伝票を起こすというもので、毎月相手先も金額も件数も決まっていて難しいところは何もない。それでも仕事を任されることが嬉しくて、月末は張り切って伝票を起こした。

 月末の慌しさを乗り切り、ホッとした私はたぶん気持ちのどこかが緩んでいたのだろう。コーヒーを飲もうと思い、給湯室へ向かった先に、その人がいた。

「希美ちゃん。俺とデートしない?」

 話しかけられてから相手の顔をまじまじと見つめた。一階上の部署で生産管理を担当している男性だった。細面の整った顔立ちに柔らかそうな髪質で、背はあまり高くない。正直に言えば、まさに私の好みの男性だ。

「私、彼氏、いますよ」

 さらりとかわすつもりで言ったのだが、彼は私の進路に立ち塞がって、もう一度言った。

「俺とデートしないと、きっと後悔するよ?」

 なんという自信だろう。私は思わずクスクスと笑ってしまった。それでも目の前の男性は気を悪くした様子はない。名札を見ると「大久保」と書いてある。大久保さんはおとなしそうな外見に反して、女性に対しては積極的に動く男性のようだ。

 一瞬、拓海の顔が私の脳裏に浮かぶ。大学生のままの拓海の顔が――。

「一回だけなら」

 そう答えると大久保さんは満足そうに笑顔を見せた。束の間、拓海に対する罪悪感が私の胸をつねったが、それもすぐに新しい扉を開く期待にすり替わる。目の前にいる魅力的な男性からの誘惑を断ったら、本当に後悔しそうな気がしたのだ。

 拓海、ごめんね。一回だけだから。

 私は「一回だけ」という薄っぺらな言い訳を自分自身への免罪符にして、大久保さんとデートの約束を交わした。



 実際、大久保さんはカッコいい。人気アイドルグループの一人に似ていると女性社員たちはうわさしている。そんな男性から誘いを受けて嬉しくないわけがない。拓海と付き合ってからは他の男性と仲良くなる機会もなかった。私は密かな優越感を胸に抱き、上機嫌で仕事をこなした。

 その頃、拓海からはメールさえも途絶えていた。私の中には「だから仕方がない」と、大久保さんとのデートを正当化する自分すら現れて、ケータイを見るたびにため息が漏れた。拓海が最後にくれたメールは一ヶ月前の日付だった。

 以前、友達から聞いた言葉を思い出す。

「こっちが浮気しているときは、相手も浮気しているものらしいよ」

 まさか、と、やはりそうかも、が私の中で激しくケンカする。焦りが喉元までこみ上げてきて、慌てて拓海に電話を掛けてみるが、無情にも「電源が入っていないか、電波の届かないところにいる」という機械的な女性の声が返ってきた。

 電話も繋がらない、メールの返信も来ないこの状況はどう考えたらいいのだろう。あの優しくて誠実な拓海が私をないがしろにするなんて信じられない。なにか理由があってのことだろう、と私は自分の心に何度も言い聞かせる。

 だけどこの不安な気持ちは私を必要以上に駆り立てた。

 大久保さんとデートをした。久しぶりに気分が宙に舞い上がる感覚を味わい、「また遊びに行こう」という言葉に笑顔で頷いてしまった。意外に大久保さんは紳士的な態度で、デートの最中も嫌だなと思う部分が全然なかったし、男の人とのデートは女性同士で遊ぶのとは別のスリルがあって楽しい。拓海という恋人がいる私がこんなことを思うのは不謹慎だと思う。でも私は自分の気持ちに正直に生きていたい。たまには心がときめくような瞬間だってほしいし、誰かが自分に心を寄せてくれるくすぐったいような感覚を手放すのは惜しい。それが身寄りも友達もいない大都会で、仕事が生活のすべてになってしまった私の紛れもない本音だった。



 そのデートの後、出社すると給湯室で大久保さんと会うのが日課になった。特に約束したわけではないので、大久保さんが私の時間に合わせてくれているのだろう。社内だから人目を気にして、他の人と同じ態度で接しているつもりだけど、それが毎日となると少しずつお互いに打ち解けてくるのはどうしようもない。

 拓海とは相変わらず連絡が取れずにいて、さすがにそろそろ白か黒かをはっきりさせなくてはならない気がした。電話もメールもダメなら直接彼の家に行くしかない。拓海の住居には本格的に仕事が始まる前に何度か行ったが、一人で無事にたどり着けるかどうか自信がなかった。それが私を消極的にさせる一番の要因だ。しかもこれほど間が開いてしまうと、拓海がとても遠い人に感じられて、会うのが怖い。

 そんなことを考えていた朝、大久保さんが軽い調子で言った。

「彼氏とはどう?」

 私は苦笑しながら「忙しいみたいで」と言葉を濁した。大久保さんには「最近あまり会っていない」と言ってあったが、しばらく音沙汰がないことを打ち明けてはいない。それを言うと、自分から一歩踏み込んでしまうことになるので躊躇していたのだ。

 そのとき、私の名前を呼びながらパタパタと駆け寄ってくる女性の足音が聞こえてきた。大久保さんと私は一瞬顔を見合わせたが、彼はなにも言わずに給湯室を出て行った。入れ替わりに給湯室に駆け込んできたのは、隣の席の同僚だった。

「大変よ。月末に希美の起こした振替伝票が間違っていて、一つも処理されてなかったみたい」

「えっ!?」

 頭の中が真っ白になった。処理されていないということは、つまり相手方へ代金が振込されなかったということだ。

「とにかく課長が呼んでいるからすぐに来て」

 同僚の言葉を聞き終わる前に私は駆け出した。フロアに戻ると課長が黙って私を手招きした。小走りで課長の後に続き、小会議室に入る。室内には冷たい目をした部長が私を待っていた。

「引き継ぎはきちんとされていたんだよね?」

 私は「はい」と言うのがやっとだった。その声もか細く語尾が震える。課長が椅子に座るよう促してくれたが、戸口から数歩入ったところから足が動かない。

「君は、自分が新人だから『わからない』とか『できない』のが当たり前だと思っていないか?」

 足がガクガクして、冷や汗が噴き出した。

「支払いが滞るとどうなるか、わかるか? 君の担当は一件の金額が数万円だからと軽く考えていないだろうか? 大げさだと思うかもしれないが、君一人のミスは会社全体のダメージになる。そのことをよく考えてほしい」

 その後、部長は少し優しい口調で私を励ますようなことを言ってくれたが、その部分はなにも覚えていない。最初に指摘された自分の落ち度が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 自分の席に戻ると、周りの態度が明らかに変化していた。だが、とにかくすぐに間違った処理をやり直さなければならない。突き刺さるような視線を感じながら、自分の甘さを恥じた。部長は私の本質を見抜いていたのだと思う。

 昼休みになり、席を立つと、後ろから声がした。

「意外と使えない子ね。大久保さんも趣味が悪いわ」

 こみ上げてくるものを必死にこらえて足早にトイレに向かう。個室に入り、一人きりになった途端、涙が溢れた。自業自得だ。大人になったと勘違いし、浮かれていただけで、社会人としてはなんの自覚も持っていなかったのだ。

 大久保さんとのこともそうだ。仕事もまともにできないくせに、ちょっと素敵な男性から言い寄られていい気になっていただけだった。自分のしたことが恥ずかしかった。

 私は涙がおさまると会社の外へ出た。人気のないところまでくるとケータイを取り出して拓海に電話をかけた。電波が発信される間、祈るような気持ちで待つ。

 呼び出し音が鳴る。私はそれを奇跡が起こったかのような気持ちで聞いた。

「もしもし」

 おさまったはずの涙が、一気に溢れてこぼれた。胸がいっぱいになって言葉が出ない。

「希美?」

 拓海の声が私の心を震わせた。

「会いたいよ」

 それを言うのが精一杯だった。涙声を隠すことができない。拓海はすぐに「うん」と言った。

「今日の夜、一緒にご飯食べよう。それまで頑張れ」

 なにかを察したのか、拓海はいつもの声でそう言ってくれた。私はようやくほんの少し自分を取り戻した気がした。

 午後は気を引き締めて仕事をした。周囲もなにもなかったように接してくれる。だけどその腫れ物に触れるような態度が、時折私の心の傷口を深く抉った。



 拓海に会うのはほぼ三ヶ月ぶりだった。待ち合わせの駅に現れた拓海は、私の記憶よりも痩せていて顔色が悪かった。だけど口を開くと陽気にふるまう。最初は緊張していた私もすぐに安心した。

 拓海はまず、ずっと連絡が取れなかったことを詫びた。

「俺のやってる仕事って機密情報を扱うから厳しくてさ、仕事中ケータイとか一切使えないんだ。しかも新人だからこき使われて、ごめん、全然余裕なかった」

 私は小さく頷いた。メールくらいくれてもいいのに、と思うが、拓海の顔を見たらなにも言えなくなった。彼はもう学生の頃とは顔つきが全く違う。社会人としての自覚が足りないと指摘されたばかりの私に、拓海を責める資格はない。

「なにかあったの?」

 下を向くと、拓海は優しい声でたずねてきた。すぐには顔を上げることができない。目の前に料理が運ばれてきたが、とても喉を通りそうになかった。

「今日、仕事で失敗しちゃって……」

 言いながら、大学時代もこんなことがあったな、と思った。でも、あの頃はバイトの身分で、どんな失敗をしても「バイトだから」で済んだし、最悪バイトの職を失ったとしてもここまで落ち込むようなことはなかったと思う。

 ぼそぼそとした声で過失の全容を話し終えると、拓海は何度か小さく頷いた。それからしばらく私の顔をじっと見て、ひとこと言った。

「希美は社員なんだから、部長が怒るのは当然だよ」

 また涙が溢れ出た。優しい言葉を期待していたのに、完全に逃げ場を失ってしまい、ひどく動揺する。そのとき向かい側から力強い声がした。

「でも大丈夫」

 拓海は慈悲深い目で私を見つめている。

「大学のとき、一緒にスノボに行ったの覚えてる?」

「うん」

「スノボってさ、転んでナンボのスポーツだけど、初めてだった希美はなにもないところでも転んで、見てる俺もさすがにかわいそうになった」

 私は涙を拭いながら、少し笑った。拓海も笑っている。

「でも転んでも転んでも希美は、珍しく文句も言わないで立ち上がって、また滑るんだ。本当は怖いのに、少しずつ勇気を出して前を向こうと頑張って、最後にはターンができるようになってた」

 雪まみれになったスノボ初体験の日のことを思い出す。スキー場は風が冷たく、転んだついでに疲れて斜面に寝そべったら、身体の芯まで冷えた。だけど心はいつも温かかった。それは私が一人じゃなかったからだ。

「希美は何度でも立ち上がれるよ。そういう根性のあるヤツだって俺は認めてる。誰だって間違いや過ちを犯すことはあるさ。でも希美はそんなことで潰れるようなヤツじゃない」

 拓海の力強い言葉の途中で、私はハッとした。

 間違いや過ちを犯す――。

 急に胸が苦しくなった。正面の拓海の顔をまともに見ることができない。顔は自然に下を向き、視線がせわしなく左右をさまよった。

 向かい側で私の急激な変化を訝しく思う気配がする。

「わ、私……、拓海にあやまらなければならないことがあるの」

 声が震え、自分のものではないような気がした。心臓がドクドクと音を立てる。意を決して目を上げた。

 目の前には静かに私を見つめる拓海がいる。大きく息を吸い込んだ。

「会社の男の人とデートした」

 一気に言った。胸も喉も絞り上げられるような痛みが私を苛む。そして拓海の顔を見た私は、絶望の淵に叩き落された。

 急に世界から光が失われたようだ。

 拓海の頬は暗い翳に覆われ、その目は深い悲しみを湛えている。私を咎めるわけでもなく、ただ痛ましいほどの哀愁と深遠なる孤独に必死で耐えているように見えた。彼にこんな表情をさせたのは私だという事実が、胸を突き抜け、内臓を抉り、全身の細胞を締め上げた。黙って座っていることが辛い。それでも拓海から目を逸らすことは許されないと思った。

「その人のことを好きなの?」

「……わからない」

 拓海はさらに沈痛な表情をして目を閉じた。

 どうして私はこんなときに気の利いたほんの少しの嘘もつけないのだろう。

 大久保さんのことを嫌いではないのは確かだ。でも「好きか」と聞かれると「うん」とは言えない。それなら「別に好きじゃないけど、しつこく誘われたから仕方なく一回だけデートした」とか、他にいくらでも言いようがあるのに、よりによって不鮮明な言葉で本心を言ってしまった。

 しかし、この場面でなにかを取り繕うようなセリフを言えるはずがない。

 私はなんのためにこんな告白をしたのだろう。懺悔だろうか。それとも拓海に別れを告げるため……?

 ガタッと椅子が動く音がして、向かい側の拓海が立ち上がった。

「ちょっとトイレ……」

 そう言った影が急に傾いた。テーブルの上の皿が耳に付く嫌な音を立ててぶつかり合う。私は反射的に立ち上がって拓海の身体を腕で支えた。身体が熱い。ゲホ、ゲホッと立て続けに咳をして、呼吸が苦しそうだった。

「どうしたの? 大丈夫?」

「俺、もう……ダメかも」

 私の腕に拓海の体重がのしかかってくる。顔面が蒼白になったかと思うと、額に汗が浮き、意識が遠のいているようだ。

 異変に気がついた店員がやって来たので、彼らに手伝ってもらい、拓海を休憩室へと運んだ。救急車を呼ぶべきかと問われたが、そうではなくタクシーを手配してもらった。

 長椅子に横たわる拓海を見守るが、顔色はさっきよりもさらに悪い。白から土色に変わり、少し休んだところで回復するとは到底思えなかった。でも救急車を呼ぶのは大げさな気がしたので、咄嗟の判断でタクシーを呼んでもらったのだ。

 タクシーが来るまでに夜間救急診療をしている病院を探し、事前に電話をかけておいた。拓海の意識はぎりぎりのところで踏みとどまっていてくれたので助かった。病院に到着すると車椅子で診察室まで運ばれていった。

 診察の結果、おそらく胸膜炎だろうと診断され、翌日以降に詳しい検査をすることになった。胸膜炎は昔、肋膜ろくまくとも呼ばれていたらしい。医師の説明によれば、肺の表面を覆う膜が胸膜で、その部分がウイルス等の感染で炎症を起こし水がたまった状態を胸膜炎と呼ぶのだそうだ。感染による炎症は風邪のようなウイルスの他、結核菌が原因の可能性もあるという。

「結核!?」

 さすがに私は驚いた。でも医師は慌てた様子もなく、静かに言う。

「このくらいの年齢の方の場合、不摂生を続けた結果、胸膜炎を患うことがあります。おそらく過労でしょうね。二、三週間入院が必要です」

 そして退院してもしばらくは安静と規則正しい生活、それから十分な栄養が必要だという説明を受けた。

 私はしばらくショックで茫然としていたが、入院の手続きの話になり、急に我に返った。すぐに拓海に聞いて彼の実家と職場の上司に電話を入れ、急遽個室のベッドに寝かされることになった拓海のそばに腰を落ち着ける。

「今日、無理して来てくれたんでしょ?」

 言いながら、泣き出しそうになるのを必死でこらえた。拓海は熱もあり、呼吸が辛そうだが、かろうじて目を開け、微笑を浮かべている。

「全然」

 少し前から相当無理をしていたはずだ、と医師は言っていた。今日初めて拓海の顔を見た瞬間、私だっておかしいと気がついていたのに、どうしてあのときもっと危機感を抱かなかったのか、と悔やまれる。結局、私はいつだって自分のことしか考えていなかったのだ。拓海に出会う前も、出会ってからも、そして今の今まで――。

「もう遅い時間だから、帰りなよ」

 拓海は口を閉じると肩で息をした。目を開けているのもやっとのようだった。

「拓海が眠るまでここにいる」

 そう言うと拓海は子どもみたいな笑顔を見せた。そして私のほうへ手を伸ばす。その手を握ると小さな声で言った。

「ありがとう」

 拓海の手を握り締めたまま、私は声を殺して泣いた。ありがとうと言わなければならないのは私のほうだ。どうして身体を壊すまでの無理をしていたのか、と聞きたいことはたくさんあるが、まず拓海に元気になってもらわなければならない。深い眠りについたことを確かめて、私は病院を後にした。

 翌日から出勤時間を早めた。そして出勤するとまず、ずっと気になっていた机の上を拭き掃除した。ついでに同じ課のデスク全部を軽く拭いておく。あくまでもついでに、だ。それから早速自分の仕事を開始する。考えてみれば、朝にだらだらとコーヒーを飲んだりしているから仕事に身が入らなかったのだ。まず掃除から入ると身が引き締まって仕事にも集中できる。

 定時には自分の仕事がきっちりと終わった。「お先に失礼します」と言うと、周りから気持ちのよい「お疲れさま」が返ってきた。すぐに帰宅準備をして、拓海の病院へと急ぐ。

 病院には拓海の母親が来ていた。入院の手続きを終え、必要な物を持ってきてくれていた。私の顔を見るなり、彼の母親は頭を下げる。

「希美さん、ありがとうございました。希美さんがいてくれて本当によかった」

 私は首を横に振りながら、拓海を見て苦笑いした。彼は昨日よりも少し血色のよい顔でにっこりとする。それを見た途端、私の心の中がパッと明るくなった。失いかけていた光が今は自分の中にしっかりと見える。そして今なら拓海のためにどんなことだってできる気がした。

 でも本来私のほうが元気を分けてあげる立場だというのに、実際はその私が拓海からたくさんの元気をもらっている。それを拓海の母親に話すと「いいえ」と即座に否定された。

「希美さんが思っている以上に、拓海はあなたに励まされていると思うわ。あなたがいるから、拓海も頑張ることができるのよ」

 私はまたみっともなく泣いた。そしてどんどん心が温かくなっていった。

 週末、拓海の会社の人たちが見舞いに訪れた。拓海は嬉しそうだった。それもそうだろう。一日中ベッドの上で安静にするというのは、かなり暇だ。帰り際、拓海の上司が廊下で私を呼び止めた。

「拓海は仕事以外にも『自分は勉強不足だから』と、時間の都合がつく限り自主的に研修を受けたり、とにかく少し頑張りすぎていたよ。それも目標があるから、と言っていた」

「目標?」

「入社したときに『一年後に結婚を考えているので、この一年は猛烈に頑張ります』と宣言していたんだ。実際、拓海は今ものすごく成長している。しっかり治して戻って来いと伝えてください」

 拓海の上司の言葉に私は深々と頭を下げた。

 私はなにをしていたのだろう。そして私は拓海のなにを見ていたのだろう。

 自分の不甲斐なさを心の中でとことん罵った。だけど所詮私は私だ。いきなり別の人間になることはできない。

 でも、そこから始めようと思った。私は自分のことしか考えていない自己中心的な人間だ。そんな私ができることは、と考える。職場でもまず自分の業務を精査する。一つ一つの仕事の流れを吟味すると、どこを改善すれば業務が円滑になるのか、少しずつ見えてきた。

 拓海が退院するまで毎日病院へ通った。これも拓海のためなんかじゃない。私が拓海の顔を見たいから行くのだ。日に日に元気になる彼の姿は私の希望でもあった。

 早朝に出勤するのを続けているうちに、大久保さんに顔を合わせる機会がほとんどなくなった。しかも、大久保さんを見ても今は胸がときめかない。自分でも自分の変化に驚いた。

 拓海の退院後、それぞれの勤務地に通いやすい場所に、二人で暮らせる部屋を探して引っ越した。迷うことは何もなかった。拓海はたまにからかうつもりなのか「後悔してるんじゃない?」と言うが、大学時代よりもふっくらした拓海の顔を見ると、本当によかったと思う。そして植物がそうであるように、人も光がないと生きていけないのだと感じた。人は光合成するわけではないけど、私は隣に拓海がいれば心が温かくなる。そういう光はやっぱり誰にでも必要じゃないだろうか?



 私たちは拓海の計画通り、新入社員と呼ばれなくなった頃に結婚した。私は職場で女性の働き方を考える会を作り、結婚し、出産し、そして子育てをしながら無理なく仕事を続けられる環境作りのために奔走し始めた。この運動は思ったよりも難しく、驚いたことに女性側からの反発もあった。でも産休明けに復帰した先輩が私を強く後押ししてくれたことと、意外にも子育て経験のある男性社員からの理解を得て、会社側も制度の見直しや仕事の配分などを考慮してくれるようになっていった。

 拓海も倒れた日から半年後には通常の勤務に戻り、相変わらず私にはよくわからない仕事を熱心にやっているようだった。けれども、新入社員の頃のように休日を返上して研修を受けることは月に一回程度に減らしてくれた。おかげでまた二人で食べ歩きをしたり、温泉に行ったりする楽しみが復活した。

 桜の花が咲く頃、私たちは近所の大きな公園へ散歩に行き、池に浮かべてある手漕ぎボートに乗った。結婚して二年目の春だ。最初は拓海が漕いでくれたが「疲れた」と言ってオールを私に差し出す。

「えー、私下手くそなんだけど」

「ていうか、希美、手の動かし方が逆だよ。俺が漕いでるところを見てなかったの?」

「ぶっ、恥ずかしい……」

 そんなやり取りの末、なんとかボートは水面を滑り始めた。しばらくして拓海が「あのさ」と口を開く。

「希美が会社で一生懸命頑張ってるから、ずっとどうしようかと迷っていたんだけど」

 私は腹筋に力を入れながら首を傾げる。はらはらと舞い落ちてきた桜の花びらが、拓海の頭上にのっかった。ボートの上にも、私のGジャンの肩の上にも花びらが降り積もっている。

「俺、故郷に戻って会社を起こそうと思うんだ」

 うん、とすぐに頷いた。なんとなく拓海がそう思っていることはわかっていたし、私もいつかは故郷に戻りたいと思っていたからだ。

「いつ? 今すぐ?」

「一年後、かな」

 その返答を拓海らしいなと思いながら聞いた。彼はいつでもきちんと準備をしてから動くタイプだ。私とは違うけど、だからこそ拓海のやることにはいつも安心感がある。

 来年はここの桜を見ることができないかもしれない。満開の桜の木の下を進みながら、光溢れる眩しい春に私は目を細めた。



 高速バスで飛行場に向かい、飛行機で故郷の地へ飛ぶ。時間には余裕を持っていたので、思ったよりスムーズだった。そして電車で三十分。ついに私たちは故郷の駅に到着した。

「うわぁ! いきなり近代的になってる!」

 小さな声だけど、私は驚嘆せずにはいられなかった。あの古くて薄暗い駅が、橋上駅として建て替えられ、広々とした空間を贅沢に使ったモダンな駅へと変化していたのだ。

「前が古すぎたんだよ」

 拓海はあっさりと言う。その言い方に私はガッカリして憤った。

「そりゃそうかもしれないけど。でもここは私と拓海が初めて会った思い出の場所なんだよ!」

「そうだね。確かあのとき俺は、車で待っていた気がする」

「違うっ! 入り口のところで待っていてくれたよ!」

「そんな昔のこと、もう忘れたよ」

 そう言って拓海はスタスタと先に階段を下りていった。一人残された私は「もう」とひとりごとを口にして、とぼとぼと出口へと向かう。拓海にとって私との出会いなど特別でもなんでもなく、記憶にすら残っていないということが悔しかった。でも男性はそういうものかもしれない。私が覚えていればいいことだから、まぁいいか、と思い直す。

 階段を下りると、壁の一部がレンガ張りだ。へぇ、と思いながら外に出てみると新しい駅の外壁は上部が黒色で下部はレンガ張りになっている。新築だが落ち着いた雰囲気だった。

 拓海はどこに行ったのだろう、と辺りを見回す。駅前広場も駅と同様に整備されていたが、最初のデートの際に拓海が車を停めていたところはそのままだ。そしてそのすぐ横にレンガが敷設された小道があるのが見えた。

 視線の先に拓海の姿を見つけ、その小道へと足を運んだ。近づいてみると、レンガの一つ一つに名前が刻まれている。案内板にはこの地が昔、高品質レンガの生産地であったことが記されていた。そしてここはそれを記念して造られたレンガの広場らしい。

「あった!」

 突然、拓海が大声を上げた。びっくりして駆け寄ると、同時に「ふぎゃあ」という赤ちゃんの声がした。

「ちょっと、せっかく寝てたのに起きちゃったじゃない!」

 拓海の腕の中で懸命に抗議している赤ちゃんのほっぺを突っついた。

「ずっと寝ていたから、そろそろお腹空いたんじゃないの?」

 確かに拓海の言うとおりだ。初めてのバスも飛行機も電車も、ほとんどぐずらずに眠っていてくれたのだ。まだ生まれて三ヶ月だというのに、誰に似たのか、本当に聞き分けのいいお利口さんだ。

 私はニットの上着に包まった我が子を腕に抱き、拓海に聞く。

「それで、なにがあったの?」

 拓海は私を見てにっこりと笑った。彼の笑顔が眩しくて、私は一瞬目を細める。

「これ!」

 そう言いながら拓海が指差したのはレンガの一つだ。そこには「たくみ・のぞみ」と刻まれている。

「……えっ!?」

「このレンガのプロジェクトの話を母さんから聞いて、希美に内緒で頼んであったんだ」

 私は足元のレンガをじっと見つめる。それから拓海の顔を見上げた。

 この不思議な感覚を誰かに伝えようとするとき、どんな言葉をつかえばいいのだろう。

 穏やかに微笑む拓海の顔がぼやける。急に腕の中の我が子の重さとぬくもりが愛しくて仕方なくなった。だけど無情にも赤ちゃんは拓海に抱き上げられ、私の腕は空っぽになってしまった。

「ほらほら、抱っこしていたら、また腕が痛くなるよ」

「でもずっと拓海に抱っこしてもらっていたし……」

「俺は大丈夫。さぁ、行こう。俺たちの新しい家へ」

 拓海は我が子を軽々と片手で抱いて、もう片方の手で私の手を握った。見覚えのある通りを家族三人でたどりながら、私はずっと笑顔だった。時折、赤ちゃんの顔を覗き込むと、彼女も夢見るような笑顔で答えてくれた。

 ぽかぽかとした春の日差しを浴びながら、私はこの胸の中にも同じくらいぽかぽかする温かいものが確かにある、と感じていた。そしてそれはどんなに時が経ち、目に見えるものが形を変えていったとしても、いつでもここにある。だからもう私は何があってもきっと大丈夫――そう信じている。


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