第十七話 bRakE hEr
先に説明しておくわ。十二年前、まだロヴェルとアジェンドの戦争が続いているときね、アジェンドでとある事件が起こったの。ごく普通の、農民から役人まで、みんなが利用していた酒場が、ある日突然爆破されたのよ。死者三十八人、負傷者多数のひどい事件だったわ。
政府は無差別テロだと発表して、犯人の特定に尽力を注いだらしいんだけど……今の今も犯人はわからず仕舞いなのですって。
…IN…
――ずっと一緒だよ。
幼き日の約束。
今でも時々思い出す。
姉さんはいつでも優しかった。
もともと器用だった姉さんは、かわいらしい洋服を仕立てては『ハルにあげる』と、笑いながら着せてくれた。いつかああなりたいと、姉さんから隠れては、こっそり裁縫の特訓をしていたものだ。
美人で、物腰が柔らかな、自慢の姉だった。生まれたときからそこにいて、手を伸ばせば必ず自分を気遣う指先がそこにあった。これからもそれは変わらないと、漠然とそう思っていた。
――それは何の変哲もない、いつも通りの朝。
姉さんはテリーラという街にある酒場で働いていて、いつもは手伝いにいっていたハルは、その日に限って風邪をこじらせてしまった。微熱だし、と言って起き上がろうとするハルをそっと押さえて、姉さんは言った。
ハルの風邪が悪くなったら、姉さん悲しいな。
形の良い眉をきゅっと下げて覗きこんでくる姉さん。そんな顔されたら寝ているしかない。
ずるいよ、姉さん。
そう言ったハルに、姉さんはいたずらっぽく笑った。
だってハルのお姉ちゃんだもの。
もう、姉さんったら。ふわりと気持ちが温かくなって、嬉しさ隠しに叩く振りをすると、姉さんは笑って『いい子に寝てるのよ』と言った。部屋を出ていく姉さんに、ハルは『あっかんべー』をした。それが最後の会話だった。
――背筋がすっと冷たくなったのを感じた。
大分気分が良くなって、起き出した頃にはもう外は真っ暗だった。でも普段は明るいはずの家の中が、外と同じくらい暗かったのだ。いつもなら帰って来ている時間なのに、姉さんはいなかった。針を布に刺し入れながら、振り向く笑顔がないことに、ものすごく不安を覚えた。
正確な時刻はわからない。時計なんて家にはなかったし、ずっと寝ていたから体内時計も完全に狂っていた。
とにかくハルは姉さんを探して酒場へ走った。さすがに寝間着は脱ぎ、姉さんが仕立ててくれた真っ白なワンピースを着てわたしは走った。何故わざわざ一番お気に入りの服を選んだのかは解らない。不安の刺はハルの心から抜けず、ハルは気のせいだと、きっと酒場についたらいつもみたいに姉さんは笑って、走ってきた自分に『甘えん坊さんね』って言うに違いないと、ただひたすらに思い続けた。
――だから信じられなかった。真っ赤に燃え続ける、見慣れた緑の屋敷を見たときには。
嘘だ。
ハルはふらふらと燃え続けるそれに歩み寄った。何も、聞こえない。何も見えない。色が、音が、すべて消えうせ、モノクロの中にいるような錯覚を覚える。
嘘だ、夢だ、これは。
まだわたしは目が覚めていないんだ。これは夢の続きで、目を開けたら姉さんが、笑顔で振り返って――。
誰かがハルの腕を掴む。それを振りほどいて歩みを進めるハルを、また別の誰かが羽交い締めにする。耳元で誰かが叫ぶ声が聞こえた気がしたけど、何を言っているかはハルには解らなかった。振りほどこうと暴れて、そのときパチッと弾けた火の粉が頬に降りかかり、その熱さがすべてを現実だと認めさせた。
一際大きく心臓が脈打った。
離してと、大声で叫びながらめちゃくちゃに手足を動かす。お願い行かせてよ。姉さんが中にいるの。けれどその拘束が外れるわけはなく。それでもハルは全身を使って暴れた。
姉さんはまだ中にいる、今行けばまだ助かるかもしれない。まだ、生きている。だって約束したのだ。ずっと一緒だと。絶対一人にはしないからと。
姉さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。今思えば、あれは一種の走馬灯だったのかもしれない。
ハルは頭で認めている現実を、感情で否定し続けた。姉さんはまだ生きているんだ。お願い、姉さんのそばへ行かせてよ。たった二人の姉妹なの。
そう叫んだわたしの目の前で、みどりの屋根が轟音と共に崩れ落ちた。
時間が止まった気がした。全身から力が抜け、男の人に寄り掛かるようにずるずると座り込む。
慟哭が真っ赤な夜空を彩った。
なんと無力なんだろう。たった一人の家族も護れず、のうのうと生き残って。
ハルは真っ黒になった炭と灰と遺体の前で、立ち尽くしていた。
すべては灰になって、姉さんが本当にそこにいたかも解らない。もしかしたらどこか別の場所で生きているかもしれないよ。そう元気付けてくれた人もいた。でも、そんなのは慰めにすらならなくて。ハルは灰の中に見つけてしまったのだ。姉さんがいつも履いていたサンダルが、灰の中にひっそりとうずくまっているのを。煤だらけになったそれは、片方しか見つからなかった。
姉さん。
声に出して呼んでみる。返事が戻ってこないってわかっていたのに、胸の中がぎゅっと握り潰されるみたいに苦しくなった。
姉さんの形見のサンダルを胸に抱え、ハルは泣いた。"独り"の現実に押し潰されそうだった。もう、死んでしまいたいと本気で思った。
――それから、一年とたたないうちに、養子縁組の話がハルの元に舞い降りてきた。
姉さんが死んでから死人のように生きてきた自分にそんな話なんて、と思ったけれど、何度も何度もしつこいので、軽い気持ちでそれを受けた。
気に入らなければ、逃げ出せばいい。もしかしたら、先方がこんなやついらないとほうり出すかもしれないし。
――行って、言葉を失った。初めての経験だった。驚きすぎて、ぽかんと口を半開きにしてしまったくらいだ。
豪邸だった。嘘でしょ、と口にするのは止めておいた。女中の方が、いつまでもぼけっと立ったままのハルを、迷惑そうに睨んでいたからだ。
女中に案内されて、自分なんかを義娘にしようとする物好きと顔を合わせた。合わせて、驚いた。だって、あの火事のとき、ハルが火に飛び込まないように羽交い締めにしていた男の人だったから。
ティジェロ家に引き取られてからハルは幸せだった。姉さんの昔話を笑いながら話せるくらいまでわたしは回復した。
義父さんは優しかった。義母さんも優しかった。それが姉さんと重なって、何となく怖かった。
喪失の恐れ。また居なくなってしまうのではないかと。怖くて怖くて堪らない気持ちは、義父母には言わず、胸の奥にしまい鍵を掛けた。
――義父さんはよくパーティーを開いた。何が楽しくてあんなことをするのか、ハルには解らなかったけれど、義父さんも義母さんも楽しんでいたから、自分も必死になって宮廷言語を学んだ。
大好きだった。自分がパーティーの花を演じると、義父さんも義母さんもうれしそうな顔をしてくれる。それが嬉しくて仕方なかった。
――その大好きだったパーティーでそれを聞いたのは、今から二年前のことだ。
いつもはドレスを着ているのに、その日に限っては真っ白なワンピースを着ていた。姉さんが仕立ててくれた真っ白なワンピース。
そしてハルは、それを聞いた。
――……は、やはり国の自作自演か。
義父さんの部屋からだった。それはハルが聞いたことがないくらい真剣な声音で、思わず息を潜め、扉の影に立った。
義父さんの他に、もう一人いるのが気配でわかった。
――ええ。裏切り者を抹殺するために、酒場をまるごと吹っ飛ばしたようです。
"酒場"。その単語を聞いた瞬間、わたしは全身の血が一気に下がったような気がした。
脳裏に浮かぶのは、失った大好きな笑顔。
蘇るのは、崩れ落ちる轟音。
無意識に拳をにぎりしめる。震える身体を必死に抑えて、ハルは一層室内の会話に耳を傾けた。
――裏切り者? そんなに大勢いたというのか。
――いいえ、数人だそうです。
――なに? ならば何故。
――酒場を爆破する必要があったか。それなんです。割り出しはすんでいたようなんですが、民間にも間者がいると踏んだのでしょう。会合があると情報を得た政府はテロを自作自演して……。
もう、それ以上聞いていられなかった。限界だった。
ハルは走って逃げた。無性に叫びたい気持ちだった。
――なんで、どうして?
裏切り者が何? 間者が何?
姉さんは関係なかったはずだ。政府になんて興味も持たなかった姉さん。いっつも自分のことは後回しにして、ハルのことを第一に考えてくれた姉さん。
――なんで、どうして?
なんで姉さんは死ななきゃいけなかったのか。死ぬ必要なんてなかった。ハルが一人ぼっちになることもなかった。
――どうしてっ……!
部屋に戻って泣いた。泣いて泣いて……泣き止んだ頃には、わたしは一つの結論に達していた。
――悪いのは、政府。
そうだ、全ては政府のせい。
戦争が終わらないのも、姉さんが、たくさんのひとが死んだのも、自分が一人ぼっちになったのも全部政府のせいだ。
体中が燃えるように熱く、目の前がぐにゃりと歪んで見えた。
ハルの中に姉さんと過ごした綺麗な世界はもうなかった。
…OUT…
通り魔の女性のお義父さんは、後に"テリーラの酒場事件"と呼ばれるこのテロについて秘密裏に調べていたんですって。
役人に知り合いの多かったお義父さんは、どこかおかしいと踏んでいたのでしょうね。テロにしては大人し過ぎるって。あの頃のロヴェルのテロはかなり激しかったから。
それにしても、戦争中にパーティーやるってどんな根性しているのかしら?