第1話 境界の交易と割り込みの兎
湖の水面が、夕陽に染まって赤く揺れていた。
黒い石造りの城が湖畔に佇み、その影が水鏡に長く伸びる。
静寂の中、風がわずかに波を立てる音だけが響く。
王子・黒瀬悠真は、湖畔の隠し桟橋で一人、木箱を抱えていた。
中には、湖底から採れた巨大なしじみを、陰陽の呪符で丁寧に抽出した黄金色の液体——「しじみ抽出液」が十本入っている。
これを運ぶのは、今日が三度目だ。
「……また来てしまったか」
悠真は自嘲気味に呟いた。
水の王国は豊かな湖の恵みで生きているが、金属資源が極端に乏しい。
一方、銀鋼の王国はミスリルが無尽蔵に眠るが、水がなければ命すら保てない。
だからこそ、境界交易は禁じられているはずなのに……密貿易は止まらない。
「今日も無事に済めばいいが」
悠真は胸元の勾玉を握りしめた。
深紅の輝きが、淡く脈打っている。
この勾玉は、願いを一つだけ叶えるとされる神器——だが、代償は決して軽くない。
ふと、砂丘の向こうから風が強くなった。
黄金の砂が舞い上がり、夕陽を遮るように視界を埋める。
「……来たか」
悠真の背筋がピンと伸びた。
次の瞬間、砂の波が爆発するように割れ、白い影が飛び出した。
「——っ!」
銀閃。
ミスリル製の細剣が、風を切り裂いて悠真の喉元へ。
距離は一瞬で詰まり、剣先がわずか数センチのところで止まる。
「動くな、水の王子」
兎耳がピンと立った白兎族の少女が、悠真の前に立っていた。
純白の毛皮に、赤い瞳。
身長は悠真より少し低いが、その存在感は圧倒的だった。
「姫……また君か」
悠真はため息をつきながら、両手を軽く上げた。
少女——銀鋼の王女、リルカ・白兎は、剣を引かずに睨みつける。
「三度目だな。よくも毎度毎度、こんな禁忌の交易を続けられるものだ」
「君も毎回、俺を殺しに来てるじゃないか」
「……殺すならとっくに殺している」
リルカの頬がわずかに赤らんだ。
兎耳がピクピクと動く。
それは、彼女が動揺している証だった。
「さっさとその箱を渡せ。今日こそ、全部持って帰る」
「それは無理だな。半分だけだ」
悠真は木箱を地面に置き、半分のしじみ抽出液を取り出した。
リルカも砂丘の袋から、黄金に輝く果実——「永遠の輝き梨」を三つ取り出す。
二人は互いに睨み合いながら、ゆっくりと交換の距離を詰めた。
その瞬間——
悠真の胸元の勾玉が、突然強く光った。
同時に、リルカの首にかけられた同じ形の勾玉も共鳴するように輝き始める。
「……!?」
二人は同時に凍りついた。
湖面が鏡のように静まり、夕陽が二人の影を長く伸ばす。
風が止まり、砂の粒子が空中で静止する。
そして、湖の底から響くような声が、二人の頭の中に直接響いた。
「黒き湖の王子と白き兎の王女が結ばれねば、水と銀鋼の両王国は渇きと崩壊に飲み込まれる……」
神託だった。
陰陽大師が何度も見たという、あの予知。
悠真とリルカは、互いに目を見開いた。
「……嘘だろ」
「俺も……初めて聞いた」
二人は同時に呟いた。
次の瞬間、リルカの兎耳が激しく震え、剣を構え直す。
「これは……お前の陰陽師どもの陰謀か!?」
「違う! 俺だって知らなかった!」
「黙れ! こんな予知など信じられるか!」
リルカの身体が再び銀閃を放つ。
超速の突進が、悠真の詠唱時間を狙って迫る。
だが—— 悠真は動かなかった。
代わりに、胸元の勾玉がさらに強く光り、二人の間に淡い光の鎖が現れた。
鎖は、悠真とリルカの腕を優しく繋ぎ、剣を止めた。
「……っ!?」
「これは……」
二人は同時に言葉を失った。
光の鎖がゆっくりと消えていく中、夕陽が湖に沈み、辺りが紅く染まった。
悠真は静かに息を吐き、言った。
「……どうやら、俺たち、結婚しないと両国が滅ぶらしい」
リルカは剣を下ろし、赤い瞳を細めた。
「……ふざけるな」
だが、その声はわずかに震えていた。
兎耳が、ぴくりと動く。
夕陽が完全に沈み、湖面に星が映り始めた頃——
二人は、互いの名産を握りしめたまま、沈黙の中で立ち尽くしていた。
(続く)




