第二話 兄妹
こっそりと部屋を抜け出した兄は、再び大通りに来ていた。
アジェンドは日が長いため、日よけにサージャと呼ばれる長布で顔を隠す人が多い。兄もそれを利用し、エリティアに貰った漆黒の長布で顔を隠しているのでロヴェル人だとはばれていない。
アジェンド人に溢れている道を縫って歩く兄を振り返るひとはいなかった。兄はそれが当たり前のように前だけを見て歩く。
この街に"奴ら"はまだ来ていない。だが、"奴ら"は必ず自分たち兄妹を追ってこの街に来るはずだ。
なんとかその前に旅仕度を整えなければならない。エリティアには悪いが、リロの体調がある程度快復した今、あの家に長居する理由はないのである。
水、日持ちする食糧、リロのために薄いが毛布も買う。服などは一切買わずその店を出て、次に兄が向かったのは武器店だった。
「……いらっしゃい」
古びた木の扉を開くと、しゃがれた声が迎えてくれた。店の奥に目を向けると、小柄な老人が厳つい武器に埋もれるように座っている。
閉じられた瞼がわずかに持ち上がり、白濁色の瞳が覗く。ガラス玉のような眼に、漆黒に身を包んだ兄が映った。
「これは……珍しいお客様じゃ………。今までにここに来た客は……何かしら訳ありじゃったが……、ぬしほど……大変な境遇にある者は……初めてやもしれぬ……」
兄はすっと紫玉の瞳を細めると、武器だらけの店内を横切り、老人の前に立った。必然的に兄が老人を見下ろす形になる。
「あなたがここの店主か」
「そうじゃ……」
「何を訊かずに黙って武器を売ってほしい。その盲た眼に私の姿は映らないでしょう」
すると、老人は静かに肩を揺らした。
笑い止む前に、白濁色の瞳を見開き兄の顔を凝視する。見えていないはずなのに、老人の眼はしっかり兄の顔に焦点を定めていた。
「ぬしの言うように………わしの眼には、もう……現世のものは映らぬよ。……されど……映らぬものを映すことは……出来る………」
言っている意味がよく解らず、兄はサージャから覗く切れ長の瞳を訝しげに歪める。
老人は続けた。
「名を……教えてくれるかの………?」
「店主、私は言ったはずだ。何も訊かないでくれと」
「………名くらい……良かろう………わしの名は、エゼキエルじゃよ……」
兄は一瞬迷うように瞬きをしたが、相手が名乗ったのだ、答えなければ礼儀に反するとでも思ったのだろう。ゆっくりと口を開いた。
「……私はベル。もういいでしょう。このダガーと矢を売っていただきたい」
エゼキエルはそっと目を伏せた。白濁色の眼が瞼の奥に引っ込む。
辛抱強く返事を待っていたベルは、次にエゼキエルが発した言葉に思わず瞠目した。
「……真の名では………ないのぅ……?」
ヒュッ、と。
風を切る音が店内に響く。
エゼキエルは銀色に輝く刃を愛おしそうに眼球に映した。
「………綺麗じゃろう……わしが……心を込めてこしらえた……短剣じゃ………。人間の首くらい……簡単に切り落とせようぞ……?」
ベルはエゼキエルが自分の首にタガーが突き付けられていると認識した上で言っているのだと、理解していた。
エゼキエルが言葉を紡いだ瞬間、ベルは飛来する矢に劣らぬスピードでダガーを鞘から抜き放ち、老人の首に突き付けたのである。
余計な詮索はするな、と脅しのつもりでやったのだが、エゼキエルは全く堪えた様子はない。それどころか、余裕の笑みを浮かべベルに話し掛けてくる。
「………殺すかの、わしを……? それも一興………自らの生み出した武器で……己のが命を絶たれる………滑稽じゃのぅ……」
ベルは刃を引かないままエゼキエルの前に金貨を数枚置いた。
「これはいただいていきます。私は私の邪魔をするものを迷わず排除します。それだけはお忘れなく」
ダガーを引くと鞘にしまい、上衣の内側に隠す。束になった矢を持っていた麻の袋に入れたベルは、踵を返し扉に手をかけた。
「殺すのかい……? その武器で……」
ベルの動きが止まる。長居は無用だと解っているはずなのに、ベルはどうしても動けなかった。エゼキエルの言葉が呪文のようにベルの足を床に縫い止める。
エゼキエルはそれに気づいているが故に言い放った。
「……たった一人の………肉親を」
パッと朱が弾け、エゼキエルの周りの武器に斑模様を描く。
紅を切っ先に絡ませたベルは、ダガーを軽く振って刀身に付いた血を払った。
「俺の家族はあの子ただ一人だ」
「わしは……肉親と言うたのじゃよ………。義妹は……家族でも……肉親ではなかろう………?」
頬を浅く切り裂かれてもエゼキエルは態度を変えなかった。それどころか、ベルしか知り得ないことまで言い当てる。
なにかを考えるように眉間にシワを寄せていたベルは、ふとある可能性に思い至り、目を見開いた。
「まさか、貴方はララバイの生き残りか……?」
疑問系で言葉に乗せたその可能性に、エゼキエルは意味ありげな笑みを浮かべる。
ベルはそれを肯定だと判断した。
…OUT…
難しいかしら。解りにくいわよね。
じゃあ、少し補強をしましょうか。
…IN…
百年前のことだ。
まだ、アジェンドもロヴェルもなかった時のこと。
そこには大国フィラが栄えていた。
フィラ王は優秀なひとで、彼が治める国は必然的に安定していた。
ある時、フィラ王は病に倒れた。当時は決して助からぬ不治の病と呼ばれた病にかかってしまったと知った王は、一抹の不安を覚えた。
死を恐れたわけではない。彼が心配だったのは後継ぎのことだった。
王には一人の息子がいた。
あくまで一人なので継承者争いにはならないだろう。しかし王子は、政は素人に等しく、人を動かすに至っては素人以下だった。
やがて王は身罷り、王子は国王となった。
当初王子は父を模したまともな政を行っていた。
しかし、今まで王のもとで本性を隠していた宰相がこんな好機を見逃すはずもなかった。
一年とたたないうちに王子は宰相の傀儡となっていた。
国は荒れ、民は苦しんだ。税が上がり、払い切れない民は逃げ出す。徴兵令から逃れるために性別を偽る。年端もいかぬ子供を掠い、売り飛ばし、金をつくる。
いつの間にか、魑魅魍魎が跋扈する都になっていた。
ある時、一人の男が都に現れた。彼は名をダニエルと言い、一つの予言をした。
『近々、大雨が起こるであろう。早いうちに高い丘に避難するとよい。もし逃げなければこの国で重要な人物が死ぬだろう』
信じるものもいれば、信じないものもいた。ダニエルは決して避難を強制はしなかった。ただ、後悔するぞと言い残し、彼も丘へ上がった。
数日とたたぬうちに、予言通り大雨がきて、都は大洪水に見舞われた。どこもかしこも水浸し、家は流され、人も流された。
王子も予言を信じなかった一人だった。洪水は城まで及び、多大な被害を残していた。
それだけではない。
王子にとって右腕に等しかった宰相が死んだのだ。
王子は途方にくれ、最終的にダニエルを頼った。
ただ、ただ、助けを請う王子にダニエルは言い放った。
『我が一族を頼るのならば、それ相応の覚悟がいるぞ』
覚悟が何なのか。王子はろくに聞かずに承知してしまった。
それが災難へと繋がるとも知らずに。
……数年後。
激しい内乱が起きた。
数個の軍団に別れ、潰し合う。
内乱に巻き込まれ王子は死に、やがて後継ぎのいなかったフィラ国は滅びた。
それぞれの軍団のリーダーは、ダニエルの一族、ララバイ出身者だったという。
…OUT…
怖い話よね。自分で言っていて身震いしちゃったわ。文献に残っていたのはこれくらい。これ以上は解らないのですって。
さあ、続きよ。深く入っていきましょ。
私も混乱しないようにしなくちゃ。
…IN…
「………なんの……真似じゃね………?」
エゼキエルは静かな声で尋ねる。
その場に膝をつき深く頭を垂れたベルは、顔をあげないまま口を開いた。
「ララバイ五の柱であられるエゼキエル様でいらっしゃることを存じ上げなかったとはいえ、刃を向けるなどとんだご無礼を。この度の非礼、寛大なお心でお許しいただきたく存じます」
そのまま再び深く頭を垂れる。
そこにかなり不機嫌そうな声が降ってきた。
「止せ……この老いぼれに………そんな仰々しい態度は……合わぬ………」
どこかふて腐れたようなエゼキエルからは、さっきまでの近寄りがたい雰囲気は無くなっている。止せ、と言いながらそこまで嫌な気分ではないのだろう。
顔をあげたベルは、しかし膝をついたまま礼の形を崩そうとはしない。仕方がないと思ったのか、エゼキエルは立ち上がることまでは強制しなかった。
「一つ、お聞きしてよろしいでしょうか?」
さっきまでとは百八十度変わった口調で聞いてくるベルに、エゼキエルは目で続きを促した。
「何故このアジェンドの創始者であられるエゼキエル様がこのような武器店など営んでおられるのですか?」
ほんの一瞬、白濁の視線と紫苑の視線が交差する。わずかに目を伏せ、エゼキエルは口を開いた。
「わしは……今やただの老いぼれに過ぎぬ………百年前共に戦った………わしの同志たちも……十五年前のロヴェルとの戦で………狩られてしもうた………」
十五年前。アジェンドはロヴェルを一方的に取り込んだ訳ではなかった。戦を仕掛けてきたアジェンドを退けるために、戦巧者の揃っていたロヴェルは一つの策を実行した。
小数が多数を打ち破るために最も効率のよい方法。
それは相手の指揮官を潰すこと。
「……あの頃……アジェンドを指揮っておったのは………わしの息子じゃった……」
その時のことを思い出したのか、エゼキエルの顔が苦悩に歪む。
「………今でも夢に見る……敷き詰められた……純白の絨毯は………朱色に染め上げられ……至る所に倒れている仲間たち………そして、剣を……最後まで必死に抵抗した息子は………剣をその手に死んでおった………」
ベルは黙って話を聞いている。
と、突如エゼキエルの纏う空気ががらりと変わった。途切れがちだった言葉が、すらすらとその口から紡がれる。
「わしからも一つ問うぞ、若造。あの娘を、わしらの最後の子孫を守り抜けるか?」
さっきまでとはまるで違う威圧感にも、ベルは眉一つ動かさなかった。おそらくこれがエゼキエルの本来の姿なのだろう。さすがは国の創始者、アジェンドの初代国王である。
先程の記述からも解るように、ララバイの民は各々不思議な力を所有していた。ダニエルのような予知能力も然り、エゼキエルのような相手を見抜く能力も然り、そして……
「愚問です。私はリロヴィーナを実の妹だと思っていますし、あの子を護るのが私にできる唯一の罪滅ぼしですから」
「………そうか、よかった。あの娘は………良い兄を持った…………」
一辺の迷いもなく言い切ったベルに、満足そうに頷くエゼキエル。
その彼が急に激しく咳込み、ベルは慌てて駆け寄る。口を押さえた掌に見えた朱色に、ベルはハッと息を呑んだ。
それを認めたエゼキエルが自嘲するように笑う。
「………異能を持つ……我らとて、不死では………ない……。わしは……もう永くないのじゃ………」
「…………」
ベルはわずかに唇を動かしただけで、ほとんど表情も変わらない。しかしベルの顔色を横目で盗み見たエゼキエルはふと笑った。
「………わしがララバイの民じゃと……確信した瞬間……考えておったのじゃろう………? このひとに………リロヴィーナを引き取ってもらおう………と……」
エゼキエルは力無くうなだれる。さっきより数段老けたような印象を受けた。
「………済まぬのぅ……わしに………ぬしを助けて……やることは、出来ぬ………」
再び咳込むエゼキエルの痩せ細った身体を抱き上げ、武器に埋もれた部屋から奥の寝室らしき部屋へ運ぶ。質素なベッドに老体を横たえたベルは、今までとはまた違う声音でエゼキエルに話しかけた。
「私は私のためにあの娘を守り抜きます。これは完全に私の利己心、貴方がたが責任を感じる必要などない。………私は私です。それ以外の何者でもないのですから」
そのまま退室しようと扉へ向かう。
「………ぬ……」
ベルは足を止めた。振り返らないその背中に、掠れた声がぶつかる。
「……まぬ………済まぬ……済ま……ぬッ………」
うわ言のように謝り続けるエゼキエル。ベルはわずかに左足を引くが、数秒考えるように瞑目する。
目を開けたベルは、宛のない謝罪を背中に聞きながら部屋を後にした。