第二十五話 誘い
何なんだ、と思った。
目の前では黒髪の少女が跪き、頭を下げている。ベルと、妹のリロに向かってだ。はるか昔、血みどろの世界にいたころはこうして傅く者を見下ろしたこともあるが、すべてを捨ててからはそんなことは一度もなかった。
ふと、目の前が紅に染まる。まずい、と思った瞬間、いくつかの映像が脳内を駆け抜けた。転がる屍、鼻をつく鉄のにおい、そして――真っ赤に染まった己の手。
あの日の記憶。
「……!!」
バッと手で口をおさえた。込み上げてきた吐き気を無理やり抑え込む。この程度で、と唇を噛んだ。過去の記憶がフラッシュバックするなど、軟弱にもほどがあるだろうと叱咤する。
その時、ふと傍らに温もりを感じベルは視線を落とした。
翡翠色がこちらを見上げていた。その小さな手のひらがベルの上衣を掴む。
「お兄ちゃん」
心配そうに見上げてくる妹に、ベルは笑顔を返した。顔色は悪かったかもしれない。それでもベルは微笑み、リロの頭に軽く手で触れた。
「大丈夫。なにも心配しなくていい」
妹は何も言わなかった。ただ悲しそうに眉尻を下げただけ。
一つ鋭く息を吐き、ベルは少女に向き直った。頭を垂れたままの彼女を見下ろし――いきなり核心を突く。
「貴女たちは<夜明けの鐘>ですね?」
ゆっくりと上げた彼女の顔は、嬉しそうに微笑んでいた。もちろんベルがわざと『貴女たち』と複数形にした意図も、彼女には伝わっているだろう。そして、俺はお前たちの正体を見抜いているぞ――というベルの牽制にも、気づいているに違いない。
それでいてなお、あの少女は微笑んでいる。
少女のカタチをした『暗殺者』は、余裕の笑みでベルたち兄妹を見つめているのだ。
ベルがすっと目を細めた頃、少女はようやく口を開いた。
「ご明察……です。私たちは……<教会>……<夜明けの鐘>です……」
ほぼ確実の『推測』が、少女の言葉で『事実』に変わる。変わったところで今さら何に影響するというわけではないが、相手が明確になっていた方が何かとやりやすい。
<夜明けの鐘>――アジェンド人からの迫害に耐えきれなくなったロヴェル人が組織した結社。軍事に特化していたロヴェルは、たとえ女子供でも自衛ができるように護身術を身につけることを義務としていた。だからアジェンドとの戦争の最後には女も剣を持ったし、子供も懐に懐剣を忍ばせていた。そんな国の生き残りが集まった組織である。数は少なくとも、精鋭ばかりなのだ。
ベルもその名はよく聞いた。自身もロヴェルの国民だ。興味がないと言ったら嘘になる。だが、力にものを言わせるやり方は――少なくともリロの前で賛成はできなかった。
それで、とベルは促す。
「そのご高名の<教会>が、俺たち兄妹に何の用です?」
「……お逃げにならないんですね……?」
「はい?」
「私が、さっきした事……私の仕事を見て、みんな、逃げようとするんですよ……。だから、追いかけて害意がない事……証明してからじゃないと、勧誘も……ろくに出来なくて……」
「……」
「貴方は、そうなさらない……」
「逃げても貴女は追ってくるでしょう。追い付かれるとわかっていて、逃げたりはしませんよ。体力の無駄です」
きっぱりと言いきると、少女はまた嬉しそうに笑う。
「他の皆さんは、私から逃げ切れないことも……解らないんですよ……」
薄い笑顔を浮かべた『暗殺者』は、見た目は華奢な女の子だ。たとえ人間にあるまじき動きを見せられたとしても、その先入観は拭えないだろう。あり得ない現実に対する恐怖に突き動かされ、ただひたすら逃げようとするはずだ。
だがベルはあっさりとそれに気づき、さらにはその少し前に彼女の動きについていっている。彼女の目には、ベルが滅多にない逸材に見えたのかもしれない。
「つまり、腕の立つ者が欲しい、というわけですか?」
ベルが問うと、少女は儚げに微笑んだ。そしてはっきりとうなずく。
舞踏会というのが何なのかは解らないが、おそらく彼女についていけば身の安全はある程度保障されるのだろう。いろいろ手伝わされることもあるだろうが、ベルの実力ならば滅多な危険はない。リロだってその辺の女の子とは違う。大人一人くらいなら簡単に倒せる。なによりアジェンド人の中に身を置くよりは、精神的負担がかなり軽減されるに違いない。
だが、と思う。
もし自分たちが<夜明けの鐘>の誘いに乗ったら、エリティアはどうなる?
アジェンド人の彼女は、しかし<夜明けの鐘>に乗り込むくらいならするかもしれない。飛び込んだ先が敵地のど真ん中だとか、そんな『瑣事』をあのエリティアが気にするとは思えないのだ。
そんな無茶を彼女にさせるわけにはいかない、と思う。エリティアは自分が巻き込んでしまったのだから。何があっても守り抜くと、決めたのだから。
ベルは紫苑の瞳にぐっと力を込めた。
たとえ相手が誰だろうと、戦う覚悟ならとうの昔にできている。
ベルの雰囲気が変わったことに気づいたのだろう。少女の――『暗殺者』の口が横に裂けた。
傍らのリロがびくっと身体を震わせる。隠しきれない殺気が辺りに充満した。
少女の桜色の唇が開く。
「――断り、ますか?」
身体を強ばらせたリロを後ろに押しやりつつ、ベルは唇を舐めた。ぴりぴりと肌を刺す殺気。それはまさに研ぎ澄まされた刃そのもので。やはり少女の姿をしていても、彼女は生粋の暗殺者なのだ。
ベルは右手を前に出し腰を落とした。ダガーは手元にない。さっき少女を妨害するために投げたきりだ。
素手でどこまでやれるか――ベルが呼気を鋭く変えたとき。
ざわめきが二人の間を遮った。
「――こっちか?」
「おい、すげぇ崩れてるぞ!」
「警邏はまだか!? 瓦礫の下に人が」
「誰か! こっち手伝ってくれ!」
暫しの沈黙のあと、ふっと重い空気を霧散させ、少女が苦笑した。
「ふふ……野次馬、来ちゃいました……ね」
「ええ」
ベルもゆっくりと構えを解く。彼女から目を離さず、警戒しながら。
人目につくようなことはしたくない。それは少女もベルも同様だ。そうなるとここは退くのが定石。定石なのだが――
その場から動かないベルに、少女は淡く微笑んだ。
「……後ろから襲ったり……しませんから……ご安心ください」
「そうですね。俺のことは、しないかもしれませんね」
妹を自分の身体の陰に隠すようにしながらベルは応える。この少女を相手にリロを庇いながら逃げられるか。注意を払わなければならないのは、少女からの攻撃だけではない。周りの目も気にしながら、だ。誰にも見られてはいけない――今の自分たちはこの街において、限りなく敵と判断されやすい立場にいるのだから。
ぐっと拳を握りしめたベル。リロはそんな兄の服の裾をそっと掴む。たった二人の兄妹だ、それだけでお互いの言いたいことは理解できた。
ベルは服を掴んでいた小さな手を自分の手で包み込んだ。
――おまえだけは。
リロ。たった一人の妹。おまえだけは何があっても逃がしてみせる。
膠着するベルと少女。先に動いたのはベルだった。
足元にあった瓦礫を渾身の力で蹴り飛ばす。それが少女に当たったかどうか確認もせずにベルはリロの手を引いて駈け出した。
一気に瓦礫の中を走り抜けると、ベルは妹を抱き上げ、すでに壁として機能していない残骸を蹴り部屋から飛び降りた。その間も警戒を解かない。何か攻撃があればすぐに自分を盾にできるように、リロの身体を抱きしめる手に力を込める。
だが、結論から言って、攻撃はなかった。
ベルは着地と同時に地面を蹴り、脇にあった路地に飛び込んだ。人目を避けるため、それと少女からの追撃を警戒しての行動だったのだが、肩越しに振り返ったベルが見たものは瓦礫の中に立ちつくしたままの漆黒の少女だった。
ベルの目に少女の口元が映る。細い三日月のような、弧を描く唇が。
――また、会いましょう。
そう動いた、気がした。
…OUT…
ただ、それだけだった。
あまりにささやかで、ふつうの願いだった。
誰もが願い、誰もが知らぬ間にそれを手にして、誰もがその価値を忘れてしまう、そんな願い。
でもね、それすら許されなかった。
あの時代、あの場所では。
小さすぎる幸せも手に入れられずに。
代わりにすべてを奪われた。
奪われて――壊された。
壊されてしまったのよ。
…IN…
地面を伝ってきた地響きに、サロワは天井を見上げた。ふう、と吐息する。
これは始まりの合図だ。誰が動いたのかまでは分からないが、どうやら派手にやったらしい。今出ているのは双子とキール、あとサポートに何人か動き回っている。これだけの無茶をするのは双子の弟シャンだろうか。
「……始まったか」
不意に隣りから聞こえてきた声に、サロワは「ああ」と答えた。きっと自分と同じように上を見上げているのだろう。そう思って振り返ると、やはり親友は椅子に腰かけたまま天井に視線を注いでいた。
細められた緑の瞳はどこか遠くを見つめているかのようで、サロワは唇を引き結んだ。親友はここにいるようで、ここにはいない。ずっと昔に彼はいなくなってしまった。それを知りながらここまで黙ってついてきた自分は、いったいどこまで愚かなのだろう。そう考えてしまうのは、心のどこかでこの道が間違っていると思っているからだろうか。
親友の視線がこちらを向く。彼の背中で、見せびらかすかのように伸ばされた黒髪がさらりと揺れた。
「サロワ」
「なんだ?」
「俺は怖いよ」
サロワは、はっと息を呑む。親友の緑眼に自分が映っているのが見えた。
「俺は怖い」
「アード、おまえ」
「戦うことが、命をかける事が、怖い。だけどさ、何より忘れちまうことが恐ろしい」
親友は自分の掌に視線を移した。
「この怒りを、この苦しみを、忘れて自分だけ楽になっちまうのが恐ろしい。あいつらを思い出せなくなっちまうのが、何より怖ぇんだ」
「……そんなこと」
「あいつらは赦すんだろうな。忘れたとしてもさ。そういうやつらだった。でも、多分俺が俺を赦せない。俺があいつらを忘れることを赦せない」
彼はサロワに話しているのではないとすぐに気がついた。親友は、アードは、自分に向かって言っているのだ。自分に向かって、言葉の呪いをかけている。過去の鎖で己を縛っている。
後悔をしたのだろうか。地響きを聞いて気持ちに後ろめたさが覘いたのかもしれない。アードはそんな自分が赦せないのだ。逃げようとする自分が赦せない。だから自分で自分を戒める。そうやって彼はこの十二年間暗い闇の中で生きてきた。
サロワは黙って部屋を出た。ああいう時のアードは放っておいたほうがいい。いずれ己を取り戻すだろうから、それまで待っているのだ。そして――あいつはまた壊れていくのだろう。
ふっと自嘲的な笑みがこぼれた。
「俺も、充分に壊れているのかもな」
あの日――炎の中死にそうになりながら走ったあの日から。もう充分に壊れていたのかもしれない。少なくとも、この世界に復讐してやろうと思うくらいには壊れているのだ。
ここにいない恩人を思い浮かべる。アジェンド人のくせにロヴェル人の自分たちを匿ってくれた奇怪な人。なぜ助けるのかと訊いたアードに、怪我人を放っておけるわけがないだろうと間髪いれずに答えた彼。彼は人種などまったくと言っていいほど気にしていなかった。ただ助けを求めていたからという理由で、戦時中にも拘らず敵であるロヴェル人を助けてくれたのだ。
――もし、俺たちがどうしようもないほど壊れてしまったら。
彼は俺たちを止めてくれるだろうかと、サロワは考えた。
兄に手を引かれ、リロヴィーナは街中を歩いていた。兄の特技で気配を消し、群衆に紛れる。そのおかげか、サージャで顔を隠した怪しい兄妹に視線を向ける者はいなかった。
リロは大きく息を吐き出した。兄と繋いでいる手は、きっとまだ細かく震えている。心臓の鼓動だってまだ治まっていなかった。身体が強ばっているのが自分でも解る。
あの女の子に会ってからだ。リロは思い出す。自分と同じ、黒髪緑眼の少女。柔らかな物腰で、しかし聞き取りにくい話し方をするロヴェル人。今までに感じたことない恐ろしい空気を放つ、暗殺者。
リロは兄の役に立ちたかった。自分の存在が負担になっているのではないかと不安に思って、ずっと悩んでいた。兄の負担を減らしたかった。
でも。
リロはぐっと唇を噛み締めた。
怖かった。あの暗殺者の少女と相見えたとき。リロはたしかに恐怖した。怖くて震えて、結局兄の背中に隠れているだけだった。
――情けない。本当に、あたしは情けない。
何が『負担になりたくない』だ。思いきり重荷になっているではないか。あの状況、兄一人なら何とでもなったのだ。逃げるなり打ち倒すなり、兄なら簡単に出来たはずなのだ。
でもそれをしなかったのは、リロがいたから。か弱い妹を庇わなければならなかったからだ。
やっぱり自分は足手まといなのだろうか。どれだけ頑張っても、兄の隣に立つことは叶わないのか。
そんな思考を繰り返していたからだろう。
兄が心配そうにこちらを見ているのに気づくのが遅れた。
「リロ」
兄は路の端に寄り立ち止まると、リロの前で屈み込み視線を合わせる。長身の兄の紫苑の瞳が、リロを映した。
「お兄ちゃん?」
「ごめん」
どうしたのだろうと首をかしげたリロに、兄は言った。
え、と目を瞠ったリロの肩を兄は優しく撫でる。寒さに震える子供を、自分の手で温めるように。
「怖い思いをさせた。もっと気を付けるべきだった。ごめんな」
泣きたくなった。
リロが望んでいるのはそんな言葉ではなくて。そんな労る仕草ではなくて。
ああそうなのか、と思う。兄の中ではいつまでたっても妹は庇護者なのだ。庇い、護る者なのだ。
自分がどんなに頑張っても。どんなに背伸びをしても。
兄に認められてはいないのだ。
「リロ?」
うつむいたリロを兄が心配そうに覘き込む。そんな兄の行動が、リロがそんなことを思っていると考えもしていないのだと余計強く印象付けた。
「どうした、リロ?」
何でもない、とかぶりを振る。わざわざ話すことでもないからだ。不甲斐ないのは自分であって、兄ではない。言ったところで何が変わるわけでもないのだ。
兄は納得していないように眉根を寄せていたが、ふと息を吐くと立ち上がった。ポンと軽く肩を叩いたのは、きっと心の準備が出来たら言えと言う意味だろう。こういう時、兄はリロが言うまで待ってくれるのだ。
そして、リロはそれに甘えてしまう。兄の優しさに、享受してしまう。
そんな自分が嫌で、どうしようもなく嫌いだった。
――まずいな。
ベルは妹を見てそう思った。完全に塞ぎ込んでいる。同じロヴェル人の少女の殺気に当てられてしまったのだろうか。
リロは今まで数々の修羅場を潜り抜けてきているが、ロヴェル人と敵対するのはこれが初めてである。やはりアジェンド人とは違った圧力を受けるのだろう。リロが震えているのにはすぐに気がついた。
――今は考えても仕方がない、か。
リロが話したがらないなら、問い詰めても意味がない。話せる時になったら、きっと話してくれるだろう。
それより、これからどうするかが問題だった。
ベルたちが奴らに襲われた以上、この場所に長く留まるわけにはいかない。すぐにでもこの街を出て行方をくらますべきだ。今回のような下っ端ならまだしも、シアで遭遇したヨハンナやエドワールのような手練れが一気に襲ってきたら、いくらベルでも対応しきれない。そして対応しきれなかったら、犠牲になるのはきっと自分ではなく妹だ。
対して政府はまだベルたちを捉えていないだろう。ジヴァールが出てこなければ、あの機関は怖くない。だがあの腹黒魔術師が出てくるとなると、話は全く違ってくる。奴が本気を出せば――いくらベルとて本気で応戦せざるを得ないのだ。
奴らが現れる前にここを離れなければ、関係ない人まで巻き込んでしまう。周りを気にしながら戦う余裕は、今のベルにはない。
――どうする?
何をするにせよ、まずエリティアを探さなければいけない。そう思い、リロを振り返った、その時。
「エリティアさん!」
「え?」
リロが叫ぶ。リロと同じ方向に視線を向けるが、ベルにはその姿を確認することは出来なかった。
どこに彼女が。問うために振り返ったベルの隣を、漆黒が駆け抜けた。それがリロだと気づくのに時間は必要なかった。
「待て、リロっ……!」
手を伸ばす。だが、それはギリギリで妹に届かない。
「くっ!」
すぐに後を追うが、人混みに阻まれなかなか追い付けない。妹の俊足がこんなところで仇になるなんて。ベルは奥歯を噛み締めた。今離れ離れになるのはまずい。
「リロヴィーナ! 待て、俺から離れるな!」
叫んだ声は悲鳴のようだった。
人混みをようやく掻き分けて追いついた時、目に入ったのは尻餅をついた妹と、背中まで流れる黒髪だった。
――しまった……!
「ロヴェル人……?」
ベルが妹に駆け寄った時、誰かがそう呟いたのが聞こえた。