第九話 紅い刺客
楽しいことがあっても、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、必ず夜は訪れる。それはこの街、シアも例外ではなかった。
闇が支配せんとする街中を一人の男が歩いていた。アジェンド人特有の金色の髪が、街灯の明かりを受けて赤く見える。めかした恰好をしているが、そこまで若くはない。せいぜい甘く見積もって三十代半ばだろう。
男は急ぎ足で自宅へ向かう。明日はいつも通り仕事なのに、ハルちゃんと遊びすぎてしまった。ハルちゃんとは男の愛人の名である。男はすでに既婚の身なのだが、気の弱い奥方は夫の浮気に気づきながらも強く言えずにいた。それをいいことに男は好き放題の生活を送っている。
男はふと伏せ気味だった視線をあげた。何故かは自分でもよくわからない。ただ、何となくあげてみただけだ。
その無意識下の行動が、彼の命を救うこととなる。
男の目の前にそいつは立っていた。
身長は男の顎に頭のてっぺんが届くくらい。黒いフードを被っているため顔はわからない。全身真っ黒。それが男が咄嗟に認識したそいつの姿だった。
あまりに突然の出来事に男の四肢が一瞬硬直する。次の瞬間、男の腹部に鈍い鋼色が襲い掛かった。
「―――っ、うぐぅ……!」
黒ずくめが男から離れると同時に、男のからだがくずおれる。そいつは血に濡れた刃を手に男を見下ろした。
苦悶に顔を歪めながら、男は必死にそいつを睨みつけた。フードから覗く口元がキュッと吊り上がる。まるで紅を塗ったような鮮やかな紅が男の網膜に焼き付いた。
「………何、者だ……!?」
男は唸るように言う。その間にも男の顔からどんどん血の気が引いていく。刺さる直前に体を捻って急所は外したものの、傷自体はかなり深い。早く手当てしないと出血多量で死に至る可能性があった。
そいつは動けない男のそばにしゃがみ込むと、歌うように囁いた。
「さようなら」
ガンッ
恐怖のあまり閉じた瞼の向こうで、言葉と重なりなにか固いものがぶつかり合うような音が聞こえる。必死に瞼を開く男の視界に二つの黒いものが映った。
え? 二つ?
男は何とか意識を保とうとするが、それが限界だった。男の目の前は真っ暗になった。
…OUT…
これは、とある日の出来事よ。いやあ、怖いわね。夜歩いていたらいきなり襲われるのよ。
私も襲われたらどうしようかしら。
……え? あんたは平気だよって、どういう意味よ。
………。
どう? 結構効くでしょ。私の必殺・でこぴん。
ああっ、爪が割れちゃった!
…IN…
突き刺さるような視線の中、ベルは足早に歩いていた。手には一つの袋。これはエストレジャから預かったものだ。
どうやらリュンヌから渡された部品に不備があったらしい。らしい、というのは、良品と並べてここが違うでしょ? と説明してもらってもベルにはその違いがさっぱりわからなかったからだ。
大差はないように見えますが、と言ったベルに、エストレジャは、とんでもない、と首を左右に振った。
「時計はね、すごく繊細なんだヨ」
詳しいことはわからなかったが、時計はすべての部品がピッタリ調和して初めて出来上がるもので、ほんの少しの差異がすべてを狂わせてしまうようだ。
自身を非常識の塊と評する彼も時計にはこだわりがあるらしい。真剣に物事に打ち込むひとが嫌いではないベルは、リュンヌに言って交換してきてくれという頼みを快く引き受けた。
街中を歩きながら、ベルは少し驚いていた。リュンヌが街中で迫害されることはないと言っていたのは、どうやら本当だったようだ。今まで行ったことのある街では歩いているだけで、わざとらしくぶつかってきたり、大声で不満の声を漏らしてきたりする者が後を絶たなかった。しかしシアはというと、確かにいい顔はされないが、こう大袈裟に嫌がらせはしてこない。突き刺さる視線だけ堪えればいいというのは、ベルにとって非常に楽なことだった。
「ここだな」
ベルはエストレジャにもらった地図を今一度確認する。間違いがないと確信したベルはドアに手をかけた。しかしドアを開く前にベルの背中に声をかけるものがいた。
「鉄工所に何か用か?」
振り向くと、そこには一人の男が立っていた。歳の頃は四十代前半といったところか、短く刈られた健康的な髪は金色。がっしりとした体格と、顔を覆う髪と同じ色の髭に厳つい印象を覚える。彼が薄汚れた作業衣を着ているのを認めたベルは軽く頭を下げた。
「エトさんの使いで来ました。先日届けていただいた部品に不備があったので、交換していただくように言われて来たのですが」
「おお、あのからくり屋敷の旦那か。あのひとは細かいから気をつけるように言ってあるんだがな。どれ、見せてみろ」
男はベルから手渡された袋を紐解くと、固く大きな掌に部品を広げた。ひとつひとつを吟味するように手にとっては眺めていく。やがて男は大きく頷いた。
「こりゃあ、他はともかくあの旦那なら文句いうのも頷けるな。リュンヌじゃあねえだろうから、フィリナンかあ? まあどっちにしろこいつは鉄工所のミスだ。ちゃんと取り替えてやるからここで待っててくれ」
「はい」
男が鉄工所に入っていく。ベルはその扉の前で待っていたのだが、前から会ったことのある顔が歩いてくるのを認めて口を開いた。
「リュンヌさん」
「お? テメェはエトんとこのガキじゃねえか。こんなところで何してやがる」
「エトさんに頼まれて部品の交換に来たんですよ」
「あちゃー。またかよ。最近は無かったんだが」
がりがりと頭を掻くリュンヌの後ろに一人の少年が立っていた。身嗜みを気にしないほうなのか、風に遊ばれる金髪はぼさぼさで、薄汚れたシャツに長ズボンを着ている。ベルより年下だろうが、きっとリロよりは年上だと思う。ベルがじっと見つめていると、彼は困ったようにまだあどけなさの残る顔をカリカリと掻いた。
それに気がついたリュンヌが、何の前触れもなく少年の頭をぶん殴った。
突然の出来事に、ベルは無言で目を見開く。
「痛っっ……てええぇえ!」
「おめぇは初対面だろうが! ちゃっちゃと自己紹介くらいしやがれってんだ!」
「だからって何で殴る!? 俺がこれ以上馬鹿になったらどうすんだよ!」
食い下がる少年はそう言いながらもちゃっかりリュンヌの手が届かない範囲まで下がっている。それを見ながらベルは、この子それほど頭悪くはないんじゃないか、と人事のように考えていた。いや、実際人事なのだが。
「ったく、兄貴は乱暴なんだから……。俺はネジュ。この鉄工所で下働きしてます。よろしく」
「俺はベルです。エトさんのところでお世話になってます。こちらこそよろしくお願いします」
ベルが頭を下げると、ネジュはすっと手を差し出してきた。ベルは驚いて目をしばたく。ネジュは不思議そうにベルの顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いえ……」
どこか戸惑ったように視線を彷徨わせるベル。二人の隣で両手をポケットに突っ込んでいたリュンヌは、はあ、とため息をついた。
「握手くらいでテンパってんじゃねえよ」
「……すみません」
ネジュは驚いたように目を瞠った。
「握手したことねえの?」
「……一度もないです」
「ふえー、信じらんねえ」
本気で驚いた風情のネジュにベルは居心地悪そうに目を伏せる。しかし、次のネジュの言葉にベルは顔をあげた。
「周りの環境最悪だったんだな」「え?」
「だってあんた結構社交的っぽいし、年下の俺に対して会釈したじゃん。そんなやつが相手の握手拒むわけねえと思ってさ。だとしたら周りの奴らがあんたに手を差し出したことがねえってことだろ? 最悪じゃんか」
当たり前のように言いきったネジュにベルは咄嗟に言葉がでない。それはリュンヌがエストレジャの店でベルに話しかけたときと同じ反応だった。
「……あ、の」
「ん?」
ベルはひどくゆっくりと口を開く。一言一言確かめるように、それを唇に乗せた。
「ありがとう、ございます」
「? 俺、感謝されるようなことした?」
「ええ」
「ふーん。したの? 兄貴、俺何かした?」
「うっせえな。こいつがしたっつってんだからしたんだろうよ。細けえこと気にすんなよ。うぜえ」
それに対してまたネジュが口を開こうとしたとき、鉄工所の扉が開き先程の男が姿を現した。
彼はそこにベル以外の人間がいることに少し驚いたように動きを止めるが、ネジュの姿を認めると彼は大股でネジュに歩み寄った。
げ、という顔でネジュは足を引こうとするが、すかさずリュンヌがそれを阻止する。リュンヌに腕を掴まれたネジュはすぐ目の前に立った男を上目使いで見上げた。
「今までどこに行っていたんだ、この悪戯小僧」
「悪戯小僧はないでしょ、頭領」
「俺はどこに行っていたと訊いているんだ。三日以上行方をくらまして、リュンヌがどれだけ街中を探し回ったと思っている。こういうときは何て言うんだ?」
怒鳴っているわけではない。声を荒げてすらいない。しかし、その声音にはどこか居住まいを正させる何かがあった。
案の定、ネジュは首を竦め、元から小柄な身体をより小さくする。
しばらく黙っていたが、ちらりと頭領を見上げると、ネジュはもごもごと言った。
「………すんません」
「よろしい。ああ、お客さん。すみません、いいの探すのに手間取っちまって。これ、ちゃんといいのに変えておきましたから」
頭領はニカッと笑うと、ベルに袋を差し出す。さっきまでの威厳は全くなかった。
ベルは黙ってその袋を受け取ると、素早く視線を走らせる。一瞬眉間にシワが寄るが、ベルは何事もなかったかのように頭領に深々と頭を下げた。踵を返してその場を離れる。
リュンヌの緑玉の瞳がその背中を見つめていた。
鉄工所を出てから数分。黙って歩き続けたベルはふと、足を止めた。
太陽の位置から考えて、今の時刻はおそらく昼を過ぎて少したったくらい。普通なら通行人で賑わっているだろうその通りには、今、ベルしかいなかった。
「――俺に何か用ですか?」
ざあぁ……。
風が吹き抜ける。それと同時に後ろから声がした。
「気付いてたんだー。ヨハンナ、びっくり」
静かなベルの声とは正反対の明るく甲高い声。振り向いたベルの視界に映ったのは、一人の女だった。燃えるような赤毛は肩につかないくらいの長さで、くりっとした茶色い瞳は気の強そうな印象を与える。幼子のような仕草はベルの不快感を酷く煽った。
「………貴女は誰……いいえ、貴女は何? と訊いたほうがいいですかね」
ヨハンナはニコニコと笑みを零した。
「んー、どっちでもいーよ。ヨハンナねえ、お願いされたの」
ヨハンナは色気の漂う身体をくねらせ、はぁ……、と息を吐く。彼女は恍惚とした表情でベルを眺めた。
「ほんとーはねえ、面倒臭かったんだけどぉ。話聞いてたらベルに興味持っちゃって」
「貴女が何に興味持とうが持ちまいが俺には関係ありません。用がないなら帰ります。さよなら」
「あぁん、待ってよう。わかった、何で来たか言うから」
歩みを止めたベルに、ヨハンナは一歩、また一歩と近づいていく。ベルは無表情のままそれを見つめていた。
「回りくどいの嫌いだから、単刀直入に言うね。ヨハンナと一緒に来て?」
ヨハンナがベルの間合いに入る。彼女は腕を伸ばして相変わらず無表情のベルの頬に触れる。ベルは目だけを動かして自分に触れる指先を見た。ヨハンナはベルが抵抗しないのをいいことにもう一方の手をベルの首に回す。
「……仲間になれと、そう言っているのですか?」
「ヨハンナがいるとこはいーとこだよ? すぐ気に入ってくれると思う」
今やベルの身体とヨハンナの身体は密着していた。ヨハンナは背伸びをすると鼻と鼻がくっつきそうなくらい顔を近づける。ベルの視界を透き通った茶色が埋め尽くした。
「ううん、気に入らなくてもいい。ヨハンナがベルを楽しませてあげる」
ヨハンナはベルに桜色の唇を近づける。それが触れるか触れないかの瀬戸際でベルはヨハンナの肩を掴むと自分から引きはがした。
驚いたように目を瞠るヨハンナを紫苑の双眸が射抜く。
「微量の睡眠薬に大量の媚薬。唇には麻痺毒ですか。古い手だ。こんなに濃く焚いたら香水じゃ通りませんよ」
「あーん。もう少しだったのにぃ」
拗ねたように唇を尖らせ、ヨハンナはゆっくりと肩を掴んでいるベルの手を外す。再びベルの頬に手に伸ばすが、指先が触れる前にベルがその細い手首を掴んだ。
「貴女についていく気はありませんが、少し話を聞かせていただきますよ。貴女は何です? この時間帯に通行人を消すことが出来るんだ、余程大きな組織に所属しているのでしょうね」
「んー、ねぇ、これを聞いたら来る気になってくれる?」
「俺の質問に答えていただけますか」
あくまで自分勝手に話を進めようとするヨハンナ。その手首を掴むベルの手に力がこもる。しかし、ヨハンナは全く痛がらず、逆に己を拘束するベルの手に左手を添え、頬を擦り寄せてきた。
ベルの顔に、わずかな嫌悪が走る。
「ベルにとっては目から鱗の話なの」
「目から鱗? 俺が泣くほど感激する情報を貴女が持っていると?」
ベルが馬鹿馬鹿しいというように首を振る。しかしヨハンナの瞳に満ちた自信は揺らがなかった。
「そう。こればっかりはちょっと焦らそうかな。ねえ、ゲルトって、知ってる?」
その名を聞いた瞬間、ベルの目の色が変わった。ベルに握りしめられたヨハンナの手首がぎちっ、と軋む。
「……その名をどこで知った」
唸るようなベルの声。ヨハンナは嬉しそうに目を細めた。
「いい目。そーだよ。ヨハンナはその目が大好きなの」
「余計なことはいい。何故その名を知っている。そいつについて何か知っているのか?」
「教えてほしい?」
次の瞬間、ヨハンナは首に圧迫感を覚え茶色の目を瞠る。ヨハンナの細い首を片手で掴んだベルは徐々にその手に力を込めていく。
「……あっ……」
「黙って質問だけに答えろ。やつについて何を知っている………」
刹那、ベルの身体がぐらりと傾ぐ。突如ベルを襲った脱力感は声をあげる間もなく一瞬で全身に回った。
完全に弛緩したベルの身体をヨハンナが支える。どこか拗ねた様子のヨハンナの耳に小さなうめき声が届いた。
「……な………にを……した……」
「あらぁ、喋れるの? すごぉい! この毒あっという間に意識失うほど強力なのに」
そう言ってヨハンナは左手を掲げて見せる。その中指には鋼色の指輪がはめられていた。細い指に似合わない幅のある、指貫きのような形。指を曲げると指輪から小さな針が飛び出す。非常に一般的な暗殺道具だ。
ベルは内心舌打ちをした。さっきヨハンナがベルの手に自分の手を重ね合わせたあの時。気がつかなかった自分に苛立ちを覚えるが、身体は全くいうことを聞かない。
ヨハンナは、ニタリと笑うと、ベルに顔を近づけた。ベルの耳に生暖かい吐息がかかる。
「いい子にして? ヨハンナね、許しをもらってあるんだぁ。ベルを連れてくるとき、殺さないなら何してもいいって。あんまり抵抗しちゃだめだよ? じゃないとヨハンナ、何しちゃうかわかんないから」
耳に鋭い痛みが走り、ベルはわずかに顔をしかめる。ヨハンナはかじった耳たぶから流れた血を舌で掬いとった。そのまま耳元で囁く。
「ほんとに美味しいなぁ、ベル。血の味もベルが持ってる力に比例して最高。ゲルトが用済みって言ったらヨハンナがもらっちゃおうかな……」
ベルの首筋をヨハンナの指が這う。ベルの全身に悪寒が走った。
「誰がっ……貴……様の……もの……に、など……」
力を振り絞り身を起こそうとする。それを見たヨハンナが絶対的余裕を持って口を開こうとした、その時。
「そいつから離れろ」
ヨハンナがパッと声のした方向を向く。太陽を背景に、漆黒の影が一人立っている。影より濃い漆黒の髪をがりがりと掻きながら、突如現れた漆黒の援軍は言った。
「三秒だけ待ってやるよ」
リュンヌは鋭い犬歯を見せつけるように不敵に笑った。