第二十話 求めるモノ
昨夜未明、シアの街の半分が崩壊。幸い怪我人はなかったが、復興に時間がかかるだろうと、街の代表、ランディール・ド・ワイリアスは発表した。
ランディールは爆発の原因について、ロヴェルの反国集団である<夜明けの鐘>が関与している可能性もあるという方向で調査を進めるという。
エリティアは新聞を畳むと、ふう、と息をついた。
シアは今、混乱のさなかだ。一晩で街が半壊したうえ、それが自然災害ではなく人為的に引き起こされた可能性が高いと言われたのだから、住人にとっては悪夢である。犯人が街から出たという知らせもまだなのだから。
早く捕まえてくださいと役人に縋り付いている住人も一人や二人ではない。
――ま、犯人、役人なんだけどね。
しかも犯人を捜すべき武闘派役人でも主力の人物だ。きっと上層部があの手この手を使って揉み消すのだろう。
リュンヌもネジュも、店にはいない。街の復興に手を貸しているのだ。鉄工技師の二人は、きっと危険な建物の解体とか仮住まいの製作とかで、今頃大忙しになっているだろう。
ふとエリティアの目に新聞の文字が飛び込む。エリティアはわずかに目を細めた。
<夜明けの鐘>
通称<教会>。それについて、エリティアは一般並の事しか知らなかった。アジェンド人による侮蔑に耐え切れなくなったロヴェルの民が、それらに反抗するために結成した秘密結社。始めはささやかな反抗だったが、最近はテロ紛いのことまでしでかしているらしい。かなり過激だと騒がれているため、今回の容疑者として名前が上がってもおかしくはなかった。
――真実は全然違うんだけどね。
実際は<夜明けの鐘>など全く関係ない。たまたま強大な力を持った一役人が、たまたま勝手に暴走してくれた結果、たまたまこうなってしまったわけで、<夜明けの鐘>は今回のことに手を出すどころか掠りもしていないのだ。本当にいい迷惑である。
エリティアが名も知らぬ<夜明けの鐘>の頭領に同情していると、リビングのドアが開いてエストレジャが入って来た。
エストレジャはエリティアを見ると、軽く片手をあげた。
「やァ、お待たせ」
「遅いわ。新聞、二周も読んじゃったじゃない」
「ゴメン、ゴメン。ワタシも少々事後処理をネ」
エストレジャはエリティアの前に腰掛けた。どこから出したのか、アンティークティーカップに紅茶を注ぐ。
濃厚な香りが部屋に広がった。
とてもいい香り。しかしそれにもエリティアの心を解きほぐすことは出来なかった。
「エト、単刀直入に訊くわ。あなた一体何をしたの?」
片眼鏡の奥の瞳がひとつ瞬く。
エリティアはまっすぐ彼の目を見つめた。どんな微細な反応も見逃さない、というように。
「あなたは私に街の住人を避難させるように言ったわ。疑心暗鬼ながらも、あなたがどうしてもと言うから私はなんとか住人たちを街から出した。……大変だったんだからね! でもそのあとにあの大爆発。エト、あれが起こることを知っていたわね」
エストレジャはふと微笑むと、もうひとつのティーカップをテーブルに置く。優雅な手つきで紅茶を注ぎ、憮然とした表情のエリティアの前まで滑らせた。
「飲むでショ?」
「……戴くわ」
しかしエリティアは紅茶に手を伸ばさなかった。
これにはエストレジャのほうが驚いた。三度の飯より紅茶、と明言するほど紅茶を好む彼女が、目の前の紅茶に手を出さないのだ。余程気を張っているらしい。
エストレジャは先ほどより笑みを深くする。
「何をした……ねェ。エリティアはどこまで知りたいのカナ?」
「全てよ」
「却下!」
「何ですって!?」
色めき立ったエリティアはテーブルに乗り出す勢いで詰め寄るが、エストレジャは飄々と紅茶を口に運ぶ。
「知るべきコトと、知るべきではないコトは、ちゃんと分けないと。知らぬが仏ってコトもあるからネ」
「あなたね……! 私に片棒担がせておいて知らないほうがいいですって? あんまりふざけていると、私も怒るわよ」
エストレジャはくすくすと笑う。
「怒るって公言出来るうちは、エリティアは怒らない。まだ理性で周りを観察して、脅しをかけている範囲内ってコトだよ?」
「……! いい加減になさいよ……?」
「生憎ワタシはふざけてなどいないヨ。エリティアには悪いケド、これは知らないでいてくれないカナ」
切実な響きを持った声音に、エリティアは一瞬うっ、と引く。
しかし、すぐに彼を睨んだ。
「そのてには乗らないわ。あなたはそんなしおらしい性格していないもの」
「フム、通じないカ」
「……、あんたね……」
「済まない、と思っているヨ。ワタシもエリティアに隠しゴトは辛いのだヨ。ただ、今回はコトがコトでね。ワタシ自身、あまり余裕を持っているワケじゃないのサ」
ころっと態度を変えたエストレジャに、エリティアがすっと目を細める。
「余裕がない……? 今回の事件はこれで終わりじゃないってことなのね」
「何でそうなるカナ」
「あなたの回りくどい言い方はもう馴れているのよ。それで? あなたは何と敵対しているのかしら」
エストレジャは口をつぐんだ。
どうしても言う気はないらしい。こうなると彼は決して口を割らないだろう。付き合いの長いエリティアだからこそわかることだ。
かと言ってすんなり諦めるほどエリティアは素直ではなかった。
「ベル君やリュンヌは知っているの?」
「知らないヨ。だから二人に訊いても意味ない」
「……じゃあリロちゃんは?」
「彼女が知っていると思うノ?」
「……思わないわ」
「じゃあ訊かなーい」
手掛かりは断たれてしまった。もうエリティアに調べる術はない。
くすくすと笑うエストレジャをキッと睨みつけ、エリティアは乱暴に紅茶を啜った。
手入れされた扉は音をたてずにすっと開く。店の入口から外へ出たリロヴィーナは、静かに扉を閉めた。
洒落た飾りの施された扉には、珍しく『閉店』の札がかかっている。街が半壊した状態で時計のことを気にする者もいないだろうから、開けていても意味がないということらしい。その分、後日忙しくなるのだろう。
リロは修理やら何やらでごった返しになっている路を歩く。騒々しい空気がリロの思考をうまい具合に妨害してくれた。
風が吹き、リロの黒髪をふわりと舞いあげた。砂塵と灰燼の臭いを含んだそれは、リロに不快感以外の何物も与えてはくれない。
「…………」
ふらふらと歩き回ったリロは、ある建物の前に立ち止まった。お洒落な飾りの施された壁にある、大きなショウウィンドウの奥には何もない。きっと扉の奥も、ただの空白があるだけだろう。
『猫の目』と書かれていたはず看板は、もうどこにもない。昨日中に全て撤去したのだと思う。さすが仕事が速い。
リロは静かにそれを見上げた。
「……、…………」
目を閉じる。一切の音を遮断する。溢れ乱れる思考に身を委ねた。
だから気がつかなかった。すぐ近くにあった気配に。
「――何してんだ、こんなとこで」
一気に音が戻ってくる。驚いて振り向いたリロに、首にかけたタオルで汗を拭きながらリュンヌはわずかに首を傾げた。
梯子の下にいるリロを引っ張りあげて、リュンヌは時計台のてっぺんに立った。
「ほらよ」
「……ありがとうございます」
律儀に頭を下げたリロは、長い黒髪をなびかせながら手摺りに手を置き、街を見下ろした。
仕事が一段落して、わずかな休憩をとろうと自宅へ向かっていたとしたリュンヌが、呉服屋の前に立っているリロを見つけたのは数分前のことだ。
放っておいても別に構わなかっただろう。近くにベルの気配もあったし、身の危険はまずなかったはずだ。
しかしリュンヌはその横顔を見た瞬間、彼女に声をかけていた。放っておいてはならないと、そう思った。
リュンヌはひたすら街を眺める後輩より小さい背中に問う。
「何でこんなとこに来たかったんだ?」
リロは振り返らずに答えた。
「……ネジュ君がね、初めて会ったとき此処にいたの。すごく気持ち良さそうにしてて……」
思い出すように、リロは刹那目を閉じた。
「ネジュ君が観ていたものを観てみたかったの」
「ふーん」
リュンヌの気のない返事をよそに、リロは真っ青な空と壊滅した街を見つめる。
しばらくの沈黙を、二人は堪能した。リュンヌは連れてきた限りはちゃんと送り届けるまで責任を負うつもりだったし、リロは風景が観れればそれでよかった。
暇つぶしに懐から出した煙草を燻らせ始めたリュンヌは、沈黙を守る小さな背中に視線をやった。絹のような黒髪が風と踊っている。細く華奢な肩は、少し強張っているように見えた。
「案外溜め込むタイプなんだな」
「……え?」
リュンヌのつぶやきにリロが振り向く。低い位置にある翡翠の瞳は真ん丸に見開かれていた。
「おまえ、あのガキに反攻してからこっち、ずっと悩んでんだろ」
「なんで……」
「んなもん見てりゃ解る。俺が見たのはお前が出ていったところだけだが、あの後もなんかあったんだろ」
俯いたリロに、やっぱりな、とリュンヌは頷く。
それきり黙ったリュンヌを見て、リロは不思議そうに首を捻った。
「……訊かないんだ?」
「何をだ?」
「何があったのか。あたしが落ち込んでる理由とか」
「訊いて欲しいのか?」
リュンヌは逆に訊いた。
自分だったら、訊かれたくない。興味本意で踏み込むべきではないと、そう思うからこその問いだった。
沈黙が再び舞い降りる。リュンヌは吹かしていた煙草から顔をあげた。
リロが驚いたように目を瞠っていた。翡翠色の瞳がきょろっとしていて、眼窩からこぼれ落ちてしまいそうだ。それに逆に驚く。
「……何だよ、どうした?」
思わず後退ったリュンヌの耳に、ムカつくくらい無邪気なリロの声が届く。
「がさつな顔のわりに意外と繊細なんだね」
「……結構言うな、お前?」
ぴくぴくっとリュンヌの頬が引きつる。常に寄っている眉間のシワが、より深くなり、不機嫌さが三割増しになった。
その剣呑さに気がついているのか、いないのか。リロはくるりと背を向けると、再び街を見下ろす。
「お兄ちゃんは、あたしを助けてくれた」
風が吹き、リロの髪をふわりと巻き上げた。漆黒の河が波打つように流れる。黒が纏わり付かない横顔は、磁器のように白く、花のように儚かった。
「あたしはお兄ちゃんにひどいこと言っちゃったのに。お兄ちゃんを拒絶したのに」
リュンヌが吐き出す煙草の煙の向こう側で、リロの唇がぴくりと震えた。
「解ってる。お兄ちゃんはいつもあたしのことを考えてくれてることくらい。解ってる。だから、あたしは、お兄ちゃんの荷物にならないように、足手まといにならないように、頑張らなくちゃダメなの」
エリティアの手でケアされ、手荒れが治ってきた小さな掌をきゅっと握りしめ、リロは小さく、だがはっきりと言った。
しかし。
「……バカじゃねえの?」
決意のこもった言葉は、冷酷な一言に砕かれた。
「な……」
「荷物? 足手まとい? ハッ! お前、何にも解ってねえんだな」
目を瞠り、衝撃のあまりポカンとしているリロに、リュンヌは容赦なく言葉を浴びせる。
久方ぶりに、リュンヌは本気で苛立っていた。いつも苛立っているのとは、少し違う。どこかもどかしさにも似た、焦燥のようなものだった。
「あのガキがお前に何を求めているか、解らねえだろう?」
リュンヌは答えを待たない。
「解らねえよな。だから足手まといとか言えんだよ。相手を解ったつもりで、勝手に自己完結してんじゃねえ。アホらしい」
ふん、と鼻を鳴らし、リュンヌはずいぶんと短くなってしまった煙草をくわえた。
しばらく沈黙していたリロだが、時間が経つにつれ熟した林檎のようにみるみる頬が赤くなる。微妙にうるんだ瞳をキッと鋭くし、リュンヌを睨んできた。
「あなたなんかに、お兄ちゃんの何がわかるの?」
「解んねえよ、何も」
予想外の返答に、リロは詰まった。
リュンヌは彼女をちらりと一瞥する。
「解るわけねえだろう。まだ会って間もないんだぜ。じゃあ何だ? お前は会って数日で、そいつのことを全部理解できるっつーのか?」
「……で、できない、けど」
「だろ。全部理解すんのは無理だ。だが、解ることがまるでねえわけでもねえ」
灰になった煙草を、リュンヌは持っていた缶底にぐりぐりと擦り付け、息をつく。
「……お前は、解らねえ。俺はお前が不思議で仕方がねえ。なんで、他人にかけた言葉を、自分にかけられない? お前は知っているはずなのに、なんで、自分を選択肢に入れねえんだ。ただそれだけでいいっつーのに」
リュンヌはリロと同じ翡翠の瞳を、ほんの少し、伏せた。
瞳の裏に、宝石のように美しく、剣のように鋭い紫玉が映る。
「……あのガキにも、さっさと気ィついて欲しいもんだぜ」
「……?」
憮然とした顔のリロが、首をかしげる。
リュンヌは「なんでもねえ」と首を振った。
「あとはお前ら次第だ。お前らで解決しろ。俺たちには何も出来るこたぁねえんだから」
大きく風が吹く。
そのうちの一陣が、ふわりとリロの黒髪を舞いあげて行った。