幕間 動き出す歯車
シアから遠く離れた、ある場所。
それは暗い、薄暗い部屋の中。目をこらさなければ目の前にいる人の顔も認識出来ないような、薄気味の悪い闇。
そんな中に一人の人間が跪いていた。闇に溶け込むような藍色の髪は無造作に垂れ、彼の面影を隠している。
「申し訳ありません」
その声に反応したのは窓際に立った人物。背中を覆う絹糸のような黒髪がさらりと揺れた。
「予定通りに成功したのは魔術師の暴走のみ、被害は街が半壊した程度。死者はありません。通り魔のほうもうまく丸め込まれてしまったようです」
エドワールは額が床につくのではないかというくらい、深く頭を下げた。
「これは私の失態です。ジェフィも魔力の渦に巻き込まれ行方不明になりました。おそらく死んだと思われます。すべての責任は私に」
「止しなさい、エドワール」
穏やかな声がエドワールの言葉を止める。窓際に立った彼は穏やかな笑みをふわりと貼付けた。
エドワールの背筋にぞくりと戦慄が走る。エドワールはいったん上げた頭を再び下げた。
「君は頑張ってくれました。ララバイの娘はもとより殺すつもりはありませんでしたし、死者が出なくとも街が半壊したならば、あの邪魔な魔術師を危険因子とする理由としては十分です。君は本当によくやってくれましたよ。しかし……」
コツ……コツ……、と足音が響く。それが自分へ向かっていると気付き、エドワールは身を固くする。
男の手がエドワールの二の腕に触れる。途端に走った灼熱の痛みにエドワールは短く息を吸った。
「ああ、痛そうに……。隠れていた君に気がついただけでなく怪我までさせるなんて、かなりの手練れですね。一体どこの誰です? 非常に興味があります。調べはついていますね?」
「は……、いえ、それが」
男が眉を寄せた。
「ついていないのですか? 本当に君らしくありませんね」
「も、申し訳ありません。調べたのですが……。なかなか尻尾が掴めず……」
「君に尻尾を掴ませないですか。それはそれは……予想以上の手練れのようですね? 容姿は覚えていますか?」
「はい。長い三編みを腰まで垂らし、右目に片眼鏡をはめたアジェンド人の男です。おそらくあの右目は義眼だと……、ゲルト様?」
言葉の途中で顔を手で覆った男、ゲルトにエドワールは言葉を切る。心配そうに眉根を寄せたエドワールはゲルトの肩が細かく揺れていることに気がついた。
「……まさかとは思いますが、その男、右腕が義手ではありませんでしたか?」
「は、はい。生身となんら変わらない動きをしていましたが、おそらく」
「やはり……」
そう言うとゲルトは立ち上がり、エドワールに背を向ける。その口角が吊り上がっているのを、目ざといエドワールは見逃さなかった。「ゲルト様?」と問いかけると、彼は振り返って、微笑った。
楽しそうに笑うゲルトは、まるでお菓子についているおまけが予想以上に良いものだった、みたいな、そんな顔をしていた。
「とんだ伏兵が隠れていたものです。……ああ、彼は私を未だ憎んでいるでしょうか? 未だ自慢の糸を張り巡らし、殺めんがために私を捜しているでしょうか? 彼との邂逅が愉しみです。彼は私の享楽にどのような花を添えてくれるのでしょうね……」
くすくすくす。
ゲルトは懐かしむように目を細め、楽しそうに、愉しそうに笑っていた。