おれの生理痛 :約5500文字
「お前……泣くんじゃねえぞ?」
「泣くかよ、馬鹿。どうせ大したことないだろ……」
昼休み。おれは同僚の小渕と廊下に並んで、肩を小突き合っていた。壁にもたれかかる連中の顔には不安や気だるさ、それから妙な高揚が滲んでいる。腕を組んで目を閉じているやつもいれば、スマホを眺めてあくびをしているやつ。ちらちらと辺りへ視線を走らせ、貧乏ゆすりをしているやつもいた。
そのどこか浮ついた空気に、ふと小学校時代の健康診断を思い出して、おれは頬を緩めた。面倒だと思いつつも少しわくわくするあの感じだ。
今日、社内の一室で『生理痛体験会』なるものが開かれていた。
なんでも都知事の肝いりの施策らしい。女性の社会進出を推進する一環として、男性社員にも生理痛を体験させるという。女性が生理の際にどれほどの痛みに苦しんでいるかを男に理解してもらい、職場環境の改善や意識改革につなげることが目的だそうだ。
参加者の下腹部に電極パッドを貼り付け、電気刺激によって子宮収縮に近い痛みを再現するらしい。どこか胡散臭く感じる一方で、そんな技術が存在するのかと感心もした。
当初は都内の企業で管理職クラスの男たちを中心に実施されていたそうだが、今ではおれのような平社員までが対象となっている。よほど好評だったのか、それともこの国に昔から根付いている『おれも嫌な思いをしたんだから、お前もやれ』の精神なのか。なんにせよ、事実上の業務命令として扱われていた。ああ、まったくいい迷惑だ。
そもそも生理痛を疑似体験させるくらいなら、その痛みを軽減する方向に予算や労力を回したほうが建設的なのではないか。それに、そんなに生理が大変なら女を雇うこと自体を減らそうという話にならないのか。……もっとも、今の時代は一定数以上の女性を雇用しなければならない決まりもあるし、おれが考えることでもない。
ただ言われたとおりに参加して、神妙な顔でもしていれば済む話だ。都知事の思いつきに振り回されるのは今回限りにしてほしいところだが。
「次の方たち、どうぞ」
部屋の入口から声をかけられ、前に並んでいた連中と一緒におれたちは部屋へ足を踏み入れた。
中にはパイプ椅子と例の装置が等間隔に並べられていた。パイプ椅子の下には、なぜか藻を思わせる鈍い緑色のシートが敷かれている。
前の組の連中はすでに退出したらしく、室内には誰も残っていなかった。出口側には衝立が設置されており、退出時の様子は見えなかった。どんな顔で出てくるのか少し興味があったのだが、まあ別にどうでもいい。
室内にいた担当者は全員女性だった。白衣姿で、黒髪をきっちり後ろにまとめている。笑顔はなく、声色も事務的だった。病院というより、試験会場に来たような雰囲気だ。
なるほど。廊下で待っている間、まるでお笑い芸人みたいな大げさな悲鳴が中から何度も聞こえてきたが、あれは彼女たちへのアピールだったのだろう。おれも適当に痛がってみせればそれで満足するはずだ。下手に強がったり、『大したことないですね』なんて口を滑らせたら、上司に報告されて面倒なことになるかもしれない。こういうのは空気を読んでやり過ごすに限る。
ちらりと小渕を見ると、どうやら同じ結論に達していたらしい。小渕はにやりと口元を歪め、軽く顎を引いて頷いた。おれも同じように頷き返した。
「こちらへお座りください」
「はい。よろしくお願いします」
おれははきはきと答えた。小渕はぷっと吹き出し、すぐに誤魔化すように咳払いした。
パイプ椅子に腰を下ろすと、シャツをめくって腹を出すように指示された。おれは少しだけ腹に力を入れて引っ込めながら、シャツを持ち上げた。やれやれ、筋トレしないとな。三十代に入り、確実に腹回りが緩んできていた。
担当者は慣れた手つきで電極パッドを貼りつけていく。ひやりとした感触のあと、ぬるい温かさが皮膚の上に広がった。
ふいに、映画館で上映開始を待つときのような妙な緊張感が胸の奥からせり上がってきた。たしか経験者の話では、『内臓をハンマーで殴られるような鈍痛』だの、『腹の中を針で刺されるような感覚』だのと言っていたはずだ。
もっとも、それも女の機嫌を取るために盛っているにすぎない。実際は、ちくりとする程度だろう。女は何かと大げさなのだ。そもそも、女こそ男の苦労を体験すべきだ。普段、自分たちがどれだけ優遇されているのかをまるで理解していない。女子枠だの女割引だの、女子トイレの拡大だの、優しくされればそれが当然の権利だと思ってつけ上がり、要求は際限なく膨らんでいく。そればかりか、こちらが何かしてやれば、『そんなこと頼んでいない』『勝手にやった』『別にどっちでもよかった』『共感してほしかっただけ』などと平然とのたまう。権力など与えてみろ。まったく、目も当てられない。思いつきで発言しては、責任も取らずに仮病を使って引きこもり、時間が経ってからしれっと顔を出して上から指示を出す。反省の意思など微塵も見られず、追及すれば『記憶にございません』『まだその話をしているの?』『それより、もっと他にやるべきことがあるでしょう』などと目を細めて口にする。
それで今度は男に対してこの仕打ちだ。傲慢すぎて笑いすら出ない。女こそ金玉を蹴られる痛みを味わうべきである。そうすれば、少しは理性的に考えられるかもしれない。いかに男が――
「始めます」
担当者たちが互いに目配せをし、装置のスイッチを押した。
「あはあああああああああああああああああああ!?」
瞬間、すさまじい激痛が――いや、なんだこれあああああああああ!? 腹の中で下痢まみれのナイフが暴れ狂っている! 腸を掻き回し、ねじり上げ、抉り、引き裂きゃああああああああ! ぐちゃぐちゃに刻み続けている! ここここ、こんな、これが生理痛だと!? おおおお、女はこんな痛みを――
「レベルを上げます」
「ああああああぎぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!?」
直後、痛みが腹から脳天まで一気に駆け上がった。視界が真っ白に弾け、目玉の奥に直接電流を流し込まれたような熱と痛みが迸った。
おれは椅子の縁を掴み、歯を食いしばった――はずだったのに、顎が勝手に震え、歯と歯ががちがちと激しく打ち鳴らされていた。息を吐くたびに歯の隙間から唾液が噴き出した。
全身の筋肉が痙攣し、膝ががくがくと震え、視界が激しく揺れる。足の指は靴の中でぎゅっと縮こまり、ふくらはぎは引き攣り、太腿は勝手に跳ね続けていた。
耳鳴りが雷鳴のごとく轟き、耳の奥で鼓膜が風船みたいに膨らんでいるような圧迫感があった。
おれは反射的に自分の腹を見下ろした。内臓が飛び出し、肌の上でミミズみたいにのたうち回っていると思ったのだ。これは針で刺されるどころではない。内臓を巨大な針の山に叩きつけているようなもの――だああああああああああ!
「レベルをもう一段階上げます」
「まだ、ああああああああううううあはあああああああああああん!」
腹が潰れた。大型トラックに踏み潰されたような圧力が、下腹部の一点に叩き込まれたのだ。だが、潰されて終わりではない。膨らんでは潰され、膨らんでは潰され、スクイーズのおもちゃってこんな感じなのか! ははははははは!
「ばばばっばっばばばばばばっ! さばっ、ばばばっ、ばばばばばっ!」
声はもはや制御できるものではなく、自分でもどんな音を出しているのかわからなかった。ただ、苦痛によって無理やり押し出された肉体の悲鳴であることだけは確かだった。
一瞬、悲鳴が二重に聞こえたかと思ったら、片方は隣のブースの小渕のものだった。
両手足を投げ出し、尻を椅子から浮かせ、腹を天井に突き上げるように全身を反らせている。白目を剥き、歯茎を剥き出しにし、全身を震わせ、特に頭を激しく振っていた。痛みを逃がそうとすると、ああいう動きになるのかもしれない。椅子から落ちないのは無意識にバランスを取っているからだろう。
ともすれば、きっとおれも同じような体勢にあばばばばばばばばばばば!
「さら――ます」
女の声が途切れ途切れに耳に届いた。その直後、視界が一瞬完全に白く塗り潰された。
がしゃんと大きな音がした。おそらく誰かが椅子から転げ落ちたのだろう。だが、それは自分なのか他人なのか、もうおれには判別がつかなかった。
もはや背中を床に打ちつけようが、ハンマーで殴られようが感知できる気がしない。虫歯の治療中に腕をつねるようなものだ。この痛みとは比較にならない。
胃を潰し、腸を編み込み、膀胱を絞り上げて何を作っているかと思えば、結局全部ミキサーに放り込んでぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ!
「さらに――」
その雑音めいたアナウンスの直後――おれの背骨は砕かれた。
あ、はい。
砕かれましたね。
いやあ、自分でもびっくりしてえ。えーって思いましたねえ、はいー。
雑巾を力いっぱい絞るみたいに、おれの背骨は内側からねじ上げられて、ばきりばきりと音を立てて折れていきましたよ。
砕けた骨片が神経の上をレーシングカートのように走り回り、肉を裂き臓器を裂き骨を削り、おれの胴体を内側からズタズタにしていったのである。
悲鳴は声帯を潰し、喉を抉りながら外へ飛び出していく。わあい。口は横だけではなく縦にも裂け、おれの顔は花の蕾が開くみたいに、ぱっくりと割れ、舌がちろちろと揺れて、そこへ小鳥さんが寄ってきて蜜をチューチュー。
もちろん、そんなことは実際には起きていない。ただ、そういう妄想でもしていなければ、とても正気を保って――早く終われ早く終われ早く終われ早く終われ早く終われ早く終われ。
◇ ◇ ◇
「お疲れさまでした」
気絶と覚醒を何度も繰り返した末、気づけば腹に貼られていた電極パッドが外されていた。
女の一声に、おれは思わず泣き出しそうになった。だが、涙はすでに出し尽くしたらしい。目頭は乾ききり、眼窩の奥がただじんじんと熱を帯びて痛んでいた。
おれは震えながら上体を起こした。そこで初めて、自分が上半身裸であることに気づいた。どうやら無意識のうちに脱いでいた――いや、引きちぎったらしい。すぐ横にはワイシャツとスーツが無惨な塊となって転がっていた。
口の中に何かが入っている。
舌先で探ると硬い感触がして、おれはそれを手のひらにぷっと吐き出した。
スーツのボタンだった。他にも妙な苦味が舌に残っていた。口元を拭い、その手の匂いを嗅いでみると、強烈なアンモニア臭が鼻を衝いた。
嫌な予感がして視線を落とすと、ズボンの股間に大きな染みが広がっていた。
ベルトは千切れ、ファスナーが開いている。
おれは自分の股間に顔を突っ込んだのか。それとも誰かが、あるいは誰かの――いや、考えたくない。
周囲を見渡すと、他の連中も似たような有様だった。でっぷりとした腹を晒したまま椅子に抱きついている者。床にぺたんと座り込み、涎を垂らして虚空を見つめている者。大の字になって横たわり、びくびくと痙攣している者。
小渕も例外ではなかった。椅子に片肘をつき、テディベアのように足を投げ出している。髪は汗で額に張り付き、顔は土気色になっていた。視線はどこにも定まっておらず、口が半開きになっている。
部屋の中には汗と尿、それに吐瀉物にも似た酸っぱい臭いが混じり合い、むわっと熱気が漂っていた。
「いかがでしたか?」
女が腰を落とし、おれの顔を覗き込んだ。おれは乾ききった喉を鳴らし、なんとか声を絞り出した。
「女性って……大変なんですね……」
本心だった。
女はにこりと笑って頷いた。おれもなんとか口角を上げた。
笑い声は出なかった。それが精一杯だった。
「では、次にこちらを装着させていただきますね」
「へ……?」
女がおれの頭に何かを取り付け始めた。
ぺたりと覚えのある感触が額に広がった。これは――また電極パット……?
「え、あ、あの、えっ、ちょっと待って、え? 嘘? やだ。え? なんで? え? 待って」
事態が把握できず、おれは自分でも何を言っているのかわからないまま喋り続けた。
だが女は聞いていないかのように淡々と作業を続けた。やがて装置の横にいる女と視線を交わすと、小さく頷き合った。
「次は、出産の痛みを体験していただきます」
「大変なんですよ。鼻からスイカを出すくらい痛いんですから」
「え、でも……あなた方、独身じゃ……? 指輪をしていないし……」
言った瞬間、女たちの顔が固まった。
だが次の瞬間には再び笑みを浮かべた。ただ、その額にはうっすらと青筋が浮かび、頬がひくひくと痙攣していた。
「いや、あの、すみません!」
おれは慌てて叫んだ。
「もう、よくわかりましたから! 本当に! ごめんなさい! せ、生理かもしれない人がいたら、ナプキンを差し上げます! いつでも差し出せるように常に持ち歩きます! カイロも! お、お、おなかを温めたほうがいいんですよね!? 差し上げます! 全部差し上げます! 生理の人は褒めます! 生理なのに頑張ってる! 生理なのにありがとう! 生理ナイス! あああの、あの、い、いや、だから、その、お願いします! 許してください! お願いします!」
おれは床に額を擦りつけ、必死に懇願した。嫌だ。もう嫌だ。あんな痛みをもう一度味わうくらいならなんでもする。それに実際、生理のつらさは十分すぎるほど身に染みていた。出産の苦痛だって想像できる。気が狂いそうなほどに。
おれは心から誓った。女性に優しくする。女性を敬う。おれが悪かった。おれが間違っていた――。
ふいに耳元に柔らかな吐息がかかった。
「あなた、都知事の悪口をSNSに書き込んだでしょ」
おれはゆっくりと顔を上げた。
すると、女たちが無言で頷き合うのが見えた。
その瞬間、すとんと腑に落ちた。
ああ、そういうことか。
これは理解を深めるための体験会なんかじゃない。
過激な啓蒙活動でもない。
都知事によるパージ――そう完全に理解した直後、おれの眼球は破裂した。




