第拾壱話 「あなたとあたし」
彼は仕事のために日本へやって来た。今日は在留資格を取得するため、市役所に足を運んでいる。日本語は大学時代に専攻して学び、日常の会話に困らない程度には上達していた。夢にまで見た憧れの地における、第一歩を踏み出そうとしていた。
「お客様、今日はどのようなご用件でいらしたのですか。」
案内係の女性が、彼に話し掛けてきた。
「わたしは、在留資格を取得しに来ました。」
彼は、あらかじめ準備してきた台詞を言った。
「ああ、ダメですよ。〔わたし〕という言葉は使えませんよ。必ず〔わたくし〕と使ってくださいね。」
案内係は慌てたように、でも優しく彼に注意してくれた。
彼は、日本語の人称が無数に存在するとは知っていたが、まさか使い方を注意されるとは思わなかった。
「すみません。わたくしですね。気を付けます。あなた優しいですね。ありがとうございます。」
「どういたしまして、でも、〔あなた〕も使っちゃダメですよ。必ず〔あなた様〕です。気を付けてくださいね。」
「わたくしにあなた様ですね。分かりました。ありがとうございます。」
彼はそこまでかと驚きながらも、彼女から渡された整理番号を持って順番を待った。
彼は、自分の番号が呼ばれたので、窓口へ行って手続きをする。窓口の男性へ、順番を待っている間に記載した申請用紙と、パスポートを手渡した。
「ここの呼称項目なんですが、未記載ですね。どうされますか。」
「わたくしで良いのではないのですか。」
彼は案内係の女性が注意してくれたこともあり、それを念頭に応えた。
「いえ、わたくしは未登録外国人用の呼称で、登録時には使えないんです。自分でよく考えて選んでください。」
彼は混乱し苛ついたが、ぐっと堪えて、色々と考えて〔あたし〕を登録した。
数分後再び窓口に呼び出された彼は、真新しい登録証を受け取り、その記載内容を確認した。そこには呼称カテゴリー〔あたし〕とあり、バッチも合わせて受け取った。
「これを必ず見えるところに掲示してください。それとこれをよく読んでください。あたしのカテゴリーが使える呼称と、使用出来る言葉の一覧となります。もし違反した場合は罰金刑となりますので、気を付けてくださいね。」
渡されたバッチには大きく〔あたし〕とあった。彼はそのバッチを見つめながら、日本での生活に言い知れぬ不安と恐怖、そして重圧を感じた。




