第玖話 「風の囁き」
彼は長年住み慣れたこの部屋を最後に見渡した。
十数年住んだこの部屋は、海辺にあるアパートの一室で、彼が大学入学と共に親元を離れ、初めて一人暮らしを始めた部屋である。
六畳一間に小さな台所とユニットバスが付いた、築年数は数十年経つ古いアパートである。隣の物音も筒抜けで、話し声も聞こえてきたりする。
そんなアパートでも彼にとっては思い出の詰まった部屋であり、勉学に励み、愛を育んだ場所である。
初めて出来た彼女と何度も逢瀬を重ねたのもこの部屋だ。
大学のゼミで知り合った彼女と意気投合し、そのまま男女の仲へと進展した。美人という分類に入るタイプではなかったが、彼にとってはどんな美人よりも美しく見えた。彼女の一挙手一投足が彼にとっては新鮮で、特に風に靡く髪を掻き上げる仕草が一番好きで、窓を開けると吹き込んでくる、優しい海風に乱れた髪を掻き上げる仕草は、彼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
もちろん、思い出はそれだけではない。
歩いてすぐの海水浴場には、夏になると二人で良く出かけ、海の家でまったりと過ごしたり、打ち寄せる波を掛け合ったりして、日が暮れるまで楽しんだこともあった。
夕方、スーパーで買ってきた食材を使って、狭い台所で二人して夕食を作り、酒を飲みながら遅くまで語り合ったり、小さなテレビで映画やドラマを一つのヘッドホンを使って観たり、貧しかったけど、幸せな日々だった。
だが、永遠に続くと思われた幸せな日々は、長くは続かなかった。
大学を出ると彼は、そのままこの海辺の街にある企業へと就職を果たしたが、彼女は遠く離れた都会の企業へと就職し、彼の許を離れていったのだ。
それでも、遠距離恋愛を彼は楽しんだ。長い休みになる度、彼の部屋に彼女が訪ねて来て、学生時代のように語り合い、愛し合った。そんな時間が待ち遠しく、日々の辛い仕事もそれを楽しみに頑張ることが出来た。
しかし、会う度に綺麗になっていく彼女は、いつの間にか彼を心の中から排除し、消し去った。そして、彼女は彼の許から消えてしまった。
彼の脳裏には髪を掻き上げる彼女の姿が浮かんだ。しかし、彼の心にあるのは懐かしさではなく空虚さだけだった。
彼は、新たな人生を歩むために、今日この街を出て行く。
改めて、荷物が一つも無い部屋を見渡した彼は、最後にもう一度窓の外を眺めた。
そこには、風の文字が入ったこの街の銘菓を宣伝する看板があった。
まるで、彼の思い出に語りかけるかのように。




