第十六話 復讐
住宅街から立ち上った光の柱は、轟音と共に突風を生み出した。まるでごみくずのように建物が砕け、吹き飛んでいく。その凄惨たる様を遠くから眺めている男がいた。
拒絶するかのように一際大きく風が吹く。エドワールは藍色の髪を靡かせて、静かにそちらを見つめた。その表情には全く感情というものが見えない。
不意に黒曜石のような瞳が横に動いた。
その頭上に銀色の閃光が叩き込まれたのは、その時だった。
突如にして立ち上った光に、さしものリュンヌとハルも動きを止めた。
それはまるで神話に出てくる神の降臨のような、とにかく信じがたい光景で。その場にいる全員が言葉を失った。
そのとき何の前触れもなく、リュンヌの背筋を氷塊が滑り落ちた。
それは直感というものだったのだろう。リュンヌの足が動いたのと、リロが叫んだのはほぼ同時だった。
「伏せて!」
次の瞬間、光が弾けた。
まるで、爆弾が爆ぜたようなそんな衝撃波が辺り一帯を襲う。それは一瞬で鎌鼬のように周囲の壁や住宅をえぐった。
咄嗟にリロを抱きすくめたネジュは身体を低くする。吹き荒れる風の中リロがなにかを叫んだ気がするが、ネジュには聞こえない。ネジュが問い返そうとしたとき、おそらく鎌鼬の餌食になったのだろう、大きな壁の破片が二人に襲い掛かった。
「…………!」
マジかよっ! そんな悪態も咄嗟に出てこないほどそれは突然で、もちろん避ける暇などなかった。
ドンッ。
衝撃が響く。しかしそれは直接ではなく、地を伝ってだった。
恐る恐るといった体で閉じていた目を開いたリロの身体から、緊張がふわりと取れたのがわかる。ネジュも無意識のうちに安堵の笑みを零した。
「怪我は!?」
飛び蹴り一つでひとの上半身近くある煉瓦の塊を叩き落としたベルは、着地と同時に身体を捻り、左の拳で飛んできた煉瓦を砕く。その合間に発せられた問いに、ネジュは大声で「大丈夫」と答えた。
強風で声が掻き消されそうになる中、ベルは大声でリュンヌを呼んだ。
「リュンヌさん!」
「遅え!!」
間髪入れず返された怒声にベルは肩をびくりと揺らした。
眼前に手を翳し目を庇っているリュンヌの額に、わずかに青筋が浮かんでいる。このひと、本気で怒ってる。ベルは顔が引き攣るのを自覚した。
そんなベルの気も知らず、飛んできた木片をひらりと避けて、リュンヌは叫んだ。
「おまえはそいつらんとこ居ろ!」
そして、木片に隠れるようにして飛びかかってきたハルのナイフを、リュンヌは跳びすさって避けた。
ハルを認めたベルの紫の瞳に険が宿る。暴風の中、リュンヌに斬りかかるハルを目で追いながら、ベルはリロたちの傍らに身を置いた。
急所を狙って突き出されたナイフを紙一重でかわす。そのスピードを維持したままリュンヌは身体を思い切り捻った。こめかみを狙った爪先を身をのけ反らせてかわしたハルは、ぶれてしまった重心に逆らわず倒れるように地面に手をつくと、足払い目的の蹴りを放つ。
「おっ……と」
リュンヌは足が当たる前に自ら後ろに跳ぶことで転倒を回避する。何度かバック転をして下がり、着地した瞬間を狙って突き出されたナイフを首を捻るだけで空振りさせた。
リュンヌの拳を避け、ハルが跳びすさって距離をとる。油断なく構えるリュンヌの前で、ハルは電池が切れたロボットのように動きを止めた。
風が少しずつ収まっていく。立ち止まったハルを注視していたリュンヌは、ふとあることに気がつき眉を顰めた。同時にネジュもはっとして顔をあげる。
ハルが震えていた。無論、寒さのせいではないだろう。垂れ目がちのその瞳を大きく見開き、両手で身体を抱えるようにして彼女は全身を震わせていた。カチカチと歯が鳴る。恐怖に彩られたその表情はネジュが夢で視たものに酷似していた。
その異様な光景に、リュンヌはうんざりしたように顔をしかめた。
「おいおい、今度はなんだ?」
血の気が引いて紫色になったハルの唇から、呻きとも、囁きともとれない声が漏れる。とても聞き取れる距離じゃないのに、それはネジュの耳にはっきりと届いた。
「早く……はやく、殺さなければ……、だめ……、あの子たちは関係な……、嫌、早く……」
その瞬間、ネジュは身体に電撃が走ったような気がした。夢の断片が脳裏に浮かんでは消える。何故、彼女は血にまみれ泣いていた? 彼女は今、一体何を恐れている?
さっきより大きな閃光がネジュの脳裏に瞬いた。思わず、腰を浮かす。
その瞬間、一度に全てが動いた。
ハルが地を蹴る。矛先にはネジュとリロが。ベルがその軌道上に割り込み、上着の下に隠してあったダガーを抜いた。ネジュとリロが同時に何かを叫ぶ。いつの間にか肉薄していたリュンヌがハルの横から手刀を振り下ろした。ハルがナイフを突き出す。ほぼ同時にベルのダガーが閃いた。
――時が止まったような錯覚に襲われた。あんなにうるさかった風も、今は木葉すら揺らさない。
ネジュは見た。交差する二振りの刃と、欠片の容赦もなく振り下ろされた手刀を。
突如出現したエストレジャが受け止めたところを。
左手でリュンヌの手刀を受け止め、ベルのダガーの刀身を右の素手で掴んでいる。そして突き出されたハルのナイフはエストレジャの二の腕に突き刺さっていた。
「なんで……、そんな」
最初に口を開いたのはハルだった。刃が半分くらいまで食い込んだナイフを見、長い三編みの垂れた背中を見る。震える手でナイフを放し、ハルは顔を覆うとその場に膝をついた。
凍り付いたような空気の中、エストレジャは、なんと信じられないことに、ヘラッと笑った。空気を読むとは、まさに逆の行動だ。
「いやァ、間に合ったネ。よかったよかった」
「エト、おまっ……」
大丈夫なのか、と続けようとしたネジュは、しかしふと口をつぐんだ。背筋が凍る、ぞくっとした感覚を覚えたからだ。
「おい……」
ゆっくりと手刀を下ろしたリュンヌの緑眼が白刃のような険しさを帯びる。何のつもりだ。その瞳は言外にそう言っていた。
しかし、エストレジャは答えずカタカタと震えているハルの前にしゃがみ込んだ。
「ハル・ティジェロだね?」
「……っ!」
エストレジャは、震えているハルの肩に触れるか触れないかの接触をする。それだけでハルはびくっと身体を震わせ、両手できつく身体を抱きしめた。過剰反応と言えるくらいの怯えぶりだった。
優しい声音でエストレジャは言った。
「大丈夫。安心して。これ、ワタシの腕じゃないかラ」
ハルがゆるゆると顔をあげる。その顔は血の気が引いて真っ青だったけれど、頬は濡れていなかった。
エストレジャは右手の掌を広げる。それはさっきベルのダガーを掴んだ手で、斬れた手袋から覗くのは人肌のそれではなく、機械の鋼色で。ハルが目を瞠るその前で、エストレジャは腕に刺さったナイフを抜く。その刃は綺麗なままだった。
「イヤァ、昔ちょっと事故ってネ? 片腕吹っ飛んじゃって。不便だから自分で作ったの着けたんだヨ。あ、そんなのどうでもいいんだけど、一つ訊いていいカナ?」
「な……何ですの……?」
やっとハルが言葉を発する。エストレジャの目が一瞬だけ鋭く光った。
「『これ』は、ハル自らの意志でやったんじゃあないんだよね?」
彼女が息を呑むのが解る。
ハルが何か言う前に、声をあげたのはリュンヌだった。
「どういう意味だ、エト。テメェ、一体何を知ってる?」
その視線に含まれるのは猜疑以外の何物でもない。無造作に立っているように見えるリュンヌの重心は、実はいつでも動けるようにわずかに前にズレていた。もちろんエストレジャはそれに気がついているし、リュンヌもそれを承知の上である。一触即発の雰囲気の中で、エストレジャはやはり笑顔を浮かべた。
横から見ていたベルは、エストレジャの真意を計るかのようにすっと目を細める。しかしその横顔からは何も読み取れなかった。
「ハルがネジュとリロちゃんを襲ったのは、彼女の意志じゃない。そうなるように誘導されただけってコト」
「……どういうことだ」
「だから」
エストレジャは言った。
「いいように動かされてたんだヨ、ワタシたちは。ハルを使ってリロチャンを襲えば、邪魔なベル君を自分たちから遠ざけておくことが出来る。リュンヌがこの街にいたコトは想定外だったみたいだケド、結果的にリュンヌの足止めにもなったってコトで」
「なんだと?」
リュンヌが珍しく目を瞠った。しかし、驚愕したのはリュンヌだけではない。ベルも切れ長の瞳を見開いていたし、ネジュもわけが解らないながらもただ事ではないと察していた。
ただ、リロだけは特に反応を示さず、静かに俯いた。悲しそうに顰められた眉を、漆黒の髪がカーテンのように隠す。
エストレジャの片眼鏡に付いた鎖が、シャランと音をたてた。
「だから今回のはハルに非はないんだヨ。ハル自身、ひどく苦しんでたはずだ。罪のないこどもたちを殺さなければいけないって思うのか。それを否定すれば、また別の声が無意識下に呼びかけてくる。知らない自分が自分の中にいるような、そんな感覚……」
エストレジャの左目がベルを一瞥する。ベルの表情に変化はなかった。
「おい、ちょっと待て」
全員の視線がリュンヌに集中する。鋭い緑の視線が、座り込んだままのハルに突き刺さる。ハルの指がきゅっとスカートの裾をにぎりしめた。
「こいつがこのガキどもを襲った理由は解った。苛立ちがねえわけじゃねえが、まあテメェを責めんのも筋違いってもんだ。そこは無理やり納得してやる。無理やり、な。だがなこいつらを襲う前の、元役人を襲いまくってたのはどういう用件だ、ああ? ごまかすんじゃねえぞ。ありゃ確実に殺す気でやってる目だった。実際面と向かって殺り合ったんだ、解らないわけがねえ」
一瞬、沈黙が辺りを支配した。となりのひとの心臓の音まで聞こえそうな静けさの中で、ハルは俯いたまま顔をあげない。その小さな肩が小刻みに震えていた。
「兄貴」
口を開いたのはネジュだった。本当は怖くて仕方がない。しかしそれを必死に見せまいとする、そんな顔をしたネジュはリロの傍らからそっと離れると、リュンヌの目の前に立った。リュンヌは長身なので、必然的にネジュがリュンヌを見上げる形になる。
「……このひとを、あんま責めないでやってくれねえか」
「あ? おい、今なんつった?」
リュンヌの視線がよりきつくなる。
ネジュはギュッと拳をにぎりしめた。
「このひと……ハルさんを、責めないでくれって言った」
「自分が言ってること、解ってんのか。おまえ、この女に殺されかけたんだぞ」
「でも、それは」
「ああ、そうだ。そいつは不問に付すがそれだけじゃねえんだよ、こいつは。通り魔の話、したろ。この女は何人も殺してる。責める責めないの問題じゃねえんだ」
「で……」
でも、と言い募ろうとしたネジュは、ハッとして口をつぐんだ。
その腕をハルが掴んでいる。それを見たリュンヌの目の色が変わった。
リュンヌの腕が、ハルの手を弾こうと動く。目に留まらぬほどの早さで振るわれたそれを掴んだのは、いつの間にか傍らにいたエストレジャだった。
「エト、テメッ……」
「ハルにもうネジュを傷つける意志はない。暗示ってのは自覚したらほとんど効果が失くなるんだヨ」
まだ納得していない風情のリュンヌにエストレジャは、それに、と続けた。
「ハルも話す気になってくれたみたいだヨ。なにかを決意した女性ってのはワタシたちが思うよりずっと意志の力が強いものサ」
「…………」
ちらりとエストレジャを一瞥したリュンヌは、舌打ちをすると乱暴に手を振り払った。ふん、と鼻息荒くそっぽを向くが、話を聞く気になってくれたようだ。
ハルがゆっくりとネジュから手を離す。さっきとはまるで違う、すべてをふっ切ったような眼差しで、ハルは言った。
「ご存知のようにわたくしは元役人ばかりを襲っていました。もちろんそれ以外の方に危害を加えるつもりはありませんでしたし、黒服の貴方についても同様です。いくらわたくしの邪魔をしてくるからといって、傷を与えるつもりは毛頭ございませんでした」
濡れたようなハルの瞳がリュンヌを見る。
「しかし、先程のは別です。わたくし本気で貴方を殺すつもりでした。本当に申し訳ありませんでした」
ハルが深々と頭を下げる。それを見たリュンヌは思いきり顔をしかめ、気まずそうに視線を泳がせる。何と言っても街中ですれ違ったら十人中八人は振り返るような美女だ。その彼女が涙目で頭を下げてきたのだ、気まずくもなるだろう。
リュンヌは相も変わらず眉間にシワを寄せ、いつもより二割増しくらいぶっきらぼうに言った。
「謝罪すべきは俺じゃねえだろ。つか、んなのどうでもいい。さっさと理由を話せ」
ハルは静かに頷くと、まるで目の前に宿敵がいるかのように、きっと前を見据えた。
「わたくしは、姉を政府に殺されました。役人ばかり襲ったのは、すべてを失い、世に絶望した妹の復讐ですわ」