第二十四話 襲撃
ベルはエリティアを送り出したあと、特に何をするでもなく、部屋でおとなしく座っていた。まるで銅像のようにじっとして、時おり窓の外を確認するためにカーテンの隙間を覗く。窓の外は平和な通りがあるだけで、ベルの懸念するようなものはひとつもなかった。
――静かすぎる……。
それが逆に不安を誘う。
静かなのはいいことだ。本来なら、これをいいことに身体を休めるべきである。エリティアもそう言い残して部屋を出ていった。彼女の言を守るなら、ここらで一眠りくらいした方がいいだろう。
しかし戦いの勘というのだろうか、常に追われる生活をしていたベルには、この静けさが嵐前の静けさに思えてならなかった。
人知れず拳を握りしめたベルは、ベットですやすやと昼寝をしていたリロが身を起こしたのを視界の隅に捉えた。「うーん……」と目を擦る妹に、自然と笑みがこぼれる。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。その願いはエストレジャの家に匿われていたときにも心に浮かんだものだった。
幸せそうにしているリロを見るのが、唯一の救いだった。〝あの人〟が生きていたとき、ベルはリロの笑顔で自分を保っていた。〝あの人〟を母と仰ぎ、ベルを兄と慕うリロヴィーナを、騙しているのだという罪悪感から逃れるために、ただひたすら彼女の笑顔を護った。
――でも、もう、無理だ。
いつまでもまやかしの日々が続くわけがない。所詮まがい物の兄だ。リロはすでに、それに気づき始めているはず。これ以上、聡明な少女を欺き続けることは、出来ない。
いつ真実を告げるべきだろうか、とずっと迷っていた。早く言わねば、と思っていても、どうしても踏ん切りがつかない。妹の笑顔を失うことを恐れているのだと気づいてからは、臆病な自分が憎くて仕方がなかった。
ふと失った〝あの人〟の微笑みが、脳裏に浮かぶ。彼女はいつも微笑っていた。
――ソフィアさん、すみません。
俺は、貴女との約束を守れそうにありません。
心の中で謝ったベルは、いつの間にかこっちをじっと見ていたリロに気がついた。
翡翠色の瞳に一瞬、血のような紅蓮がよぎる。
ぐだぐだとした考えが、一瞬で頭から吹き飛んだ。
「! リ……」
「来るぞ」
一言、それだけ言って紅蓮は消えた。その名残が消えないうちに、ベルは床を蹴る。
轟音と共に壁が吹き飛んだのは、その直後だった。
「……ッ!」
リロの小さな身体を掻き抱き飛び退いたベルは、弾ける飛礫からリロを庇いつつ、砂ぼこりの向こうに目を凝らした。
ジヴァールではない。奴ならこんな真似はしないだろう。魔術で気配を断ち、その上で奇襲をかけてくるはずだ。わざわざ派手に壁を破壊したりはしないはずだ。これは奴のやり口ではない。
ならば、一体――
「誰だ」
ベルはダガーを抜き放ち、油断なく構える。
正気に戻ったリロも後ろで身体を緊張させていた。身に付けてあった麻袋から、小型の弓を取り出す。それに矢を番え、いつでも射てるように構えた。
砂ぼこりがゆらりと揺れ、複数の男が姿を現した。黒いローブを着ている。手に持つ剣が、太陽を反射しキラリと光った。
ベルは素早く気配を探った。目に頼らず、第六感を研ぎ澄ませる。ぽつり、ぽつりと煙の中に気配を捉える。一、二、三、……六人。
「何者だ、貴様ら」
ベルの誰何に答えたのは、真ん中の男だった。
「我々は主の命により、紫苑の目を持つ男を迎えに来た。おとなしく従えば、悪いようにはしない」
「――断る」
ベルの答えに、男たちはあまり反応を示さなかった。断られるのは想定済みだったようだ。すぐに中央の男が言い返す。
「抵抗された場合、手を出すことを許可されている。この人数相手に、足手まといがいるおまえが勝てると思うのか」
「思う」
返す声には何の感情も含まれていない。自信や虚勢の類いは欠片も感じ取れなかった。ベルにとってはあくまで事実を告げただけなのだ。
この即答には、男たちも驚きを禁じ得なかったらしい。にわかにざわめいた彼らの視界からベルが消え失せたのは、その刹那だった。
「なッ……」
男たちが剣を持ち上げる間もなく、一人が悶絶し、倒れた。動揺が広がった頃には、もう一人が地に沈む。男たちが戦闘体制に入ったときには、ベルは三人目の鳩尾を突き上げていた。
「かッ、囲めッ! 一対一で挑むな!」
リーダー格の男が叫び、残った二人がパッと散った。ベルを囲い、間合いを測るようにじりじりと動く男たちを、紫苑の双眸が冷静に追う。自然体に見えて、実は全く隙のないベルの姿に、男たちは背筋に凍るような感覚を覚えた。
間合いを測るだけで、動き出せない男たちの耳に、静かな声が忍び込む。
「どうした、来ないのか」
挑発にしては感情のない声音だった。反応を見ているのだろうか。刹那、しばらく静止していたベルの身体が、しなかやに動く。
身体を反転させたかと思うと、斜め左後ろにいた男に向かって駆けた。男は「ひっ」と情けない悲鳴をあげ、夢中になって剣を突き上げる。半身ずらしただけでそれを躱したベルの刃が、すれ違い様に男の腕を裂いた。
悲鳴が迸る。腕を押さえて身体を折り曲げた男の襟首をひっ掴み、ベルは背後に忍び寄っていたもう一人に投げつけた。
思わず投げつけられた仲間を受け止めた別の男は、動きが制限されたその隙に、側頭部を殴られ気絶する。悲鳴をあげる暇すらなかった。あっという間に仲間をすべて倒されたリーダーは、息ひとつきらさず佇むベルを見て、戦慄に身体が震えるのを感じた。
――何故だ。
ベルの身体が疾風と化す。うねるように襲いくるダガーを間一髪剣で弾き、男は死に物狂いで後ろに跳んだ。
――何故だ!
間合いを開けたはずの男の懐に、ベルが飛び込む。速い。迫る左の拳を防御しようと腕を眼前で交差させた瞬間、ふと地面の感覚が消えた。左の拳はフェイントで、足払いをかけられたのだと気がついたときには、喉元にダガーを突きつけられていた。
「何故だ!」
男は叫ぶ。
男には解らなかった。〝あの方〟のおかげで信じられないほど強靭な身体を手に入れた。人間相手なら十人二十人殺すことくらい、もはや運動ですらなかった。敵などいないはずだった。
それなのに。たった一人の青年に、ここまで簡単に制圧されてしまった。敗けはないはずだ。人智を越えた力を有した自分たちが、敗けるはずなどないのに。
「何故だ! 何故おまえは立っている! 何故私たちを組み敷いている! 何故ッ……!!」
「そうか、貴様は知らないのか」
冷静沈着な声は、熱に浮かされたようだった男の意識を、一瞬で冷ます。
「な、知らない、だと? 何をだ。私が何を」
「すべてを」
声は意識を冷ますだけでなく、心を冷たく凍らせた。心中の氷がぞわりと渦巻く。それが恐怖だと、男は気づかない。
彼を見据える紫苑の瞳には、感情というものが見えなかった。
「劣化が、本物に敵うはずがないだろう」
それは小さな小さな囁き。男にしか届いていない、密やかな言葉。
男の目が驚愕に見開かれる。新しい身体を手に入れたとき、一度だけ〝あの方〟に会った。そのときの記憶に残る〝あの方〟と、いま目の前にいる青年の相貌が、重なった。
「そんな……まさか――!」
あり得ない。男は呻く。あり得るはずがない! 〝あの方〟は絶対だ。世界でただ一人の特別だ。それなのに、それなのに!
同じ存在がこの世に実在するなんて!
「まあ、そんなことはどうでもいい。俺が貴様を気絶させずにいたのは、質問に答えるためじゃない。答えさせるためだ」
絶句する男に、ベルは全く容赦がない。
「ゲルトはどこにいる。奴の居場所を教えろ」
男はその名を聞いた瞬間、一気に身体中の血が引くのを感じた。何故、と疑問が浮かび、すぐに答えも浮かぶ。同じ存在なのだとしたら、〝あの方〟のことを知っていたとしてもなんら不思議はない。
けれど、居場所を教えることだけはできなかった。もしそんなことをしたら、裏切り者として烙印を捺され、問答無用で消されてしまうだろう。
「このまま黙っていても、結局貴様は消される。あいつは失敗した者に容赦をしない。そもそも貴様らが俺に勝てるわけがないと、あの男が気づいていないはずがない。貴様は捨て駒にされたんだよ」
まるで心を見透かしたように、ベルが囁く。ぐらりと視界が揺れた気がした。否、揺れたのは己の自信か。
ベルが「さあ、どうする……?」と促してくる。その紫の瞳に、刹那くらりと目の前が歪むが、男は次の瞬間一気に剣を振り上げた。
ベルが紙一重でそれを躱し、勢いをそのままに数歩後退する。
「――……」
「……惑わされぬぞ……! おまえの言うことなど……信じるものかッ……!」
男はベルの言葉を拒絶した。信じなかった。信じられなかった。自分は最強になった。敗けを知らぬ身体になった。そう信じないと、なにかが崩れ落ちそうな気がした。
男を見つめたベルは、小さな嘆息の後、すっとダガーを構える。
鋭い声が響いたのは、そのときだ。
「お兄ちゃん、上!!」
パッと上空を仰いだベルの身体が、緊張したのが解った。男もつられて上を見上げる。見えたのは、なびく黒髪と鋭い緑玉の瞳。誰かの叫ぶ声が聞こえる。銀色の閃きが視界を埋め尽くしたのはその直後だった。
「え――」
身体中に熱が走る。身体が硬直し、目の前が赤く染まる。口を開くが、意図したような叫び声は出ず、かすれた声が洩れただけだった。
――くすくす。
意識が途切れる寸前、笑い声が聞こえた気がした。
ポタッ、と血の滴る音が辺りに響く。
それは一瞬の出来事だった。最後まで抵抗の意を示す男に、仕方がないから力ずくで情報を聞き出そうと決めた。ダガーを構えた瞬間、リロの警告とほぼ同時に鋭い殺気を感じ取った。
しかしそれはベルに向けられたものではなかったのだ。
「あー……。失敗しちゃったじゃないですかあ……」
倒れた男の傍らに立ち、突如上から降ってきた少女は、血に塗れた短剣を提げたままため息をついた。
艶やかな黒髪は肩に届かないくらいの長さで、緑の瞳は少々つり目ぎみだ。陶磁器のように滑らかな白い肌は、整った目鼻立ちと相俟って、まるでビスクドールのように可愛らしかった。纏うのは全身真っ黒な服で、動きやすさを重視した作りのせいか、身体のラインが丸分かりだ。こんな場面でなければ、男たちの視線を一身に集めることだろう。そんな美少女だった。
「あなたが邪魔するからですよぉ……。仕留められると思ったのに……」
本気で残念そうに少女が言う。それがか細く可憐な声音だったのに、少なからず驚いた。おまけにキツめだった目じりが少し下がっている。肩を竦め縮こまっている様子は、叱られるのに怯える仔犬のようだった。
先ほど殺気剥き出しで男に襲いかかった姿とは、まるで結びつかない。けれど、ベルもリロも油断はしなかった。彼女が一流の暗殺者だというのは、その身のこなしで明白だったからだ。
少女は恨めしげにベルを睨む。それでも仔犬がちっちゃい歯を剥き出してむくれているようにしか見えないのが悲しい。
「大体どうして……私の気を引こうと声をあげたり……ダガーを投げたりしたんですか……。声にはビックリしたし……、ダガーは腕にかすっちゃったし……、おかげで標的殺し損ねたじゃないですかぁ」
少女は背後の壁に突き刺さっているダガーと、うっすら血のにじむ右腕を見る。
少女が男に襲いかかったとき、ベルは阻止するためにダガーを投げたのだ。いくら敵とはいえ、殺されるのを黙ってみているわけにはいかない。
それを伝えるわけでもなく、ただ沈黙を通すベルに、少女は「せっかく強いのにぃ……」と呟いた。
「任務は失敗しちゃったけど……、戦闘不能にするって主旨は達成したから、大丈夫……だよね。じゃあ……次の任務に、移行しようっと」
少女は短剣に着いた血を払うと、腰に固定してある鞘に納めた。少女の空気がふわりと和らぐ。相変わらず目尻を下げた弱々しい顔をしているが、瞳の奥にあった、密やかな殺気も闘志も掻き消えていた。
少女はベルたちの方に身体を向けた。ベルとリロに緊張が走る。しかし少女はそんなことには気がつかなかったかのように微笑み、優雅に腰を折った。
「――何のつもりですか?」
ベルの問いに、少女は顔をあげないまま答える。
「危険を省みぬ強きロヴェルの旅人たちを、敬意を払って舞踏会に招待する……、それが私の次の任務です」