第二十三話 拉致
宿で一夜を明かしたエリティアは、朝食を摂ったあと街へ出た。
ベルとリロの兄妹は、ひとまず宿の部屋に残ってもらっている。ロヴェル人の二人が街を歩き回るのは、少しリスクが大きすぎるからだ。
宿の部屋の広さや食事の豪華さにいちいち感動していたリロも、今ようやく落ち着き、ベルとおとなしく部屋に閉じ籠ってくれている。
リロの感動した部屋も食事も、アジェンド人から見たら別に豪華でもなんでもない代物だ。むしろ質素な方だろう。しかしロヴェル人のリロにとっては夢のようなものだった。
彼女のはしゃぎっぷりを見ていたエリティアは、申し訳ない気持ちで一杯になった。
リロのような幼い少女に、贅沢を知らない生活を強要しているのは、紛れもない自分たちアジェンド人だ。本当なら、あの宿を見た時点で「ぼろぼろだ」と評してもいいくらいなのだから。
それなのに……。
エリティアはぶんぶんと頭を振った。癖のない金髪がふわりと広がる。
「……頑張らなくちゃ……」
リロが贅沢を知らないのなら、自分がさせてあげればいい。
そのための努力は惜しまないつもりだった。
エリティアは、街を見回す。
金色ばかりの街。そこにエリティアと行動を共にする兄妹と同じ色はない。
こっちに来る前に、一通りギンドールのことについて独自に調べた。シアにもあまり情報がなかったが、少しは街の事がわかった。
この街は、戦時中、牢獄として使われていた。かなりのひとが捕らえられ、看守による暴行も当たり前のように行われていたという。亡くなったひとも、一人や二人ではなかったようだ。どこかに地下牢に続く場所があって、朔の日にそこから殺された罪人の霊が出てくるなどという噂さえあるくらいだ。
そんな曰く付きの場所を、今の街の代表であるキーリーベル・アルドアが、再興したのだ。
他の街や国への交渉などを、すべて一人で引き受け、街を建て直した。交渉の場をあっという間に呑み込んでしまう、その手腕を見た者が、キーリーベルのことを「麗しき支配者」と呼んだと言う。少し恥ずかしい呼称だ、と思わなくもない。
その「麗しき支配者」が何故アジェンド人の楽園を作ったのかはわからない。ロヴェル人の死が染み込んだ地で、殺戮者側のアジェンド人が、その生を営んでいるのだ。この街のひとは果たしてその矛盾を、十分に理解しているのだろうか。
不意に、街民の会話が耳に入った。
「そういや、そろそろらしいな」
どうでもいいはずなのに、何故か興味が引かれた。何がそろそろなのだろう? 催しがあると言うのは知らない。個人の用事だろうか。エリティアは何となくそのまま聞いていた。
「ああ、アレね。三日以内だろ。ほんと、日取りくらいしっかり決めてほしいな。今回はなんつったっけ?」
「えーっと……、ああ、思い出した。『舞踏会』だよ」
舞踏会? エリティアは、眉を顰めた。そんなものがあるなんて聞いていない。
エリティアが疑問を感じている間にも、会話は続く。
「そうそう、それだ。楽団を招くんだっけ」
「本当に踊るわけじゃないのに、意味あんのかよ、それ」
「せっかくだし、おまえ踊ったら?」
「ふざけんな」
軽く小突き合い、話題は別のものに変わった。エリティアはその場を後にした。
歩いていたエリティアは、首筋に濁ったような感覚を察知した。身体が一瞬硬直する。この感覚には、覚えがある。
――昨日の……!
ベルが見つけることのできなかった、尾行の視線。咄嗟に気配を探るが、ベルに解らなかったものが、自分に解るわけもなく。
動揺したエリティアを嘲笑うかのように、視線は感じたとき同様、唐突に消え失せた。
――何、今の……?
エリティアは混乱した頭を必死に落ち着ける。動揺を悟られてはいけない。そう自身に言い聞かせながら深呼吸をしていたエリティアは、とん、と肩を叩かれ思わず悲鳴をあげた。
「きゃあッ!?」
「わぉ、ごめん、びっくりさせてしまったね」
手を払いつつ振り向いた先にいたのは、アジェンド人の青年だった。質素な上衣を羽織り、ブーツを履いている。纏う空気が少し上品な感じがしたので、おそらく貴族の出だろう。癖のある金髪を掻きあげ、くすくすと笑っている。
なんだか、からかわれたような気がしたエリティアは、その茶目っ気たっぷりの瞳をキッと睨んだ。
「何か用?」
「そう怒らないでおくれ。驚かせてしまったことについては、謝るから」
両手を挙げ、降参の意を示す青年は、相変わらずくすくすと笑っている。そこにシアの時計屋に近いものを感じとり、エリティアはため息をついた。
「あんたもあいつと同じ人種なのね……」
「? 何のことだい?」
「なんでもないわ」
エリティアはあからさまに呆れた空気を出したが、青年は特に気にしない性格なのか、鈍いだけなのか、けろっと笑っただけだった。
「ああ、自己紹介がまだだったね。私はキール。貴女は?」
「……、……エリティアよ」
少し逡巡したが、エリティアは名乗った。
尾行の視線が途切れたとたんに現れた青年。それだけで十分怪しい。おまけに彼は迷わずエリティアに声をかけてきた。警戒に越したことはないが、何者なのか解らないうちに手を出せば、藪蛇になりかねない。下手に動けなかった。
そんなエリティアの葛藤も知らずか、キールは底抜けに明るかった。
「エリティアかぁ、いい名前だね。私の知り合いにも可愛らしい女の子がいるんだけどね、君は彼女に負けないくらい君もきれいだね」
あんたの知り合いなんざ知るか。そう呟くのは心の中だけにした。エリティアは自身がひどく警戒しているのにも関わらず、のほほんとして緊張感の欠片もないキールに、理不尽にも怒りを感じ始めていた。
もともとエリティアは短気だ。それは自他ともに認める欠点である。初対面にも関わらず気に入らなかったら噛みつく。そんなことをもう何回繰り返したかわからないくらいだった。
そして今、キールはまさにその対象に当てはまるのである。
「君と彼女を会わせてみたいな。きっと気が合うと思うよ」
「……――」
知るかッ! そう叫ぼうとしたエリティアは、視界の隅に動くものを捉えて喉まで出かかった言葉を止めた。
それは少年だった。なんだか見覚えがあるな、と彼を凝視したエリティアは「あ」と声を洩らした。
「昨日の……」
路で大男とぶつかったかなんかで謝っていた少年だった。ぼさぼさの金髪が相変わらず鼻のあたりまで顔を隠しているが、間違いない。
エリティアが見つめる前で、少年はキールのそばまで来ると袖を引っ張った。「キールさん」と押し殺したような声が彼を呼ぶ。
「シャンかい、どうした?」
キールは振り返ると背の低い少年に合わせるように少し身を屈めた。その耳にシャンが何かを囁く。聞き終えたキールの顔は、少しばかり曇っていた。
「本当かい、それは?」
「間違いない。俺も確認した。どうする、俺はあんたの側を離れられない」
「んー、でもなぁ、彼女を一人にするわけにもいかないし。君が彼女を護ってくれたら楽なんだけど……」
「今の話、聞いてた? 俺はあんたの側を離れられないんだ。もし離れていいと言われても、あんたを放っておいてこいつを護るなんて、俺ぁ御免だね」
「こら、シャン、ダメだよ。そんなことを言っては。でも仕方がないね。予定外だけど、この際、私が彼女を護るとしよう」
「はあ!?」
声をあげたのはシャンだけではなかった。エリティアも眉間にシワを寄せてキールを睨み付ける。その様はいよいよ警戒を越え、敵意に移っていた。
「さっきから聞いていれば、一体なんなの? 護るとか護らないとか。訳が解らないわ。でも、一応言っておくわね。どこの馬の骨かも知らない坊やに護られるほど、私は弱くないわよ」
すぱっと言い切ったエリティアに、キールはぽかんと口を開けている。よほど驚いたのか、自分の間抜け面にも気がついていないようだ。
茫然自失のキールの代わりに噛みついてきたのは、言わずもがなシャンだった。
「おまえ、キールさんの好意を無駄にするってのかよ! こう見えてキールさんは武芸に関してドがつく素人なんだぞ。そのキールさんが身の危険を省みず警護を引き受けてくれたんだ、ありがたく思え!」
「めちゃくちゃありがた迷惑よ。だいたい戦えないひとが護衛って、完全に足手まといじゃない。というか邪魔? いない方がいいわね」
「なんだと!? そんなこと……あるけど! キールさんだってなぁ、自分が足手まといどころか喧嘩じゃ子供にも負けるって自分でも解ってんだよ!」
「シャン、それ全然フォローになっていないから」
とほほ……と萎れながら、キールが憤然としているシャンを止めた。まだ言い足りないという顔をしているシャンを諫めてから、キールはエリティアに向き直る。
エリティアはその目を見てぞくりと背筋が凍るのを感じた。
まるで猛禽類のような鋭い目。さっきまでの飄々とした茶目っ気はもうどこにもなかった。ただそこにあるのは、怜悧な、冷たい水面にも似た瞳――。
キールは言った。
「一緒に来てくれるかな、エリティア嬢。あまり時間がないのでね、素直に従ってくれるとありがたいのだけれど」
ハッと我を取り戻したエリティアは、気圧されながらも一歩も引かなかった。
「断るわよ。第一あなたたち何者? いきなり話しかけてきたと思ったら、今度は一緒に来いですって? 調子に乗るのも大概にして。一体何を考えているの」
その問いに対する答えは、残念ながら返されなかった。
睨まれたキールは、困ったように眉尻を下げる。
「うーん、今は答えるときではないんだ。済まないね」
「済まないじゃ――」
ないわよ、と怒鳴りつけようとしたエリティアは、しかし皆まで言えなかった。
ドン!
語尾を掻き消すように、地響きが辺りを震わせる。
慌てて辺りを見回すと、空に煙が伸びているのが見える。エリティアはさあっと顔から血の気が引くのがわかった。
あの方向は――
「宿がある方じゃない……!」
絶句したエリティアに、キールののんびりとした声が届く。
「始まってしまったようだね」
すっと手が動く。考える前に身体が反応していた。キールの胸ぐらを掴むと、グッと引き寄せる。鼻と鼻が触れそうなくらいの至近距離で、エリティアは彼を睨みつけた。
「あんた何者よ。ベル君たちに何をしたの!?」
体が熱い。どくどくと耳の奥で血がめぐる音がする。ぎりッと奥歯を噛み締め、「答えなさいよ……!」と唸った。
怒りと焦燥がない交ぜになった瞳を見つめて、けれどキールはあくまで笑顔を崩さない。
「彼はベルというんだね。名前を聞きそびれたと残念に思っていたんだよ。聞けてよかった」
そう言って、キールが目を伏せた、刹那。
とん、と首に衝撃を感じとる。
あ、と思ったときにはもう遅かった。
暗転する視界。胸ぐらを掴んでいた手がするりと落ちる。膝が砕けたのが解った。
視界をかすったキールの隣に、シャンの姿はない。
どこに――?
エリティアの意識はそこで途切れた。
脱力したエリティアを受け止めたキールは、小さくため息をついた。
「ごめんね……」
苦しげに瞼を閉じている彼女に囁きかけるが、反応はない。もう意識がないのだ、返事があるはずはない。解っていても、キールはエリティアに謝った。
「キールさん、急ごう」
エリティアに手刀を叩き込んだ張本人は、キールと違って全く気にした様子はなかった。むしろ清々した、と言わんばかりの顔だ。どうやら極度のアジェンド人嫌いは治っていないらしい。
周囲が立ち昇る煙に気をとられているうちに、さっさとエリティアを抱き上げる。もしさっきの現場を見られていたとしても、シャンの動きを追えた者はいないだろう。彼らの目には、突然エリティアがくずおれたように見えたはずだ。
本当はこんなことしたくない。いくら必要に迫られたからといって、拉致紛いのことをするのは気が引けた。
「ああ、行こう。時間がない」
煮え切らない思いを殺し、エリティアを抱いたキールは、シャンを伴い人混みに消えた。