第十八話 かわいそう
ハルが口をつぐむと、その場に沈黙が下りた。それは重い重い沈黙で、深海にいるような錯覚さえしてしまいそうだった。
ハルは静かに言う。
「しばらくしてわたくしは家を出ましたわ。姉さんのなりたがっていた呉服屋になりたいと言うと、義父さんも義母さんも渋々だけど納得してくれました。もちろん、本当の理由は別にありましたわ。姉さんの仇を討つため……」
それからハルは政府の要人に近づき、情報を集めていったという。
「お偉いさん方をたらしこむのは簡単でしたわ。義父さん主催のパーティーには、そういうひとたちもいっぱい来ていましたから。政府の要人に近づいてわかったことは、あの事件は本当にテロではなく、政府の自作自演だということ。そしてその作戦を立てたのは、武闘派役人だとこと。ただ役人の名前まではわかりませんでしたの」
誰も身動きせずにハルの話を聞いている。
ハルはぎゅっと手をにぎりしめた。染み一つない真っ白な手が、力の入れすぎで震えている。
「だからあの頃武闘派役人として活躍していた者などのあやしい者たちを片っ端から殺していきましたわ。どういう訳か知りませんけれど、わたくし、殺しの才能があったみたいで少し訓練したらあっという間に簡単にひとを殺せるようになっていたんですの」
そう言うハルの瞳は昏く陰っていた。
おそらく彼女は怖かったのだろう。無造作にひとを殺せてしまうことが。軽く腕を振るだけで相手を傷つけられることが。
他人より強靭であることが、当人にとっていい影響を及ぼすとは限らない。時には恐怖を、またある時には寂しさに似たものを心に遺す。
ハルはたったひとり、その恐怖と共に二年間生きてきたのだ。
「わたくしがこの街に来たのは、ある時、シアにあのテロの実行犯の仲間たちがいるという情報を手に入れたからです。テロの実行犯は、いわゆる自爆テロだったので、あの時に死んだみたいでしたわ。わたくしはそれが我慢ならなかったのです。どうしても実行犯だけはわたくしのこの手で殺したかった……! だからその仲間たちで我慢することにしたのです……」
ガン!
大きな音がして、ハルを除く全員の視線がそちらに集まった。
壁に拳を叩きつけたリュンヌの目が刃のような険呑な光を宿していた。ギリッとリュンヌの奥歯が鳴る。叩きつけた拳からは薄く血が滲んでいた。彼の怒りに当てられ、空気がざわつく。
それを気配で感じ取ってか、ハルが俯き加減だった顔をあげた。視線がぶつかり、弾ける。
リュンヌは、彼女をまっすぐ睨み、吐き捨てるように言った。
「実行犯が死んじまっていねえから、その仲間で我慢するだ? ふざけんじゃねえよ! てめぇそれの意味がわかってんのか、ああ!?」
ハルは再び俯いただけで何も言わない。それが余計火に油を注いだ。
リュンヌは大股で通りを横切ると、ハルの胸倉を掴みあげた。リロが息を呑む。ベルがわずかに身を乗り出すが、エストレジャがそれを目で制した。
リュンヌは驚愕に染まるハルの瞳を至近距離で睨む。
「関係のねえ人間を殺した――てめぇが憎む政府と同じことをしたってことなんだぞ!」
「ちっ――」
ハルが大きく息を吸い込む。垂れ目がちの大きな瞳に、ちらりと別の光が奔った。
「違う! 役人は罪のないひとを、姉さんを殺した! わたしはその仇の役人を殺したの! 全然違うわ!」
「だからそれのどこが違うってんだよ! 最初はどうだか知らねえけどな、この街でてめぇが殺したのはあの事件とは全く関係ねえ、事件の真相すら知らねえ連中だ! 何の罪もない連中なんだよ!」
「そんなことなんであなたが言い切れるの!? 知っていたにきまってる! 実行犯の仲間だったのよ!?」
「あの事件に関して真相を知っていたやつは皆無だった! 俺だって知らされてなかったんだぞ」
その言葉にハルはぐっと口をつぐんだ。どうやらリュンヌが元政府関係者だということをすっかり失念していたらしい。リュンヌが憶測で話していないことがわかって、咄嗟に何も言えなくなってしまったのだ。
しかし彼女はリュンヌを睨むように見上げると、紅の唇を歪める。
「あなただけが知らなかった可能性だってあるわ」
「いーや、それはねえ。俺が知らなかったことを知っていたのは上層部だけだ」
ありえない、とリュンヌは言い切った。
ハルの掠れた声が、言葉を紡ぐ。
「……役人はみんな同罪ですわ」
リュンヌの瞳が大きく見開かれる。ふいっと目を逸らしたハルの胸倉を放すと、リュンヌは空を仰ぎ、大きくため息をついた。ポケットに手をつっこみ、彼女を見下ろす。
「じゃあ訊くぜ。郵便の配達員が上司に頼まれてある包みを届けて、それが殺人の道具だった。その道具で人が殺されたとして、その配達員に罪はあるか?」
「…………」
「その配達員の同僚たちに、罪はあんのかよ?」
ハルは答えない。
リュンヌも答えを待たなかった。
「俺はねえと思うぜ。例えが極端だが、同じじゃねえか。どっちも。両方とも何も知らされねえで利用された。まあ、役人も昔は軍人っつー名前で呼ばれてたくらいだ。おまえが殺した連中に罪を、ひとを殺していないやつはいねえだろう。やつらもいつ命を狙われても不思議はねえって思ってただろうしよ。それは俺も同じだが。だかな、あいつらを否定することだけは許さねえ」
「否定……」
ハルは小さくつぶやいた。ふるふると首を振る。それは掠れた弱々しい声だった。
リュンヌは一言一言噛み締めるように言った。
「俺たちが戦場でしたことは、たしかに今から見りゃただの人殺しだ。でも、あの時。血と鉄の臭いに塗れたあの地獄にゃ、そういう思想を持ったものはひとりもいやしなかった。戦争は正しい、ロヴェルは悪でアジェンドは正義だっつってよ。ありゃ一種の洗脳だな。とにかく、あいつらにはそれしか道はなかった。家族を、国を護るには、敵を殺すしかねえ。人間を殺すっきゃ道はなかった」
「…………」
「赦せとは言わねえ。怨んだって構わねえ。俺だって赦されようなんざ思っちゃいねえ。でも否定だけはするな。ただ利益のためにひとを殺したんじゃねえんだよ。てめぇの復讐は、地獄を必死こいて生き抜いた、あいつらの生き様を否定してんだ。それだけは赦せねえ」
しん……、と沈黙が降りた。
誰も口を開かなかった。誰も開けなかった。
いつもいらいらしていて、泣く子も黙る三白眼が、今や深い湖のように凪いでいる。彼のいう地獄がどれだけのものだったのか……。誰にも想像できなかった。
俯き、身体を震わせているハルを、不意にリュンヌが呼んだ。
「……復讐したいか?」
顔をあげ「え?」とつぶやいたハルに、リュンヌはもう一度言った。
「あの事件……、"テリーラの酒場事件"の犯人に、復讐したいのかって訊いてんだ」
ハルの瞳が揺れた。くずおれそうになる身体をぎゅっと抱きしめ、ハルは唇を噛み締めた。
揺れている自分に気がついていた。間違っていないと必死に心を強く保っても、どこかに復讐を否定している自分がいる。もうやめたいと嘆いても、どこかに憎悪を叫ぶ自分がいる。ハルは自分がわからなくなっていた。
その時、温かいなにかがハルの頬に優しく触れる。ハルは顔をあげると小さく目を瞠った。
「かわいそう……」
それはリロだった。ハルの前にしゃがみ込み、深い翡翠色の瞳を悲しげに曇らせている。
その傍らにネジュが歩み寄った。一瞬リュンヌの瞳に苛烈な光が奔ったが、それはすぐに消える。
わずかなくすみもない白磁のようなハルの頬に添えた右手を、リロは涙を拭うように動かした。
「……かわいそう?」
ハルが掠れた声で反芻する。リロは頷いた。
「ずっと、ずぅっと、泣きたいの堪えてたんでしょ?」
ゆっくりとした口調でリロは言った。
「本当は嫌なこと、しなくちゃいけないくらい寂しかったんでしょ? ずっと独りっきりで我慢していなくちゃいけなかったんだよね?」
それは問いではなく確認だった。ゆっくりと、ゆっくりと、リロは言葉を紡ぐ。
「……つらいときに大丈夫なふりして、ひとりで全部抱え込むのは、すごいことだよ。でもね、それじゃあもっと"痛く"なるだけなんだよ。"痛い"ときに痛いって言えないのは、悲しいことなの」
リロは長い睫毛に縁取られた瞳を覗きこむように、見つめた。
「お姉さん、今、"痛い"かおしてる」
ハルは何か言おうと口を開くが、吐息が漏れるばかりで声にならない。
そばで見ていたネジュが「……もう」と口を開いた。顔をあげたハルに、ネジュは諭すように言った。
「もう我慢しなくてもいいと思う。あんたは十分頑張ったと思うよ」
ハルは時が止まったように固まった。呼吸さえ止めているように見える。長い沈黙だった。短かったかもしれない。ハルが身じろぎをする。真珠が一滴、地面で弾けたのはその時だった。
ハルは泣いていた。静かに、ひそかに。唇を噛み締めて、眉根をきゅっと寄せて。大きな瞳からぽろぽろと宝石のような涙が零れ落ちる。
それを拭ってハルは掠れた声で言った。
「そう……わたし、我慢してたんだ……我慢しなくても、よかったんだ……」
頬を幾筋もの涙が伝う。
肩を震わせるハルに寄り添い、リロは静かに微笑んだ。
…OUT…
あなたはどうかしら?
他人を否定したりしている?
誰かの生き様を見下したりしていない?
よく思い出してごらんなさい。
意外と気付かぬうちに、してしまっている場合もあるわ。
あなたにはくだらなく見えても、そのひとにとっては大切なことだってあるのよ。
…IN…
ハルが肩を震わせるのを見たネジュは肩から力を抜く。よかった。すると軽いめまいと共に足元がふらついた。ずっと張っていた気が途切れたのだ。極度の緊張を切り抜けた疲れが一気に襲ってきたのである。
「うぉ……」
思わず漏らした声に反応したのは、言わずもがなリュンヌだった。くずおれかけた身体を片腕で支える。リュンヌはまだ警戒を解いていないのだろう。死線をくぐり抜けた腕は少し強張っていた。
「兄貴……」
「ちょ、ひどくね!? 俺今回めっちゃ頑張ったと思うんだよね! 自分で言うのも何だけど!!」
リュンヌはネジュの主張を鼻息一つで吹き飛ばす。
「ハッ! 勝手に巻き込まれといて何言ってやがる」
「勝手に……ッ! うん、そうだけど! 兄貴の言い付けに背いて勝手に外出て勝手に巻き込まれたけど!」
「そうだ、俺はおまえに部屋にいろっつったよなあ?」
「う……、でも、じっとしていられな」
「馬鹿野郎」
被せるように発せられた言葉に、ネジュは口をつぐんだ。
ぽん、とリュンヌの手が頭を軽く叩く。それは痛みどころか、むしろ労りすら感じる仕種で。
「……二度とこんな無茶やらかすんじゃねえぞ。いいな?」
ネジュの頭を押さえるように乗せられた大きな掌は、実際に触れていないとわからないくらい小さく震えている。発した声は低く――無理矢理絞り出したような声だった。
ネジュの耳に頭領の声が蘇る。
――リュンヌがどれだけ街中探し回ったと思ってる。
三日間工場に顔を出さず、家を空けただけなのに。放浪僻のある自分にしては短い期間だったのに。
ネジュは唇を噛んだ。
「……ごめん、なさい」
リュンヌの掌がくしゃっと頭を撫でた。もとからぼさぼさだった金髪がより乱れる。
「ごめんなさい……!」
囁くような声は、風に溶けて消えた。
そんなネジュの頭を不器用にぐりぐりと撫でるリュンヌに、エストレジャは小さく肩を竦める。
「素直に心配したって言えばいいのに」
「うるせえ。つかエト、後で全部説明しろよ」
「……何のことだい?」
「とぼけんな……、つか何ふて腐れてんだテメェ、キモいぞ」
「うるさいなあ、ワタシだって不機嫌になることはあるヨ」
眉間に寄ったシワをほぐし、エストレジャはため息をついた。
「どうも後手に回った感が否めないんだよネ。まだなにか見落としている気がするのサ」
「見落とす? 何をだ」
「それが解らない。ワタシも万能ではないからネ。相手の思考を完璧に読み取れるわけじゃない」
こいつなら出来そうだ、と半ば本気で思っていたことは内心に留め、リュンヌ表情を引き締める。
「その相手ってのはどこのどいつだ? あの女に暗示かけてた奴と同じと解釈して構わねえのか」
「それでいいヨ。実際同一だし。詳しいコトはまだ言えないけど、まあ……」
不意にエストレジャが言葉を濁した。
リュンヌは「む?」と眉を顰める。
「まあ、何だ?」
「……いずれ解るヨ」
エストレジャはそれだけ言うと、ぷいっと顔を逸らした。
かなり続きが気になったが、リュンヌは追究しなかった。どうせ訊いたところでまたはぐらかされるだけだ。
思わずため息をつきそうになって、しかし吐き出しかけた息は途中で止まった。
「――………」
ピン、と空気が張り詰めた。
ベルがさりげなく上着の下のダガーの柄に触れ、エストレジャも片眼鏡の奥の眼を鋭く走らせる。
リュンヌもどんな場合にも即座に反応できるように身体を力を入れた。それを肌で感じ取ったネジュが「兄貴?」と問うように見てくるが、リュンヌは視線だけで黙らせる。泣く子も黙る三白眼は健在だ。
しばらく不思議そうにしていたネジュも、ピアノ線を張ったような空気に気がついたようだった。小柄な身体がぴくっと震え、瞬時に強張る。
三人の卓越した戦士が警戒する中、リロとハルはそのままじっとしていた。ハルは今の自分が戦力にならないのを自覚していたし、リロは武器のない状態での参戦は無意味だと悟っていたからだ。しかし二人とも警戒を怠らずに身を固くしている。
ざあぁ……。
一陣の風が吹く。
ベルがダガーを抜き放った。
「……何故貴様がここにいる」
「ん〜……」
ベルの唸るような問いに答えたのは、どこか間の抜けた、のんびりとした声。
ぼろぼろになった服をかろうじて纏ったジヴァールは、疲れた様子で言った。
「ちょっと野暮用でね」
魔術で風を纏ったまま、ジヴァールはすでにぼさぼさになっている頭を掻いた。
「僕だって年がら年中君らを追い掛けてるわけじゃあないんだよ」
怪訝そうな顔をしているベルにそう言うと、彼はこっちの真意を探るかのように目を細めた。心なしか、ダガーを持つ手が上がっている気がする。余計警戒されてしまったらしい。
それも仕方ないか、とジヴァールは思う。自分はそれだけのことをこの兄妹にしてきたのだから。
ジヴァールとベルたちの距離は約五メートル。魔術師としては近すぎる距離だった。素人が相手ならともかく、今の相手はベルなのだ。その他二人ほどベルに負けずと劣らない実力者もいる。この程度の距離、魔術を発動する前に簡単に詰められてしまうだろう。発動前に斬り合いになったら、数で劣るジヴァールにまず勝ち目はない。
しかしジヴァールはあえてこの距離を選んだ。それがベルの警戒心をより煽っていることに気付きながらも、動かなかった。
ベルの眼が周囲に走る。
「……軍の気配がない。まさか一人か?」
「うん」
ジヴァールは不敵な笑みを浮かべる。
「野暮用だって言ったでしょ。僕も単独行動くらいするよ。群れてないと不安で仕方がないような連中とは違うしねえ」
ジヴァールは含みのある目線を一同に送る。
しかしあからさまな挑発に乗る者はいなかった。直ぐさま怒鳴り返すかと思われたリュンヌでさえ、沈黙を貫き通している。
ジヴァールは肩を竦めた。
「大人だねえ。ま、いいや。本題に入るとするよ」
警戒をあらわにしたベルたちの耳朶を、数段低くなったジヴァールの声が叩く。
「ハル・ティジェロを渡して貰おうか」