第三話 紅蓮
まだ寝ているかもしれない、とそっと扉を開けたベルの予想とは裏腹に、リロはベッドの上で上体を起こしていた。先程より幾分か顔色がいい。
部屋に入ってきた兄に、リロはうれしそうに手を伸ばした。
「お兄ちゃん」
「ただいま、リロ」
左手でリロの手を取ると、芝居じみた仕草で右手首をクルリと回す。すると、さっきまで何も持ってなかった右手に赤い林檎が収まっていた。
「お土産」
小さな掌に林檎を乗っける。はしゃぐ妹をベルは愛おしそうに見つめた。
「お兄ちゃん、これ、今食べたい!」
両手で持った林檎を顔の前に持ち上げるリロに、いいよ、と言うと、ベルはテーブルに置いてあった籠から果物ナイフを取り出す。出掛ける前にエリティアに頼んで用意してもらったものだ。
ナイフを片手に林檎を受け取ろうと振り返ると、さっきまではしゃいでいたリロが俯いて林檎を見つめていた。
「………リロ?」
嫌な予感がして慎重に呼びかける。顔をあげたリロを見て、ベルは自分の予感が当たったことを悟った。
涼やかな翡翠色のリロヴィーナの両目が、血のような赤に染まっていたのである。
「………なんだ、久しぶりに出てきてやったというのにずいぶん無骨な顔をするのだな」
あどけなさのまるでないその口調は、さっきまで兄に林檎を剥いてくれと頼んでいたあのリロと同一人物とは思えない。何も言わないベルの前で、赤い目をしたリロはぐるりと部屋を見回した。
「ふむ、なかなか良い部屋ではないか。私の住んでいた部屋には劣るがな」
「何をしにきたんです」
口調は丁寧だが、どこか刺すような鋭さがあった。
「何をしに来たか、か。それは適確な表現ではないぞ、えー、確か今はベルだったか? 街を移るたびに名前を変えるな、馬鹿者。こんがらがるだろうが。いいか、私は常に"ここ"に居る。間違えるなよ」
赤目のリロは自身の胸を指でとんとんと突いた。位置的にあそこは心臓のあるはずの場所だ。
表情が抜け落ちてしまったかのようにベルの顔には何の感情も浮かんでいない。そんな彼をちらりと見やると、赤目のリロは手の中の林檎を弄び始めた。その間にも彼女の口舌は止まらない。
「まあ、おまえが私を快く思っていないのは知っているさ。何度おまえに殺されそうになったか解らないくらいだからな。おまえと私は相性が悪い。こいつはおまえを兄と仰いでいるようだが、私にしてみたらおまえなど邪魔な存在に過ぎん。反りが合うはずがないだろう」
赤目のリロは自身を指しながらその弁舌をふるった。右手で林檎をわし掴みにすると、体裁も気にせず噛り付く。透明な果汁が白い顎を伝って滴り落ち、白いシーツに染みを作った。甘い香りが部屋に広がる。
甘い果肉を存分に咀嚼し、飲み下す。顎についた果汁を器用に舐めながら、赤目のリロは無造作に口を開いた。
「そろそろ入って来たらどうだ、女。それともこの国の女は盗み聞きが習慣なのか?」
その言葉にハッとして扉に目を向けるベル。その視線の先でゆっくりと扉が開き、困ったような顔のエリティアが姿を現した。
…OUT…
巻き込みたくなかったのよ。あの青年は。本当に。
………優しかったから。
優しいが故に、彼は割り切れなかったのよ。
本当に、本当に、優しかったから。
え? しんみりした口調は似合わないですって?
失敬な。これでも伊達に噺屋やってないわ。黙って聞いてなさい。
…IN…
絶句して自分を見つめるベルにエリティアは慌てて言い訳をしようと口を開く。しかし、上手い言い訳が出て来ず、「えっと………」だけで止まってしまった。
「………いつから」
「え?」
「いつから聞いていたんです」
ベルの声は俯いているせいか、少し聞き取りにくい。
「えっと……」
「最初からだ。本当に気づいていなかったのか。そんなんではこいつの護衛など任せられんぞ」
エリティアを遮り、赤目のリロは言った。とんとんと指で自分を指す。
途端に無表情だったベルの眉間に深々と縦ジワが寄る。
「貴女には訊いていない」
「だが、いつから聞いていたと訊かれて、最初からでーす! などと気楽に答えられるわけがないだろう。私はその辺の心情を察してだな」
「それが余計なんですよ」
言い分を一蹴されむっとする赤目のリロを見て、エリティアは赤目のリロに対する評価を大幅に改正した。
立ち聞きしていた時は幼い声に宿る尊大な威厳が怖く感じたが、ベルとのやり取りを聞いていると少し捻くれただけの子供に見えてくるから不思議だ。
「エリティアさん」
「は、はい」
ベルの声で我に返る。その固い声音はエリティアを緊張させるのに充分だった。
しかし、やはり彼女は黙っているのが苦手らしい。
「おい、彼女が怖がっているだろうが。もう少し優しく」
「煩いですよ。黙っていてください」
口を開いた赤目のリロを瞬殺したベルは再びエリティアに向き直る。
「どうして立ち聞きなどしたのです。これでは俺は貴女を………」
言葉が小さく消えていく。ベルは苦しそうな顔でエリティアを見る。エリティアは訳がわからず立ち尽くしていた。
口を開くが、言葉は発されぬまま閉じられる。彼は諦めたように首を振った。
「……ベル君?」
「………すみません、何でもないです。今夜俺たちはここを出ます。これ以上貴女を巻き込むわけにはいかない」
「ちょっ……、待って、それはダメよ」
言ってしまってからエリティアは狼狽した。何故ダメなのか、エリティア自身がわかっていない。
案の定、ベルは怪訝そうに眉を顰めた。
「何故です? リロの熱はもう下がりました。貴女の祖母の薬のおかげです。ありがとうございます。旅路に必要なものも揃えました。ここに居続ける理由がありません」
急に居なくなったと思ったら、買い物に行っていたのか。
エリティアはベルの手際の良さに感心した。同時に脳みそをフル活用して言い訳を考える。だが、全く思いつかない。
仕方なく口から出まかせを、と思った瞬間、エリティアはいいことを思い出した。
「明日は年に一度の祭なのよ。遅くまで準備で人が沢山いるはずだわ。だから、こっそり街を出るつもりなら、人目が多すぎる。止めた方がいいわ」
「そうですか。じゃあ今すぐ出ていきましょう。今の時間帯、ましてや祭の前なら市場は混雑しているはず。買い物客に紛れて街を出るには調度いい」
あっさり意見をかわされて、エリティアは墓穴を掘ったと内心地団駄を踏んだ。これでは二人は出ていってしまう。せめて、もう少し居てほしい。
その時、赤目のリロが顔をあげあらぬ方向を見つめた。その眉間にシワが寄り、目元に険が宿る。真っ赤な瞳でのその目つきは非常に怖い。
「……今夜はここに泊まるぞ、ベルよ」
「な……。何を」
言っているのです。後半の台詞を飲み込み、ベルは同時に息も呑んだ。顔から血の気が引き、紫色の唇を噛む。常に冷静沈着だったベルがひどく動揺していた。
ベルは目を閉じると一つ大きく深呼吸した。再び開いた瞳に動揺は欠片も残っていない。すごい切り替えだ。彼はこの若さで完全に自分の感情を操作している。
「わかりました。一晩だけお世話になります。エリティアさん」
丁寧にお辞儀するベル。一体彼がどんな人生を歩んできたのか、エリティアには解らなかった。
…OUT…
いい時間だわ。え? ああ、丑三つ時って知ってるかしら?
禍きものが一番活発に動く時間なの。
私はこの時間が大好きなのよ。
だって、街中に人間が居なくなるでしょう?
…IN…
夜中に関わらず、明かりが点り、祭の準備のため沢山のひとで賑わう大通り。
その通りから少し外れた路地を進むと現れる、全てが闇に包まれ、街灯すら消えた漆黒の街。
誰もが寝静まったその街の沈黙を破ったのは、一つのノックだった。
エリティアは普段掃除に使う箒をにぎりしめながら外に繋がる扉を凝視した。
普通はこんな時間に来客などあるはずがない。つまり、この来客は普通ではないのだ。
ベルの指示で普段着のまま床についていたが、その意味がようやく理解できた。こういう場合、寝間着でいるのは危険過ぎる。
開けるべきか。悩むエリティアはふと視界の隅に動くものを捉えた。
バッと振り返ると同時に口を塞がれる。反射的にその手を弾こうとすると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「俺です。エリティアさん」
「…………」
「すみません。大声をあげられたりしたら、突入のきっかけを与えてしまうと思って」
エリティアが落ち着いたのを確認すると、ベルは口を塞いでいた手を離す。その傍らには翡翠色の瞳をしたリロヴィーナが殊の外落ち着いた様子で立っていた。
あの後、リロは急にベッドの上にくずおれたかと思うと再び目を開けたときには、瞳の色はは燃えるような紅蓮ではなく、静かな水面のような翡翠に戻っていた。瞳が赤かった時の記憶が欠落しているらしく、ベルとエリティアを交互に見ては「どうしたの」としきりに繰り返していた。
エリティアはその赤目について追求しなかった。何故瞳が赤くなるのか、多重人格なのか、本当はすごく知りたい。しかし、「なんでもないよ」と、リロヴィーナを宥めるベルが震えるほど拳を握り締めているのを見てしまったエリティアには、訊くことなどできなかった。
「………エリティアさん」
呼び声に我に返る。切れ長の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「……ごめん、なあに?」
「エリティアさんはリロをお願いします。俺は片付けてきますから」
「片付けてくるって……外の人達を? もしかしたら普通の人かもしれないじゃない」
そんなことはないと確信しながら、それでもエリティアは言った。己の確信が間違っていてほしいと願いながら。
しかし、そんな甘言を認めてあげるほどベルは甘くない。
「いいえ。外にいるのは近所の人ではありませんよ」
「何でそう言い切れるの?」
「だって覆面をして短剣を携えた暗殺者なんて、近隣に住んではいないでしょう?」
覆面、短剣。その単語に一瞬驚愕するが、口をついて出たのは別のことだった。
「どうして外の人達がそんなもの持っているってわかるの?」
「さっき、屋根のうえから確認しました。人数は五人。全員男で、おそらく二十歳後半でしょう。たいした数ではありません」
当たり前のように返され、エリティアは少し面食らった。
屋根のうえからって……。
アジェンド人は長躯が多いため、アジェンドの住宅は天井がかなり高く造られている。二階建てが主流で、もちろんエリティアの家も例外ではない。ロヴェル人の住宅でいうと三階くらいの高さがある屋根の上など、普通なら上ることすら躊躇するだろうに。
リロも普通の十四歳の少女なら怯えてしまうだろうこの状況で、全く平然としている。会った瞬間から普通の兄妹ではないと思っていたが、もしかしたら自分の想像より遥かに異常なのかも知れない、とエリティアは思い始めていた。
「静かにお願いしますよ」
ベルが音をたてずに階段を駆け上がっていく。どうするつもりかは知らないが、上の窓から奇襲でもかけるつもりなのだろう。
暗殺者がどれくらい強いのかは知らないが、大の大人五人に対して物怖じせず「片付ける」と簡単に宣言するくらいだ。頑固な親父を恐怖させるあの瞳といえ、ベルもただの青年と言うわけではないのだろう。
エリティアはふう、とため息をついた。
正確に状況を把握しているわけではないけれど、どうやら今、私はものすごくピンチらしい。
『非日常』を求めていたとはいえ、彼女は戦を望んでいたわけではなかった。食べかけの甘口のカレーに飽きて、ほんの少しスパイスを足したくなったときのように。ほんの少し『日常』に『異常』というスパイスが欲しくなっただけだ。自らを危険に晒さず適度なスリルを味わう。彼女が望んでいたのはこれだったのだが……。
まあ、いいか。
エリティアは一人頷く。
蚊帳の外から『異常』を味わうのもいいけれど、たまには中に入るのもいいだろう。
クイッと引っ張られるのを感じて、エリティアは隣のリロに視線を向けた。
「ん?」
どうしたの、の意味を込めて小さく首を傾げる。しかしリロは何も言わず、ただ哀しそうに眉根を寄せた。翡翠色の瞳が揺れ、何か迷っているらしいというのがわかる。エリティアの服の裾を掴んだ手は、離さないとでもいうようにかなり力が込められていた。
その小さな手に自らの手を重ね、エリティアはリロの前に膝をつく。
「なにか言いたいことでもあるのかな? あるんだったら言って御覧」
「…………」
「お姉さん、怒らないから。ね?」
数秒の逡巡。まだ迷っているのか、震える唇から告げられた言葉にエリティアはその瞳を見開いた。
「………お姉さん、何人いるの?」
沈黙。
エリティアは困ったように笑う。
「どうしたの、リロちゃん。いきなりそんな」
「…………ごめんなさい」
「どうして謝るの? 謝る必要なんてないわ。言って御覧って言ったのは私よ? むしろ嫌なことを言わせてしまった私が謝るべきだわ」
ごめんなさいね、そう言うエリティアをリロは不思議そうな顔で見つめる。
己を見つめる汚れのない澄んだ瞳は私を見ているようで見ていない。そこに何が映っているのか、エリティアにはわからなかった。