えんがちょ結界
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
は~い、それじゃあ、髪切ったばかりのわたしから、みんなに質問です! 地球上で人類が使える水の量は、どれくらいだと思いますか?
70パーセント? 50パーセント? 30パーセント?
素晴らしい! そうお考えになられた皆さんは人類を超越したミュータントでございます!
いかに水の惑星と呼ばれる地球でも、その98パーセント近くが海水。残りの2パーセントも7割が南極の氷で、あとは地下水がほとんど。
人間が安定して使い続けられる水の資源、川、沼、湖! なんと、0.01パーセントしかございません! それも川が干上がったり、生活や工場の排水だったりで、どんどんとダメージを受け続けている現状。
技術的なブレイクスルーが起きない限りは、安全に使える水がジリ貧になっていくのは時間の問題ですね。水の無駄づかいをなくしましょうとは、皆さんも耳にタコができるほど聞いているとは思いますが、大事なことに違いないんですね。
しかし、このブレイクスルー、皆さんは降ってわいた奇跡のようなものと思ってはいないですか? 思いますよねえ、なんともご都合主義じみてますもんねえ。
されど、それは過程や前例を知らないだけかもしれません。ちゃんと布石の張られた奇跡に対して、ある程度寛容になってくれるのが人情というもの。
ちょっと前にわたしが出くわした、不可解な技術の話、聞いてみませんか?
あれはたまたま市営バスに乗っていたときのことでしたねえ。
いつもお世話になっていたバスですから、運行ルートは百も承知。わたしの目的地からしてみれば、迂回迂回の大回り。ちまちまお客を拾ってないで、とっととわたしを運ばんかい! と文句を言いたいところです。
そのバスが、とある地元の一級河川に架かった橋を渡ろうとしかけて、わたしは「ん?」と気が付いたんですね。
川そのものに注目したんじゃありません。その川水が流れ込み、岸辺の一角にぽっかりできたため池に目を留めたんです。
以前は、この池のまわりに釣り人たちが集まり、ときにはテントもこさえられるほどでマイナーなフィッシングポイントだったんですねえ。
それが時間の経過とともに、誰のしわざか、自浄の末か、水がすっかり濁ってしまいまして。もとの濁りの田沼こいしきとうたわれても、嫌なものは嫌なんです。おそらく魚もいなくなり、釣り人たちも見切りをつけて、閑古鳥が鳴かんばかりの景色でした。
けれどもバスから見下ろすその池は、橋の上から向かって左。地面におおいに邪魔されてはいるものの、川の本流に近い一角が、明らかに異なる清さを放っていました。
色のついた水の中に、油を一滴垂らしたようといいますか。コンパスで描いた半円のごとき丁寧さで、ふちはきっちりとした形を保っています。ゆがんだりしていない。
あまりの不自然さに興味をそそられたわたしは、用事を済ませたあとの帰りのバスを、ここの最寄の停留所で下ります。そのまま池へ向かっていったんですね。
間近で見ると、なお異様さが際立ちます。
元の池は茶色く濁った中へ、得体のしれない水草もぷかぷか浮かび、魚も池の底もとうてい見られない汚水の権化。
それに対し、半円描いたこちらは清水。魚こそいませんが、本流の川の水と大差なく透き通り、池の底に埋まった大小の石の数々、その色合いまで確かめることができたんです。
あたかも可視化した「えんがちょ結界」。汚いものはこの領域に立ち入らせないぞという意思表明。しかし、そうも背伸びして頑張っているのを見ると、いたずらしてやりたくなるのがわたしという生き物。
あたりを見やって、ちょうどいい具合に長めの竿が転がっているのを発見すると、ぱっと手に取りました。
自然の導きとは真逆の方向。人工的なマドラー攻勢です。
まぐれ、天運、そんなものでは保てません。真なる実力があるか否か、わたしは試してやりたくなったのですよ。
そして、ため池はその力を見せます。
わたしはふちを乱しに乱し、池のまわりを歩きながら、どんどんと汚水を合流させて混ぜ合わせていきました。
物理的な壁を持たない清水たちに、これは拷問のごときこと。見る間に汚水の仲間入り、先ほどの清さは影も形もありません。
しかし、わたしにとってはただの試練。試練は打ち破られるためにあり、打ち破るには自助努力のたくましさを示すべきなのです。
そう考えるわたしの意を汲んだのか。しばらくは混ぜられるがまま揺れていた水面ですが、その落ち着きが戻り始めるや、先ほどのえんがちょ結界の中心部あたりに、ぽつんときれいな点が生まれたのです。
何かが落ちたわけではないことは、まばたきもせず目をこらしていたわたしが、何よりも分かっています。
生まれた点はどんどん広く、大きくなっていき、混ぜ合わせた汚水を押しのけていって、ほどなく先ほどのような半円の結界を作り終えます。
身の程をわきまえているというか、口にのりするだけで満足というか、先ほど以上の広がりを見せようとはしませんでしたよ。
そこから先ですか?
わたしも気になりまして、先ほどの点の生まれ始めのところへ、持っていた竿を突き立てたんですがね。みるみる竿がきれいになっていったかと思うと、透き通っていっちゃったんですよ。
ええもう、向こう側の景色が見えちゃうくらいに。質量はあるのに、ほぼ完ぺきな透明化。光学迷彩がきっちり実用化されたら、あんな感じなのでしょうか?
なんて、落ち着いて考えられるのも、今になってからのこと。
このときのわたしは、柄にもなくあわてちゃいまして。完全に透明になっちゃった竿を手放したはいいんですが、その先がこつんと髪の毛をクッションに頭へ当たっちゃいましてね。
よもやと手鏡で見たら、私の髪が透き通っていくのなんの。中ほどのぶつかったところから上へ下へ、先端から生え際にかけて、がんがんですよ。
これはいけないと、これまた持っていてよかったソーイングセットのはさみでもって、バサバサ髪を切っていったんです。しんどかったですよ~? あのかわいいサイズのはさみで対抗するのは。
まあ、最終的にこうして私は頭を丸めて、反省せざるを得なくなったわけです。
それ以来近づいていませんが、あの池のあそこに、まだ残っているんでしょうかねえ。えんがちょ結界のもとが。




