最終話:春が来たので、君の隣で笑っていたい
春の光、大学の午後、やわらかな風。
強い事件ではなく、そっと近づいていく気持ちの揺れを大切にした物語です。
読後に、心へ淡い風が残るような、やさしい最終話になればと思いながら整えました。
パーティが終わるころには、夜の空気もすっかりやわらかくなっていた。
昼の名残を少しだけ抱えたままの風が、大学の並木道を静かに通り抜けていく。
行きの道ではまだ春の入口だった景色が、帰り道にはもう、春そのものの顔をしていた。
会場の明かりから少し離れた場所で、あくあとみかは並んで歩いていた。
にぎやかな笑い声は後ろに遠ざかっていき、代わりに聞こえるのは、靴音と、葉の揺れる音と、ときどき肩の上で小さく笑うそらの声だけだった。
「……終わっちゃったね」
みかがそう言うと、あくあは少しだけ空を見上げた。
「うん。でも、なんか」
「うん?」
「終わったっていうより……始まった感じがする」
みかはその言葉に、そっと目を丸くした。
あくあがこういうことを自分から言うのは、きっと珍しい。
けれど、今夜のあくあは、いつもより少しだけまっすぐだった。
肩の上のそらが、風を抱くみたいに両手を広げる。
「はじまり……! はる、はじまり!」
その無邪気な声に、みかがくすっと笑う。
あくあもつられるように笑って、それから少しだけ歩調をゆるめた。
前のほうではラブがうれしそうにしっぽを振り、ジュニアが落ち着いた足取りでついていく。
少し離れた場所では、サラと幸太郎が大人らしい静かな距離感で並んでいて、何も言わずに、けれどちゃんと後ろを見守ってくれていた。
そういう夜だった。
誰かが背中を強く押すのではなく、歩ける速さで歩けばいいと、道そのものが教えてくれるような夜。
校門のそばまで来たところで、あくあは足を止めた。
みかも立ち止まる。
春の匂いがした。
遠くで誰かが笑っていて、街灯の光は丸く、やさしい。
まるで世界が、今だけ少し静かになって、二人の言葉を待っているみたいだった。
あくあは、みかを見る。
黒ぶち眼鏡の奥の目はいつもと同じように静かだったけれど、そこにはちゃんと、ためらいながらも手放したくないものを見つめる色があった。
「みか」
呼ばれて、みかは小さく息をのむ。
「今日……すごく、うれしかった」
「うん」
「スーツも。似合うって言ってくれたのも」
「……うん」
「それに、ずっと」
そこまで言って、あくあはほんの少しだけ困ったように笑った。
言葉を探している顔だった。
でも、逃げない顔でもあった。
「ずっと、みかがいてくれて、よかった」
みかのまつげが、かすかに揺れる。
強い告白ではなかった。
胸を打つような大きな台詞でもない。
けれど、それはあくあが今の自分で差し出せる、いちばん正直な言葉だった。
みかはしばらく何も言わなかった。
ただ、泣きそうになるのをこらえるみたいに、やわらかく笑った。
「……わたしも」
そのひと言が、とてもきれいに夜へ溶ける。
「わたしも、あくあくんがいてくれて、よかった」
風が吹いた。
強くない、でもたしかに届く風だった。
そらが「あっ」と声を上げる。
どこからか舞ってきた桜の花びらが一枚、二人のあいだをふわりと通り過ぎた。
まるで祝福みたいだと、みかは思った。
でも、それを言葉にすると、きっと少しだけ照れてしまうから言わなかった。
あくあは花びらの行方を目で追って、それからみかに向き直る。
「……これからも」
「うん」
「こうして、一緒に歩いてくれる?」
みかは、今度こそはっきりとうなずいた。
「はい」
その答えは、小さいのに、春の夜には十分すぎるくらいまっすぐだった。
そらが待ちきれないように声を上げる。
「いっしょ! いっしょだね……!」
ラブもそれに合わせるみたいに、小さく駆け回る。
ジュニアは落ち着いた顔でその様子を見守っていた。
少し前を歩いていたサラは振り返り、何かを察したように微笑み、幸太郎は何も言わずに、ただやさしく目を細めた。
大人はときどき、何も聞かないことで、いちばんきれいに祝ってくれる。
「帰ろうか」
あくあがそう言うと、みかは「うん」と答えた。
今度は、さっきより少しだけ自然に、二人の距離が近かった。
肩が触れるほどではない。けれど、もう離れて歩く理由もない。
そんな距離だった。
道の先には、それぞれの明日がある。
授業も、日常も、うまくいかないことも、たぶんこれからたくさんあるのだろう。
それでも今日という一日があれば、少しずつでも歩いていける。
あくあにはそう思えた。
やさしさは、目立たない。
大きな音もしない。
けれど、だからこそ人を深く癒やすのだと、春の夜は静かに教えてくれていた。
みかが隣で笑う。
そらが風に手を伸ばす。
ラブがしっぽを振り、ジュニアがゆっくりとついてくる。
サラと幸太郎の背中は、少し先であたたかな灯りみたいに揺れていた。
あくあはその全部を見て、胸の奥でそっと思う。
世界は思っていたより、ずっとやさしいのかもしれない。
少なくとも、自分が大事にしたい人たちのいる場所は、こんなふうにあたたかい。
「みか」
「なあに?」
「春、来たね」
「うん」
「……今度は、ちゃんと来た」
みかはその意味を聞かなかった。
聞かなくても分かることが、たしかにあったからだ。
その代わりに、みかは笑った。
春そのものみたいな、明るくて、やわらかな笑顔で。
あくあも笑う。
ほんの少し照れながら、それでも、ちゃんと。
そうして二人は、やさしい夜の先へ歩いていく。
急がなくてもいい。
大きな約束がなくてもいい。
好きな人の隣で笑えること。
それだけで、人は明日を少し好きになれる。
春から届いた便りは、もう風だけではなかった。
それは、誰かを想う気持ちであり、
見守るあたたかさであり、
言葉になりきらないまま、それでもたしかに心へ届く、やさしい光だった。
そしてその光は、これから先もきっと、
あくあとみかの歩く道を、
ほがらかに照らし続けていく。
終
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
強い言葉より、そっと寄り添う気持ちを大切にしながら、あくあとみかの春を描いてきました。
やさしさが誰かの心を少しでもほどき、明日を好きになれる小さな灯りになれたなら、とても嬉しいです。
作者コメント】
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
大きな言葉ではなく、そっと寄り添うやさしさを大切にしながら、この物語を書いてきました。
あくあとみかの春が、読んでくださったあなたの心にも、やわらかな灯りとして残れたなら幸いです。




