第四話 三つの影
「どう、しましたか?」
「お兄ちゃん!」
いつの間にか階段の中段辺りにベルが立っていた。無言で見つめ合う二人に、足を止め瞬きを繰り返している。
そこにエリティアの服を放したリロが走り寄った。兄を見るその顔に喜色が広がっている。平気そうに振る舞っていても、やはり兄が心配だったのだろう。
降りきった階段の下で飛びついてきたリロを受け止めると、ベルはその頭を愛おしそうに撫でた。気持ち良さそうに目を細めたリロをそのままにベルは問うような視線をエリティアに向けた。
どうかしたのか、と紫苑の瞳が問うてくる。エリティアは無言で首を左右に振った。
ベルは瞬きをすると、そのまま目を逸らした。深く追及しないでくれるらしい。
「表は片付けました。裏口には誰も居なかったので一応ブービートラップは仕掛けておきました。時間稼ぎくらいにはなるでしょう」
ベルは申し訳なさそうにエリティアを見た。
「すみません、エリティアさん。他人は巻き込まないと決めていたのに、結局貴女を巻き込む形になってしまった。何としてでも貴女だけは逃がします。たとえこの身を犠牲にしても」
「だめよ」
「え」
ベルは紫苑の瞳を見開く。エリティアはベルの冷たい手を優しく包んだ。
「この身を犠牲にしても、ですって? あなたが自らを犠牲に私を逃がしたとして、一体誰がリロちゃんを護ってあげるの?」
「…………」
ベルは何も言わない。その顔には苦々しい表情が浮かんでおり、図星だったことを示している。
「私は平気。やろうと思えば三時間以内に星の裏側にまで逃げられるんだから。だから、だめよ。あなたはリロちゃんを最優先になさい。いいわね?」
「………はい。すみません、エリティアさん」
「謝る必要なんてないわ。もともと私が無理矢理頭を突っ込んだんだしね。どうしてあなたたち兄妹は非がないのに謝るのかしら」
エリティアはリロの手をとると、ベルの手に重ねる。その小さな温もりに言葉がつまり、ベルはエリティアに無言で頭を下げることしか出来なかった。
…OUT…
そうだわ。いい? あなたも覚えておきなさいな。
自分が自分だけのものだと思っちゃ駄目。
あなたを失うことで悲しむひともいる。そんなひといないって思うのは、あなたの思い上がりよ。ひとは、一人じゃ生きていけないの。必ず誰かに支えられているのよ。
…IN…
今だ闇が支配する街。路地裏で蠢く漆黒を三つの影が切り裂いた。
「お姉さん、足速いね」
エリティアの家を窓から抜け出しそのまま街を出るために全力疾走で街を横切る途中、リロは隣を走るエリティアを見上げて言った。
「リロとお兄ちゃんは毎日のように走り回ってたから足に自信あったけど、ついて来られるなんて驚き」
「すごいでしょー。私の自慢なのよ」
ニッコリ笑うエリティアは逃亡中だとは思えない。その笑みを浮かべたまま、エリティアは一歩先を走るベルのしかめっ面を見た。
「まだ怒ってるの? 仕方ないじゃない、あの家に暗殺者が来たってことは私だってここにはいられないってことだもの」
「解ってますよ。それも全て貴女を巻き込んだ俺の責任ですし。でも、だからと言って一緒に脱出するのはどうかと思っただけです」
形の良い眉が不機嫌をそのまま示す形に顰められる。
「貴女はまだ俺たちと一緒にいるところが見られたわけではないんですから、祭の準備をしているひとにでも紛れて逃げればよかったんです。今、俺たちといるところを見られたら、言い訳の仕様が無いじゃないですか」
「見つからないように逃げればいいのよ」
「貴女ってひとは……」
ベルが呆れたように眉尻を下げるが、途中で諦めたように首を振りまた前を向く。どうやら走ることに専念することにしたようだ。
二人の会話が終わるのを待っていたかのように、リロが口を開く。
「お姉さん、街を出たらどうするの?」
リロは走りながら小さく首を傾げる。まるで栗鼠のようで愛らしい。
「私たちはそのまま旅を続けるけど、お姉さんは? お姉さんのお母さんのところに帰るの?」
エリティアはその顔に苦笑を浮かべる。
「私は独り身だから、夫も父さんも母さんもいないの。だから、ちょっととなり街で匿ってもらおうと思って」
「となり街?」
「ちょっと潜るには近すぎますよ。もう少し離れたところのほうが」
「知り合いがいるのよ」
エリティアはベルの言葉を遮った。
「……知り合い、ですか」
「そう。私、こう見えても昔っから結構やんちゃしてたのよ。それで、やばくなるたびにあのひとの所に隠れてたの。だから今回もきっと二つ返事で了承してくれるわ」
「もしかして、俺たちを匿ったのもやんちゃの一つってことですか」
「あらかた間違ってはいないわね」
ベルはため息をついた。
通りでこっちの事情を全く訊いてこないわけだ。
瞳の色が変化する妹に、神出鬼没の兄。そして、暗殺者に狙われるという非現実的な出来事。そんな体験をした後にも関わらず、彼女は何一つベルたちについて訊かないのだ。
ベルはずっとそれを不思議に思っていたのだが、やっと解った。
ようするに、彼女は慣れているのだ。軽い気持ちで『非日常』を味わいたいと思うほどに。
「お兄ちゃん!」
その緊迫した声音にベルはハッと我に返った。年齢に似合わぬほど過酷な経験の積まれた身体が、思考が定まらぬうちに勝手に動く。
すぐ後ろを走っていたエリティアの腕を掴むと脇に置いてあった木材の陰に引っ張り込む。エリティアが小さく悲鳴をあげるが、この際少しくらい乱雑になってしまうのは見逃してもらおう。
エリティアの後を追うようにリロが木材の陰に隠れたと同時に、複数の男たちが路地へと入ってきた。
見つかった!?
エリティアはそう考え、緊張で手をにぎりしめたのだが、すぐに違うことに気がついた。
前から歩いてきたのはエリティアも見覚えのある、『日常』の中のひとだったのである。その中には魚屋の親父や、ベルを殴り倒した医師もいた。
祭の準備中であろう彼等は木材の陰に隠れるエリティアたちに気づかず近づいてくる。ふと、自分の横に視線をやったエリティアは愕然とした。
ベルが隠れず壁際に堂々と立っていたのである。
「ちょっ……」
隠れなさい、と言おうとしたエリティアに、ベルは人差し指を口の前に立てて静かにと合図する。なおも言い募ろうとしたエリティアの口を今度はリロが塞いだ。
彼等が近づいてくる。見つかる、とリロを抱きしめたエリティアは彼等の足が自分たちの前を通過したのを見た。
「………え?」
思わず顔をあげると、談笑しながら歩いていく後ろ姿が見えた。隠れていたエリティアたちだけでなく、堂々と立っていたベルすら"認識していない"かのように、彼等はエリティアたちの前を素通りしたのだ。
「行きましょう」
彼等が完全に見えなくなると、ベルは何事もなかったかのように再び先頭を切って走り出した。その背中を追いながらエリティアは部屋でリロが言っていたことを思い出していた。
お兄ちゃんはね、神出鬼没なんだ。
あの時は、ただひとに気づかれずに行動するのが上手いのだと思っていたのだが、どうやらそんな単純なものではないらしい。目の前に居ることすら認識させない特技。"普通の人間"がそんなこと出来るはずがない。
エリティアは興奮で身体が震えるのを自覚した。
…OUT…
あらあら、噺の展開が大変ねえ。
謎は深まる一方。全く。彼女にもう少し自制するように言っておかなくちゃ。
………え? もちろん実話よ。今更? まあ信じられないのも無理ないわね。
…IN…
街の外れにある丘の上。エリティアは光と闇が混在する街を様々な想いを胸に見下ろした。
冷風が駆け抜け、エリティアの腕に鳥肌が立つ。街のほうから来たのか、その風は少し懐かしい匂いがした。
「本当にいいんですか?」
数時間たらずで聞き慣れてしまった声。振り向かなくてもどんな顔をしているのかが予想できる。
それは相手も同じだと言うことに気づかぬまま、エリティアはゆっくり口を開いた。
「いいのよ」
頑なに前を見続けるエリティア。
「あなたたちに声をかけた瞬間から、わかっていたことよ」
「リロから聞きました。この街は、貴女が生まれ育った街だというではありませんか。たとえ身内がいなくとも、街自体に思い入れくらいはあるでしょう」
エリティアは小さく苦笑を浮かべた。どうやらこの青年は、まだ私を巻き込みたくないらしい。
今ならまだ間に合うと、街に戻れと、彼は暗にそう言っているのだ。
でも、とエリティアは思う。
「言ったでしょ? 私は昔からやんちゃしてたって。生まれたのはここだけれど、成長したのはここじゃないの。この街から出たことはないけれど、やんちゃしたのは、ここだけじゃないの」
まるで謎掛けのようなエリティアの返答。
ベルも、いつの間にかエリティアの傍らに寄り添っていたリロも、何も言わなかった。
「……行きましょ。となり街まで行けば、もう安全だから」
踵を返し、街に背を向け歩きだすエリティア。リロは泣きそうな顔で、ベルは憂いを帯びた瞳でその後ろ姿を見つめた。
刹那。
事態は一気に流転する。
「お兄ちゃん!!」
一陣の風が吹く。
一瞬何が起きたのか解らなかった。気がつくとベルの左腕の中にいて、冷静だった頭が一気に混乱する。
「な……なに!? ベル君!?」
慌てて身体を離そうとしたエリティアは、空いていたベルの右手に細い棒状の物が握られていることに気がついた。
それを目にしたエリティアの頭が、混乱したのと同じくらい一気に覚める。自分に向けて放たれた矢をベルが受け止めてくれた、と認識するのにそう時間はかからなかった。
ベルが矢を持っている角度から、ある程度敵だろうと思われる者の位置を把握し、暗闇に目を凝らす。
しかし、丘を覆うように茂る林がその姿を隠してしまっているようだ。全くその姿が見えない。悔しそうにするエリティアを背後に隠し、ベルが一点を見つめたまま口を開く。
「………すみません、エリティアさん。俺としたことが油断していました。リロが言ってくれなければ、間に合わなかったかもしれなかった」
右手に握られた矢が、バキッと音を立てて折れる。切れ長の瞳が、怒りを湛えてゆらゆらと燃えていた。
「ふざけた真似を……。お前たちの狙いは俺たち兄妹のはずだ。この女性は関係ないだろう」
「関係ないなら一緒に居る必要はないんじゃないの? お前は一切無駄なことをしない奴だからね」
林から返答が聞こえる。声音からして、まだ若い男のようだと思った。
「関係ない。この女性は何も知らない。風邪をひいたこの娘の看病をしてくれただけだ。いい景色が見えるというから案内してもらった。それだけだ」
「ふうん?」
ベルが見つめていた先の木の陰から、ぬっと若い男が現れた。癖のない金髪を持つ彼は、見たところアジェンド人のようだ。
それより目をひいたのは男の服装だった。全身を覆い隠すようなマントの漆黒の布地には唐草模様が綴られ、夜の闇に映えている。見覚えのある印が胸元に入っているのを見て、エリティアは息を呑んだ。
鷹をモチーフにした黄金色の印。あれは。
「アジェンド国の……役人……!?」
エリティアの声が聞こえたのか、男の視線がエリティアに向く。彼はへらりと笑い、手まで振って見せた。その姿だけを見ればどこにでもいそうな軽薄な男だが、その目が全てを否定していた。笑みの形を模ったその眼は、全く笑っていない。
「そーだよ。あ、顔見られちゃった。彼女も殺さなくちゃあ……」
金属音が響き、言葉が途切れる。
高速で突き出されたダガーと居合の形で抜き放たれた剣がぶつかり火花を散らす。至近距離で睨んでくるベルの視線を、男は軽々と受け流した。
「短気だねえ。あ、そーだ。ねえ、彼女名前何て言うの? 僕、興味あるなあ。結構かわいいし、スタイルも……」
「俺以外のやつを気にかけるなんて、ずいぶんと余裕じゃないか」
言葉が皆まで終わらぬうちに、ベルがいきなり力を抜き、身体を引いた。鍔ぜり合いの均衡していた力のバランスが崩れ、意表をつかれた男がわずかによろめく。そこにベルの鋭い蹴りが襲いかかった。
身体を旋回させ、バネを最大限に利用した一撃が男の脇腹に突き刺さる。ガードも間に合わずもろに喰らった男は吹っ飛び、木の幹に背中からたたき付けられた。
「がっ……!」
「ずいぶんと呆気ないな。とうとう俺に殺される気になったのか?」
手の中でダガーを弄びながら、ベルは幹に身体を預ける形でしゃがみ込んだ男に歩み寄る。
咳込みながら、男はベルを見上げニヤリと不敵に笑った。ベルが怪訝そうに眉を顰め、少し距離を空けて立ち止まる。
それを確認した男はゆっくりと口を開いた。
「ゴホッ……全く、容赦がないねえ……。それにしても、やけに饒舌じゃないか。今日の君は。そんなに彼女から僕たちの目を逸らさせたいのかい?」
「くどいぞ、ジヴァール。彼女は何の関係もないと」
突如ベルが言葉をつぐみ、身体をのけ反らせる。次の瞬間、寸分違わずベルの頭を狙い飛来した矢が空を切った。矢はそのまま遥か彼方に姿を消す。
後方に数回バック転をし、距離をとったベルに再び矢が襲いかかる。今度は避けずにダガーで弾き返したベルは、苛立ちのこもった目でジヴァールを睨みつけた。
「そんな顔をしないでくれよ。僕らだって好きでこんな事している訳じゃないんだから。そもそも君のお父さんが僕たちを裏切ったのがいけないんだよ?」
立ち上がったジヴァールは服についた泥を丁寧に払う。彼が右手をあげると、それが合図だったのか、林から数十人の男が現れた。皆一様に政府の役人の服装をしている。
あっという間に増えた敵にも全く表情を変えないベルに、ジヴァールは笑みを含んだ声で続ける。まるで、世間話をしているような気安さで。
「せっかくロヴェル人ってことを無視して上のほうの役職に就けてあげようと思ってたのにさあ。今までの研究資料持って逃げちゃうんだから。ご丁寧に研究に関係していた職員皆殺しにして」
「ねえ、そろそろ教えてよ。君はお父さんから何を聞いて、どんな謎を握っているんだい?」
一応。
本文中では「実話」と言っていますが、それは噺師の世界の中でであって、あくまでこの物語はフィクションです。