第二十二話 訪問者
関所もどきをくぐり抜けた先は思っていたより活気があった。
大通りはなかなか広さで、その様を見て『さみしい』と感じないところ、人口は少なくはない。店も品薄ではなく、むしろシアより充実しているかもしれなかった。
そんなことを考えていると、ちょこちょこと歩いていたリロがエリティアを見上げて言った。
「見た目はアレだけど、中は賑やかなんだね」
どうやら同じことを考えていたらしい。エリティアは微笑んだ。
「そうね。シアより賑やかだわ。壊滅した街ばかり見ていたから、なんだか新鮮」
「うん! みんな明るい顔してる」
にこにこと満面の笑みを浮かべるリロは、本当に嬉しそうだった。
ここ数日ずっと塞ぎ込んでいたので、楽しんでいる姿を見ると少し安心する。何を悩んでいたのかは知らないが、吹っ切れたのか今日のリロは清々しい顔をしていた。
「あんまりはしゃいで、はぐれるなよ」
ベルの言葉に「うん!」と元気に頷いて、リロは相変わらずはしゃいでいる。
やれやれと苦笑いを浮かべるベルを一瞥し、エリティアは小さくため息をついた。
あの数日の間に兄妹の間で何があったかは知らない。エストレジャも何も教えてはくれなかった。しかし絶対なにかがあったのだ、と確信していた。
そうでなければ、こんな隔たりが二人の間にあるはずがない。
普通に話しているようで、どこか余所余所しい。出会った当初のような、お互いを信頼しきった空気ではないのだ。
そして不思議なことに、その空気を生み出しているのが、リロではなくベルなのである。
――あの妹思いの兄が、何故?
いくら考えても、エリティアには解らない。ならば考えるのは止めようと決めた。
二人が元に戻るのが早くなるように、願うだけでいい。余計な手出しは事態の悪化を招きかねない。
エリティアは心底自分の非力を呪いながら、そう決心した。
「わっ!?」
「危ねえぞ、小僧、気ィ付けろ!」
ざわめきの中、捉えたひとつの会話。何気なしにそちらに目を向けると、アジェンド人の少年が大柄の男に頭を下げていた。
少年は腰まで届きそうなボサボサの金髪を、まとめもせずにそのまま垂らしている。長い前髪で顔は見えないが、顎のラインはすっとしていて、前髪をあげればきっと美男なのだろうと思う。だが、着ている服は質素で、色使いも適当だ。自分の見た目に頓着しない質のようだった。
対する男はかなり厳つかった。丸太のような腕に、岩のようにごつい拳。短く刈られた金髪に縁取られた顔は、興奮しているせいか赤らんでいた。
どうやら少年がよそ見をしていて、男にぶつかってしまったようだ。やがて男は憤然としつつもそのまま去っていった。
――もしアレがロヴェル人だったら。
エリティアは考える。あの程度では済まなかっただろう。殴られて蹴られて、散々詰られてから、路上に置き去りにされるに違いない。
隣を歩くベルを見る。
ベルもリロも、日除け用の布であるサージャを頭に巻き、ロヴェル人特有の黒髪を隠していた。貧困なロヴェル人に、サージャを買う余裕はない。なので、サージャを巻いている者はアジェンド人だとほとんどのひとは解釈する。
だからバレてはいないけれど、もし何かの拍子に彼らがロヴェル人だと気づかれてしまったら、どうなるだろう。
――護らなければ。
理不尽に苦しめられるこの兄妹を、護らなければならない。
何故だとか、そんなのは思い浮かばなかった。ただ、この兄妹を失ってはならないという気持ちだけが、エリティアの胸に強く残った。
…OUT…
世の中から理不尽がなくなることはないでしょうね。
解っているわ。そうでしょう?
みんなが平等なんて、あり得ないのよ。
夢の、そのまた夢。
現実にそれが達成されることなんて、ないんだわ。
でも、誰かが願い、努力することで、ひとつくらい理不尽が減ったら。それで救われるひとが増えたら。
私はそう願うわ。
…IN…
気がついたのは、ベルだった。
エリティアは見せ棚に並べられたみずみずしい果実を眺めていた。地方で採れたというそれは、色つや共に申し分ない出来だ。手に取ってみてごらん、という店主に従い、両手で林檎を持ち上げる。
――リロちゃんに買ってあげたら、喜ぶかしら。
病に伏せるリロに、ベルが林檎を土産にしていたのを思いだし、エリティアは口元に笑みを浮かべた。
あの子には笑っていてほしい。食べ物で釣るのは安直すぎるのでは、とは思い付かなかった。
買おう、と顔をあげたエリティアの横に、音もなくベルが並んだ。「ん?」と訝るエリティアの耳にベルの囁きが届く。
「俺から離れないで下さい」
肌にピリッとしたものが走る。手を伸ばせば触れられる程近くにある身体が、緊張しているのが解った。
店主に林檎の代金を渡し、エリティアは静かに立ち上がった。首筋に濁ったような違和感を感じる。エリティアはそれの正体を知っていた。
これは視線だ。
後ろを振り返らないようにして、歩き出す。すぐにベルが隣に並ぶ。リロはさっきまでのようにはしゃぎ回っている様に見えるが、その実、一定の距離を保っていた。
「……いつから?」
言葉少なの問いかけだったが、ベルはちゃんと意味を汲み取ってくれた。
「俺が気づいたのは、エリティアさんが青物店に行く少し前です」
「場所は解ってる?」
「いいえ。上手い尾行です。姿を現さない。ちらりとも見えませんから、プロと考えるべきでしょう」
ベルの横顔は緊張している。何しろ、尾行される心当たりがないのだ。ヨハンナの組織やジヴァールたち役人なら、人目を忍んで行動したりしないはず。かといってただの物取りにしては、尾行の腕が良すぎる。詰まるところ、相手の正体について皆目見当がつかないのである。
ひとは未知なるものを恐れる。それはベルとて例外ではないだろう。
エリティアはベルの緊張した面差しを一瞥し、足を引っ張らないようにしなくては、と気を引き締めた。
その後、露店で軽く昼食を済ませ、エリティアたちはすぐ宿に向かった。
暗くなってからの移動は危険だからと、ベルが提案したのだ。エリティアも同意見だったので、すぐに手近な宿屋に入った。
受付や説明を聞くのはすべてエリティアが請け負った。ベルとリロの髪の色や瞳を、近くで見られるのを避けるためだ。ロヴェル人だとバレた場合、宿泊を断られる可能性が高い。それは困る。
首尾よく二つ部屋をとり、ベルと別れ案内された部屋に入ると、エリティアは荷物をベットに放った。外套を脱ぎ捨てる。歩き続けで疲れた身体を解すように、伸びをしたところで、戸口にリロがぽかんと立ち尽くしているのに気がついた。
「どうしたの?」
「……すごい」
「え」
「広い。すごい、きれいだ」
最初は何のことを言っているのか解らなかった。しかしリロの視線を追っているうちに、部屋のことをいっているのだと気づく。
そうか、とエリティアは納得した。リロは今までアジェンド人が泊まるような正規の宿舎に入ったことはなかったのだろう。彼女にとって、宿と言えば、今にも崩れそうな廃屋に近いところだったに違いない。
ここはアジェンド人にとって安い宿だ。懐が寒い旅人が、仕方なしに泊まるような場所である。しかしロヴェル人にとっては夢のような場所なのだろう。
エリティアは複雑な気持ちになりながらも、ちょいちょいと手招きをした。
気がついたリロがちょこちょこと歩み寄ってくる。その小さな身体を抱き上げ、エリティアは微笑んだ。
「今日はここに泊まるのよ」
「――うん!」
黒髪に縁取られた笑顔が、眩しかった。
隣の部屋に来客があったと知るのは、それから間もなくのことだった。
エリティアと別れて与えられた部屋に入ったベルは、すぐに頭に巻いていたサージャを外した。
男にしては長めの黒髪が動きにあわせてさらりと揺れる。犬のようにぶんぶんと頭を振り、ベルはふぅと息をついた。
ギンドールはシアと違って、ロヴェル人にとって居づらい街のようだ。今日街中を見てきたが、ロヴェル人は一度も見かけなかった。
この要塞の中は、アジェンド人の楽園みたいなものだろう。
サージャを纏わずに外へ出たらどんな目に遭うか、ベルには鮮明に想像できた。旅を続けるにあたって、何度もそういった扱いを受けてきた。リロを庇うのに必死で、痛みや苦悩はあまり感じていなかったけれど。
ベルは二つあるベッドのうちひとつに腰かけると、上着の下に隠してあったダガーを抜く。白銀の刀身は、数多の戦闘を経たにも関わらず、買った当初と何ら変わらない美しさを誇っていた。刃こぼれもない。切れ味も、きっと変わっていないだろう。
必要ないと思いながらも、刀身を手入れ用の布で丁寧に拭く。昔からの癖で、武器の手入れをしていると、自然と心が落ち着いた。
いつも共に寝泊まりしていたリロは、ここにはいない。女は女同士で、ね。語尾にハートマークが付きそうな勢いでそう言ったエリティアと妹は隣の部屋だ。今ごろ部屋の豪華さに、はしゃぎ回っているだろう。エリティアではなく主にリロが。
――ちょっと遠出してみないかい?
突然灯った火のように、ベルの耳に出掛け際のエストレジャの言葉が甦る。
ベルはエストレジャの真意を図りかねていた。蜘蛛のようなあの男が、何の意味もなしに自分たちをこんな要塞に送り込むとは考えられない。なにか行動を求められているのか、はたまた送り込むこと自体に意味があるのか。
しかしエストレジャは、雲のようにその意図を掴ませない。たとえ崖っぷちまで追い詰めようと、彼はいつものようにくすくすと笑いながら、煙のように消え失せてしまうだろう。
――何をさせようとしているんだ?
彼が何を求めているのか、解らない。
時計屋の主が、ただ者ではないことは、会ったときから解っていた。彼の纏う独特の空気。どこか自分に似た色の気配。リュンヌや自分の攻撃を、あっさりといなす技量。味方なら心強いが、敵ならこれほど厄介な者もいないだろう。
ダガーの柄を握りしめる。チャキ……と硬質な音が響いた。
エリティアはエストレジャに信頼をおいているようだし、リロも彼によく懐いていた。匿ってくれただけでなく、服を用意してくれたり、エストレジャの親切心は底をつかない。しかしベルはどうしても彼が敵にまわったら、という懸念が捨てきれなかったのである。
と、その時、扉が二回ノックされた。
ベルは脇にダガーを置くと、素早くサージャを頭に巻いた。来た相手がエリティアたちだったとしても、扉の隙間から他の宿泊客に姿を見られないとは限らない。気を付けておいて損はないだろう。
ダガーを服の下に仕舞い、扉の前に立った。
「どちら様ですか?」
そっと声をかけると、まだ若い、男の声が返ってきた。
「君の前にこの部屋に泊まっていた客なんだけど、部屋に忘れ物をしてしまったみたいなんだ。中に入って探したいんだけど……」
ベルは部屋を振り返って、見回す。自分の荷物はひとつにまとめてベットの上に置いてある。見られてまずいものはないだろう。
「いいですよ」
ベルは簡潔にそう言うと、扉を開けた。
礼を言いながら入ってきたのは、金髪の男だった。癖のある髪が顔にかかって邪魔そうだ。簡素だが仕立てのよい服を着ている。普通のアジェンド人の青年のようだ。
青年は部屋に入るとベルの荷物がおかれた方のベットへ向かった。軽く眺めると、枕元をごそごそと調べ始める。
彼は顔をあげないまま、ベルに話しかけてきた。
「君は一人で?」
「いいえ、連れが二人ほど。隣の部屋にいますよ」
どっちの、とは言わなかった。ベルの部屋は真ん中あたりに位置し、左右とも宿泊室に挟まれている。エリティアたちの泊まる部屋は、右の部屋だ。
そんなささやかなことには気づかなかったようで、青年は言葉を続ける。
「へえ、連れがいるのに、どうしてわざわざ二人部屋に一人で泊まっているんだい?」
「女性と相部屋は、まずいでしょう」
「ああ、そういうことか。この街には何をしに来たんだい?」
どうやら枕元にはなかったようで、青年は床に手をつき、ベットの下を覗きこみ始めた。
「旅の途中で寄っただけです。近くに街があるのに、野宿をするのは嫌ですからね」
「旅か! いいね、私も暇ができたらしたいと思っているんだよ」
青年は一度ベルを振り返ると、にっこりと笑った。屈託のない笑み。
「でも、大変じゃないかい? 君が旅をするというのは。特にこの国の中では、ね」
ピシリ、と空気が凍りついた。
青年は笑みを絶やさない。くすっと笑うと、部屋の中を歩き回り始める。
「部屋の中で日除け用のサージャをはずさないのは、不自然だ。それに、この宿は満員なのに、君は二人部屋を一人で占領している。さっき受付で旅人が宿泊を断られていたよ。相部屋でもいいから、というお客さんがね。君は受付に二人分のお金を渡したんだろう? 誰も自分の部屋に来させないように。儲けが変わらなければ、受付も文句を言わないからね。そこまでして他人を近づけたくない理由……それがあるはずだ」
青年はベルを振り返り、すっと目を細めた。
「君、ロヴェル人だろう?」
刹那のあと、ベルの手が無造作にサージャを掴み、頭から外した。ロヴェル人の徴である黒髪がさらけ出される。
ヒューと音のない口笛を吹いた青年を、挑戦するような鋭い光を宿した紫苑の瞳が睨みつけた。
「……だったらどうします?」
「別にどうもしないさ。そんな目で睨まないでおくれ。私は君と話がしたいだけだよ」
「忘れ物はいいんですか。探さなくても?」
青年はふふっと笑うと肩を竦める。どことなく気品の漂う動作。もしかしたら、彼は貴族、または裕福な家の嫡子か何かかもしれない。
「いいんだ。忘れ物っていうのは部屋に入るための口実だから。ここギンドールには、普通ロヴェル人は来ないんだよ。アジェンド人ばかりだからね。わざわざ迫害されるために来るひとなんていない。だから君に興味をもった。何故こんな危険地帯に来たのかなってね」
挑発するような、それでいて観察するような目で、青年はベルを見た。
青年を動かしているのは、どうやら純粋に好奇心のようだ。ベルを見る瞳に、蔑むような色は認められない。
珍しい、と思った。
普通、アジェンド人はロヴェル人を迫害する。理由などない。アジェンドは勝ち組で、ロヴェルは負け組だという思想は、今や赤子にさえ浸透している。そしてそれは、身分が高くなるにつれ、より顕著になるのだ。
青年は見たところ、貴族かそれに連なる身分の者だろう。ロヴェル人が目の前にいるだけで、不敬だと剣を抜きかねない反応をしたとして、不思議はない。にも関わらず、彼はにこにこと屈託なく笑い、あまつさえ直接話しかけてくるのだ。
エリティア以外にも、こんなひとがいるのか。
吃驚したような、そんな感情は、違う言葉になって口を出た。
「部屋に入るための口実ですか。では貴方は俺がロヴェル人だと知った上でここに来たと?」
「そうだよ。どうしても理由が知りたくてね。さっき言ったのはその場しのぎだろう? 宿が目的で狼の群れに飛び込む真似はしないだろうから。ここに来た本当の理由を教えてくれるかい?」
青年は相変わらずにこにこと微笑んでいる。
不意に、とん、と青年が靴を鳴らした。靴に違和感があったのか、しゃがみこみ軽く靴紐をいじると、すぐに立ち上がりベルに向き直る。
ベルはその視線を受け、身体の力を抜くと首を横に振った。
「生憎俺にも解らないんですよ」
青年が、虚を突かれたように目を瞬いた。
「解らない?」
「ええ」
「ここに来た理由だよ?」
「むしろ、俺が訊きたいくらいですね」
「誰かの指示で来たのかい?」
「まあ、そんなところです」
青年は、信じられない、と言いたげな顔でベルを見つめた。
自らの意思ではなく、誰かに命じられて危険地帯に足を踏み入れるなど、彼には考えられないことなのだろう。「脅されて仕方なく」や「忠誠を誓った主に命ぜられて」ならともかく、ベルは「ちょっと頼まれたものですから」と言わんばかりの軽さなのだ。青年が「ちょっと大根買ってきて」と言ったら、「いいですよ」と同じ調子で答えるだろう。
青年の胸には、ベルに対する吃驚だけでなく、もうひとつ別のものが沸き上がってきていた。
それをひた隠し、青年は再び笑みを浮かべる。
「君は……面白いね」
「光栄です」
「皮肉ではないよ。君みたいな"掴めないひと"には久しく会っていなかったから、つい嬉しくなってしまったのさ」
肩を竦めた青年に、ベルもふと微笑む。
青年は「さて」と仕切り直すように声を発した。
「長居をしてしまったね、済まない。私はもう退散するとしよう」
ベルは無言で青年を見返した。ベルの立ち位置は出入り口の前。他に外部へ出る道は窓しかないが、宿屋は二階建てで、この部屋は二階にある。飛び降りれない高さではないが、進んでやりたいと思う高さでもない。
ベルが退かない限り青年は部屋から出ることは叶わない。それに気がついているのだろう、青年は穏やかに口を開く。
「そんな怖い顔をしなくても、私は君のことについて言いふらすつもりはないし、これをネタに揺するつもりもないよ。ただ君と話したかっただけだって言ったろう?」
ベルはしばらく黙って青年を見つめていたが、小さく息を吐くと、すっと身体をずらし、道を開けた。
「ありがとう」
青年は礼を言うと部屋を横切り扉を開けた。必要最低限の隙間しか開けないのは、廊下からベルの姿が見られないようにという配慮だろう。
青年が出ていく前に、ベルは彼を呼び止めた。
「なんだい?」
「もう一人にもよろしくお伝えください」
青年は一瞬目を瞠ったが、すぐに微笑んだ。
「確かに、伝えるよ」
面白い。キールは堪えきれないようにくすくすと笑声を洩らした。
あそこまでのらりくらりと質問を躱されたのは久しぶりだ。なかなか骨のある青年だったな。
キールはすぐに階段を駆け降り、廊下の一番端にある部屋に向かった。ノックもせずに扉を開ける。その部屋には彼の知己以外はいない。ノックも遠慮も要らないのだ。
部屋に入ると早速横から声がかかった。
「キールさん、あんた、死ぬ気かよ?」
不機嫌を丸出しにしてベットに腰かけていたのは、一人の少年だった。目鼻立ちの整った彼は、女装すれば化粧抜きで女に見間違えられるだろう。だが、今は可愛らしい容貌に似合わぬ、険しい表情を浮かべている。緑色の瞳が、怒りできらきらと光っていた。
「そう怒らないでおくれ、シャン」
「これで怒るなってほうが無茶だ! 下手すりゃ殺されていたかもしれないんだぞ!」
「そういえば、彼が君によろしく伝えてくれって言っていたよ」
「話を逸らすなッ!」
小さな口をくわりと開けて、シャンが吠えた。
「あの男、キールさんの逃げ道を塞いでいただけじゃない。廊下にいた俺にまで気づいていやがった。殺気だして牽制までしてきたんだ! ただ者じゃない、なのに、なんで席を外せなんて指示だしたんだよ?」
今にも噛みつきかねない勢いのシャンに、キールは肩を竦めて見せる。
「でも君は、私が靴を鳴らしたあともしばらく廊下にいたじゃないか」
「当たり前だ! あんたが標的と会ってるときに側を離れたら、護衛の意味がないだろが!」
「でもシャンが廊下にいたままじゃ、彼は話してくれなかっただろうね」
「うぐ……、そ、そうかもしんないけど……!」
「けど? けど、なんだい?」
微笑みながら問いかければ、シャンは顔をしかめ、プイッとそっぽを向いた。
「あんたを護れなかったら、姉さんに何言われっか解ったもんじゃないんだよ。解るか? 同じ顔がさんざん自分を罵倒してくんだ。めっちゃ怖いんだからな」
「ああ……」
キールはシャンの双子の姉、キューリーの顔を思い浮かべた。
キューリーは普段は温厚だが、唯一弟の失敗には厳しい。同じ顔の姉に怒られるというのは、なかなか恐怖を誘うことであるようだ。
キールはふふ、と笑うと、ふて腐れたシャンの頭を撫でた。黒髪がくしゃりと乱れる。
「ごめんよ、シャン。もしかしたら、君と友達になってくれるかもって思ったんだ。同じロヴェル人として、仲良くしてくれるんじゃないかってね」
不意にシャンの顔が泣きそうに歪んだように見えた。しかしそれは本当に一瞬のことで、キールは見間違えかもしれないと思った。
「俺に友達はいらない。姉さんとキールさん、サロワさんにアードがいれば、俺は他になんもいらない」
「シャン……」
「で、どうすんのさ。あの男の話を聞いたのはキールさんだけなんだよ。招待すんの?」
シャンが無理やり話題を変えたのは解っていたが、キールはあえてそれに乗った。
「うーん、腕はたつみたいだし、そうしたいところなんだけど……」
「何か気になることでもあんの?」
「うん。実は彼、誰かの指示でギンドールに来たらしいんだ」
「誰かの指示? 命令されてってこと?」
「そうみたいだよ。でもそれにしてはあっさりしすぎてる気もするんだよね……」
うーん、と悩むキール。
シャンはそんな彼を心配そうに見つめた。
シャンの視線に気がついたキールが、くすりと笑う。
「そんな顔しないで。悪いようにはしないよ」
「……」
「彼には二人の連れがいる。君も見ただろう、アジェンド人の女性とロヴェル人の幼い少女を。あの子たちを悲しませるような結果にはしないつもりだから。ね?」
シャンはおもむろに頷く。
キールはその小さな頭を優しく撫でた。
いくらアジェンドに対して冷酷無比になれる少年でも、同胞であるロヴェル人にはそう感情を捨てきれないようだ。
アジェンド人で唯一の例外であるキールは、きゅっと口を引き結んだ。
――そう、この子たちのためにも。
失敗は許されないのだ。