第七話 時計屋
「どんなひとなんですか?」
ふと、思いついたようにベルがエリティアを振り返った。
正確には首をほんの少し動かしただけだ。黒い上衣が覆うその背中には、気持ち良さそうに寝息をたてているリロが乗っているため、あまり大きく身体を動かすことができない。
となり街へ向かう道中である。暗闇を利用して人目を避け、なんとか街を抜け出したベルとエリティアは、休むことなく整備された道路を歩き続けていた。
街を出てすぐベルは休むことを提案したが、エリティアはそれをはっきりと断った。体力はまだまだ平気だし、なによりベルが気を使っているのがわかっていたからである。
ベルは自分のせいだと思い込んでいるようだが、危険な旅に関わろうと決めたのはエリティア自身だ。役に立つことは出来なくとも、足手まといにだけはなりたくないのだ。
「エトのこと?」
エリティアが聞き返すと、ベルは小さく頷いた。やはり今から会う者のことが少なからず気になるのだろう。エリティアは少し考えてから、口を開く。
「そうね……。簡単に言えば"くも"みたいな奴よ」
「蜘蛛ですか?」
「空に浮かぶほうの雲よ。掴み所がなくて、そこから動いていないように見えるのに、いつの間にかすごく遠くにいる。そんな奴だわ」
ベルは眉間にシワを寄せて、少し俯く。どんなひとなのか、想像しているのかも知れない。
エリティアは笑って言った。
「会えば解るわ」
そこに着いた時にはすでに日は昇りきり、辺り一面が日の色に染まっていた。
まばゆい日光に目を細めながら、ベルはその店を見上げた。
アジェンドにある街の中では小さめの街、シア。その街のシンボルといっていい時計台の側に彼は住んでいた。
エリティアがドアノブに手をかける。無表情が少しばかり強張っているベルに、心配するなというように微笑みかけるとエリティアはそのドアを開けた。
途端に鼻を突く独特のにおい。それが何か理解する前に、そのさらに奥から声がした。
「いらっしゃい。修理ならそこの棚に置いて頂戴な。お金は後払いでいいから。新しいのをお望みなら、決まった時点で声をかけて。先に言っておくけどお勧めなんてないヨ」
おそらく決まり文句なのだろう。なんとも無責任なことをすらすらと言い切った彼の背中に、エリティアは苦笑いを浮かべながら言った。
「エト。私よ」
扉に背を向けたまま作業机らしいものに向かい合っていた彼は、エリティアの声に一瞬動きを止めると、次の瞬間椅子ごとくるりと回転してこっちを向いた。
彼は、そう、まるで洗練された人形技師が丹精を込めて作ったフランス人形のような、端的に言えば美しいひとだった。切れ長の瞳に白磁のような透き通った肌。癖のある金髪は三編みにされて腰の辺りまで伸びている。掘りの深い顔を隠すように右目には片眼鏡がはめられていた。
男のベルが思わず息を呑むほど、彼は文句の付けようがない容貌をしていた。
そんなベルに気づいているのかいないのか、エストレジャは不思議そうに首を傾げる。
「珍しいネェ。エリティアが何の前置き無しにシアに来るなんて。時計、壊れたのかい?」
「家の時計が壊れたとして、わざわざとなり街まで修理してもらいに来る訳無いでしょ。ちょっと長い間匿ってほしいのよ」
エストレジャの家は時計屋だった。今いる部屋の壁という壁には時計が掛かっており、秒針の時を刻む音が絶妙なハーモニーを奏でている。さっきエストレジャが向かっていた作業机には小さなネジや歯車が散乱しており、その真ん中に組み立てかけの時計が口を開けていた。
エリティアの言葉に、ふむ、と頷くと、エストレジャはそこで初めてベルを見た。
「ところでどちら様かな? エリティアのお知り合い? それとも時計壊れたのかい? その娘どうしたんだい? 病気? それとも寝ているだけかな?」
矢継ぎ早に質問されて、さしものベルも虚を突かれたように瞬きを繰り返す。
その様を見て、エリティアはそっと苦笑した。
エストレジャは、ベルが客ではないこと、エリティアとは最近知り合ったこと、リロが眠っているだけだということ。それら全て承知の上でわざと問いかけているのだ。どこで情報を仕入れているのかは知らないが、今までこの店を訪れた訳ありの客はエストレジャに必ずこうした質問をされる。そして、エストレジャは何を基準にしているのか、解答次第では店からたたき出すこともあるのだ。まあ、この店を訪れる訳あり客自体があまり多くないのだが。
それをなんとなく肌で感じ取ったのか、ずり落ちかけたリロを背負い直すと、品定めをするような目を真っ向から見返しベルは口を開いた。
「俺はベルといいます。この娘はリロ。俺の妹です。貴方が思っているとおりエリティアさんを匿ってもらうような状況に陥らせたのは俺です。言い訳はしません。エリティアさんから貴方のことは少し聞きました。貴方を完全に信用したわけではありませんが、どうか協力してはくださいませんか?」
それは決してまとまった文ではなかった。しかし、それを聞いたエストレジャの口元に笑みが広がる。
新しい玩具を見つけた子供のような笑みだった。
「正直なんだネ。もしベル君が『貴方を信用して』なんて台詞を吐いたりしたら、その時点でつまみ出してたよ」
言いながら立ち上がると、作業机の奥にある扉を開ける。振り返ったエストレジャは淡く微笑むと芝居がかった仕種でお辞儀をした。
「ようこそ、『エストレジャの時計屋』へ。ここじゃあ何があっても驚かないヨ?」
…OUT…
彼女の友人ね。
これがまたかなりの曲者なのよ。彼女が雲みたいな男って表現をしたけど、実際は蜘蛛でもあらかた間違ってはいないわよ。お兄ちゃんには負けるけど、彼もなかなか神出鬼没だし。それより、あれね。彼の張り巡らせた糸に引っ掛かっても見なさい。恐ろしいわよ……?
私がお勧めする彼のイメージは『狂った道化師』ってところかしら。
…IN…
仄かに香る紅茶を啜ると、隣に座っているリロをそっと見下ろした。シロップのたっぷり入った紅茶のカップを両手で持ち、火傷に気をつけながらちびちびと紅茶を口に含むリロの瞳は透き通った瑠璃色である。
視線に気がついたのか、リロが不意にこちらを向いた。目が合うと人懐こそうな瞳を瞬き、小さく首を傾げる。
「なあに?」
「ええと、熱くないかしら。平気?」
「うん、平気だよ! エストレジャさんが熱すぎないように淹れてくれたから」
ニパッと笑うリロはこの屋敷で目覚めた時、やはり赤目の時の記憶が欠落していた。予想していたことだが、どうやら目が赤くなった時の人格とリロは全くの別人のようだ。多重人格……、つまりリロの中にはリロの他にもう一人いる、ということ可能性が非常に高い。
そんなことを思っていると、紅茶を補充したティーポットを持ったエストレジャが部屋に入ってきた。リロがそちらを向きニッコリと笑う。
「エストレジャさん! 美味しいです、この紅茶」
「それはよかった。お代わりはまだあるからね。ああ、それとワタシのことはエトと呼んでくださいな。その方が楽だからね」
「うん!」
「そうだ、エリティア」
ポットをテーブルに置いたエストレジャはリロの隣で大人しく紅茶を飲んでいる友人を振り返った。エリティアはちょうど口に入れた紅茶を飲み込むと、少し首を傾げる。
「なに?」
「ちょっと彼、借りていいかな?」
驚いてエストレジャが指す方向を見ると、ベルも少し驚いたような顔をしている。いい? と視線を送ると小さく頷くベル。それを認めたエリティアはニコニコと笑いながら返事を待つエストレジャを見た。
「構わないけれど」
「ありがとう。ちょっと店のほうが散らかっててね、片付け手伝ってほしいんだよネ」
「あなたね……。普通客人に店の片付けやらせる?」
「ダメかな」
「常識的に考えればね」
「ワタシは非常識のカタマリですかラ」
「少しは常識を学びなさい」
「俺は構いませんよ」
エストレジャが何か言う前にベルが慌てて口を挟む。二人の視線が一気に突き刺さり、ベルは内心どぎまぎしながら、最近習得した愛想笑いを浮かべた。
「片付け苦手じゃありませんから。それにエストレジャさんにはリロの寝る場所も貸していただきましたし」
「ワタシのことはエトでいいってば」
「本当にいいの? ベル君。エトは恩があるからって素直にいうことを聞いてあげると、すぐに調子に乗ってなんでもかんでも押し付けてくるような奴なのよ」
エストレジャのささやかな主張を黙殺し、エリティアはベルに申し訳なさそうな顔をして言う。エリティアは仲介人として、エストレジャの我が儘にベルが困らせられないように気を使ってくれているのだ。
それを理解した上で、ベルは頷いた。
「はい。小さな恩でも恩に変わりはありませんから」
「まあ……少しはベル君見習いなさいよ」
「ワタシがかい?」
「貴方以外に誰がいるのよ!?」
一難去ってまた一難。再びの口論勃発の危機を、ベルはエストレジャを片付けに行こうと促すことで、リロはエリティアに紅茶のお代わりをよそってほしいと頼むことで阻止したのだった。
…OUT…
仲良いのか悪いのか、わからない二人よね。お兄ちゃん苦労するわ。きっと。
そうそう、この頃は時計は高級品でね。ロヴェル人はともかく、アジェンド人にも持ってるひとは少なかったわ。彼女は友人のよしみで時計屋さんにもらったらしくて、それじゃなかったらとても買える値段じゃないんですって。
あの時計屋さんはちょっと特別だったらしいんだけどね。
…IN…
エストレジャが言うほど店は汚れていなかった。
たしかにネジやら歯車やらが所々に落ちてはいるが、散乱というほどではないし、埃も机に指を這わせると指先にわずかに付くか付かないかくらいだ。
指先に着いた小さな埃の塊をくずかごの上で払い落とすベルの背中に、エストレジャはネジを拾いながら言った。
「微妙でしょ? 自分で言うのも何だけど、潔癖性なんだよネ」
拾ったネジを机の上に置いたエストレジャは、机の下から雑巾を拾うとベルに放る。無造作にそれを取ったベルは無言のまま窓のサンや机を拭き始めた。
黙々と作業を進める二人。隣の部屋から響いた笑い声が五回目を数えたところで、不意にエストレジャが口を開いた。
「出ていくつもりだネ? 私への借りを返したらすぐにでも」
「…………」
ベルは何も言わない。驚くようなそぶりを見せないので、エストレジャが気づいていることをある程度予想していたのだろう。
「それだけじゃあない。あの娘、置いていくつもりでしょ?」
ベルがゆっくり振り返る。澄んだ紫苑の瞳が警戒するような鋭い光を宿していた。
「ワタシが"アッチ"の人間だってコトも解ってるんでしょ。ワタシが君を見た瞬間に解ったように、ネ。ワタシの所なら……いや、エリティアになら妹を預けても平気だって判断して、妹の荷物は紐解いたけど自分のはそのままにしてあるよね。あれ、いつでもココを出ていけるようにでしょ」
「そこまで解っていて……何故こんな真似を?」
ベルの眉間に縦ジワが寄った。エストレジャは澄ました顔で刺すような視線を受け流すと、室内にも関わらず着ていた深緑の上着をさばき椅子に腰掛ける。左手で頬杖をつき、右手の指先で小さな歯車をつついた。
「別に恩返しの方法に悩んでいるベル君に機会を与えてあげたわけじゃあないヨ? 手伝ってほしかったのは事実だし、エリティアの友人として忠告してあげようと思ってね」
「忠告?」
「そ。忠告」
白い手袋をはめた手が掌サイズの缶を開ける。最初に店に入ったときに感じた独特のにおいがベルの鼻孔を突いた。エストレジャは油と書かれた缶に入ったそれを点検するように眺めながら自分の考えを唇に乗せた。
「エリティアね、かなぁーりしつこいよ。多分ベル君が何も言わずいなくなったら世界の果てまで探しに行くんじゃないかナ」
「………貴方はそれを止める気はないと?」
「勿論。ある訳無いでしょ。ワタシは頼まれて匿ってるわけなんだから、出ていくって言うんなら面倒事が減って万々歳だネ」
当たり前じゃん、と言い切ったエストレジャに、ベルが苛立たしげに頭を掻く。くせのない黒髪がされるがままに乱れた。
ベルはしばらく逃げ道を探すように考えていたが、ふと肩の力を抜いた。その瞳にはさっきまでのような鋭さはなく、諦めたような光が灯っている。
「解りましたよ。行かなければいいのでしょう。貴方は狡い人だ」
「別にワタシは『行くな』なんて言ってないヨ。ただ『行ったら面倒だよ』って教えたげただけ」
クスッ、と笑うエストレジャを見て、ベルは、ああ、と納得する。
まさしく"雲"。掴み所がなくて、実体すらも見当たらない。どこにいるのかさっぱりわからないのに、気がついたら四方を囲まれている。逃げ道など残してくれない。
ベルはため息をついて部屋の掃除を再開した。