第十四話 呉服屋
鋼色の閃光が走る。
鉤爪が頬を掠め、シャルロットは顔をしかめた。
しかし動きは止めず腕を鞭のように振るう。ヒュンと風を切った剣は、少年を捉えることは出来なかった。
屋根の端に着地した少年は、鉤爪についた血をまじまじと眺めると、シャルロットに流し目を向けた。
「遅いな。諦めたらどうだ? どうせもう立っているのがやっとなんだろう」
「うるさい……。私はまだ立っているだろ」
左手で頬を拭う。乱れた息を無理やり整え、シャルロットは剣を構え直した。
少年の見立ては間違っていない。少年の動きは非常に素早く、とてもすべてかわしきることは出来ない。なんとか致命傷は避けているものの、決して浅くない傷もある。それらは徐々に、しかし確実にシャルロットの体力を削っていた。
少年はわずかだが苛立ちのこもった視線をシャルロットに向ける。
「あの子どもを殺すのに、今が一番都合がいい。お前は人間にしてはよくやる方だが、仕事をし損じるのはぼくの矜持が許さない。済まないが、終わらせる」
少年の身体が疾風と化す。シャルロットは自慢の動態視力を活かし、なんとか横薙ぎの一撃を剣で弾いた。
途端に走る腕の痺れ。シャルロットと少年では体格が全く違う。力ならばシャルロットに利があるはずだった。しかしあの少年はそれをスピードで補い、シャルロットを圧倒しようとしているのである。
「くっ……!」
痺れる腕を叱咤し、なんとか下から突き上げる二撃目をガードする。そのまま自ら後ろに飛び距離をあけようとするが、少年はそれを許してはくれなかった。
シャルロットが地を蹴ったのと同時に、少年も跳ぶ。虚を突かれたシャルロットの左肩に鉤爪が深々と突き刺さった。
灼熱が脳を貫く。シャルロットは苦悶の声をあげた。
「ぐぁっ……!」
「諦めろ。そもそも人間がぼくに刃を向けること自体が無茶だったのだ。怨むのなら、上司を怨むが良い」
シャルロットは痛みと疲労で仰向けに倒れた。衝撃で肩に再び激痛が走る。
少年はすかさず剣を持ったシャルロットの右手を足で踏み、己の左手を肩の高さまで振り上げた。
シャルロットは痛みで朦朧とする意識を必死に保ち、キッと鉤爪を睨みつけた。軌道さえ読み切ればかわせないことはないはず。頬の肉は削ぎ落とされるだろうが、生きていればいいのだ。剣を手にしたとき、既に女は捨てている。
生き残ることが全ての勝利。シャルロットはそう教わり、それを自身の主観としていた。
鉤爪が風を切る。シャルロットの頭をかち割るはずだったそれは、屋根瓦を数枚割り砕いた。
それだけではない。踏みつけていたシャルロットの腕が消え、少年はわずかに体制を崩す。困惑しながらも少年の目はすかさず周りに走り、獲物の姿を探した。
「悪いけど」
背後から、声。
少年の背筋に戦慄が走る。本能の命じるまま少年は屋根から身を投げた。
少年が一瞬前までいた場所が音をたてて陥没する。屋根瓦が弾け、破片がパラパラと舞い散った。
危なげなく地面に着地した少年は、眼前に腕を翳し鋭い破片から目を守る。薄目を開いたその先に屋根の上に立つ一人の男を見た。
くせのない金髪に金色の唐草模様が綴られたマント。精悍な顔つきをした男は、左腕一本でシャルロットを抱え、佩いていた剣を抜き放った。
「このひと僕の連れなんだ。返してもらうね?」
金色の髪を靡かせ、ジヴァールは不敵に笑った。
…OUT…
そうだわ、言っていなかったわね。
役人の彼、地位的にはかなり上なのよ。そうね、上議院の下の下辺りかしら。ポニーテールの彼女もその下くらいだった。
私も詳しくは知らないのだけれど。
…IN…
顔をすっぽり覆い隠す真っ黒いフードと、その手に握られた銀色のナイフ。
それを認めたネジュは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
リュンヌから幾度となく聞かされた通り魔の背格好。真っ黒なフードつきの、ダボッとした服を着て、刃渡り三十センチほどもあるナイフを持つ、背の低い人間。路地から現れたその人物は、すべてがピッタリ当て嵌まっていた。
「ネジュ君……」
リロの震えを感じ取り、ネジュは大丈夫、と言うように微笑んで見せる。しかし、リロの眉が下がったのを見ると、どうやら上手く笑えなかったようだ。
それも仕方がないのかもしれない。なにせネジュはリュンヌに、通り魔に会ったら迷わず逃げろ、と口すっぱく言われていたのだ。
ネジュに護身術を教えたのはリュンヌだ。ネジュの実力は誰よりも知っているはずである。そのリュンヌが逃げろという相手なのだ。顔が引き攣るのも無理はないだろう。
でも。と、ネジュは通り魔を睨みつけた。
諦めろではなく、逃げろとリュンヌが言うのなら、逃げ切れる可能性があるのだと思う。というより、そう信じたいというのが本音だが。
通り魔が口を開いた。
「やっと、見つけましたのに……」
「え?」
予想外のことに、ネジュは思わず呆けた声をあげた。さっきまで考えていたことが一瞬すべて吹き飛ぶ。その場に響いた透き通るようなソプラノの声――。
そう、その声は女のものだったのだ。
唖然とするネジュなど気にも止めず、彼女はあらぬ方向に目を向ける。つられるように視線を向けたネジュは大きく目を見開き、くしゃっと顔を歪ませた。
安堵が心を満たす。助かった。無意識にそう思っていた。
「ネジュテメェ、帰ったら原型がわからなくなるくらいぶん殴ってやるからそのつもりでいろ」
「……一種の虐待っていうんじゃね? それ」
「うっせえよ」
路の真ん中を堂々とした態度で歩いてくるリュンヌは開口一番にそう言った。不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、ちらりと通り魔を見やる。
その顔にムカつくほどふてぶてしい不敵な笑みが浮かんだ。
「まだそんな暗い服着てんのかよ。フードとかウザったくねえか?」
「また、邪魔するのですね……」
「また、だぁ? そりゃこっちの台詞だ。テメェはまた俺の関係者を狙うつもりかよ」
通り魔の頬がぴくりと引き攣る。おそらく驚いているのだろうと、気配で解った。
「そうですの……。やはり貴方も政府の関係者だったのですのね……」
「元、だ。今はただの鉄工技師。それより何だ? 昔の同僚だけじゃなく、仕事場の後輩まで狙うたぁ何の嫌がらせだ、ああ!?」
大声で凄むリュンヌに、通り魔の女性はあくまで冷静な口調で言った。
「ただの偶然ですわ。貴方が政府の関係者だと今知りましたし、その子どもが貴方の仕事場の後輩というのもたった今知りました」
「"元"関係者だっつーの。じゃあ何だ? 何でこのガキを狙う?」
「…………」
通り魔の女性はふと口をつぐんだ。それを見たリュンヌは鋭く目を光らせる。
「答えられません、てか? 質問を変えるぜ。テメェはどっちを狙ってんだ?」
女性は答えない。
「答えろよ。ま、どっち狙ってたとしても、そう簡単にはいかねえだろうがよ。ネジュ狙ってんなら俺が黙っちゃいねえし、小娘狙ってんならあのガキが黙っちゃいねえからな」
「それでは答えたところで何の変わりもないじゃありません?」
「俺の士気が変わる」
女性は声をたてて笑った。リロがびくりと身体をすくませる。ネジュが安心させるようにその肩を抱きしめた。
楽しいと言わんばかりの様子で身体を震わせる女性は、無造作にフードを外した。
途端にふわりと広がる金髪は腰に届くほど長く、緩やかに波打つそれは、金色の風を連想させる。滑らかな白磁の肌にはわずかなくすみもなく、少し垂れ目がちの大きな瞳が穏やかに細められた。
道を歩いていたら十人中八人が振り返りそうな、絶世の美女だった。
「それなら関係ありませんわ。誰が来ようとわたくしの負けはありませんもの」
それを聞いたリュンヌは一瞬驚いたように目を見張り、次の瞬間、凄絶な笑みを浮かべた。
肉食獣のような、獰猛な笑み。
「たいした自信だな? おい。かわいい顔して、女ってのは怖いね、全く」
呆れたように肩を竦めているが、もちろん女性から一瞬たりとも目を離さない。隙のない鋭い眼光を絶え間無く女性に注ぐ。
負けはない、と断言したのが他の、例えば昔の同僚たちだったらリュンヌもそこまで警戒しなかっただろう。彼らの実力は知っているし、それ以上に正確に己の実力を知っている。危険ではないとすぐに判断できた。
しかし、この女性は別だった。
いくらなんでも元同僚が狙われているのを見逃すわけにもいかず、次に狙われるやつにやまを賭け彼らを尾けることにより何度か犯行現場に居合わせることに成功した。いくらなんでも殺させるわけにはいかないので、以前ベルがやっていたのと同じようにようにサージャで顔を隠し、女性と剣を交えたのである。
その時、女性の戦闘能力の高さに正直面食らったのだ。しかも他の連中と違って底が見えない。一流の暗殺者と戦りあえるリュンヌをもってしてそう思わせる、それほどの力を持つ稀人なのである。
しかも、先程顔を曝していたのにあっさり"また"邪魔するのかと言われたことから、どうやら彼女はリュンヌが邪魔していた人物だと気がついていたらしい。まあ、それはお互い様なのだが。
「女を嘗めてはいけませんわ。おしとやかな子猫などほんの一握り。あとは皮を被った獰猛な虎ですのよ」
女性の言葉に、リュンヌは小さく笑った。
「違いねえ。だがよ、男だって喰われるだけの野うさぎじゃねえんだぜ?」
「存じてますわ」
「本当かねえ」
「試してみます?」
女性の足が肩幅くらい開く。
あからさまな挑発だ。しかし、リュンヌはニヤリと笑うとポケットに突っ込んでいた両手を解放した。
「そうだな。――試してみるか」
次の瞬間、ナイフが目の前にあった。切っ先をリュンヌに向けた形で。
「おぉうっ!?」
反射的に刃の側面を手で弾き、落とした。
投げナイフ――!
手を振り切ったリュンヌの目の前に、ベルトの裏に隠し持っていたナイフを抜いた女性が迫った。三日月型に歪んだ、真っ赤な唇がリュンヌの目に焼き付く。
「マジかよ!」
「マジですわ」
腕を振り切ってしまったせいで、弾くことも、身体をさばくことも出来ない。
寸分違わず心臓を狙ったナイフの刃身を、リュンヌは咄嗟に左手で掴んだ。
「なんっ……!?」
今度は女性が驚く番だった。赤い雫が飛び散り、女性の頬に模様を残す。
まさか素手で掴むなんて。動揺しながらも女性はナイフを引こうとする。重心がわずかに後ろにズレた瞬間、リュンヌが空いていた手で女性の手首を掴んだ。
リュンヌはそのまま一歩踏み込み、足払いをかける。動きが制限され、避けられないだけでなく受け身すらとれない。そんな絶妙のタイミングでリュンヌが手を離した。
「……っ」
何とか頭を打つのは回避したが、代わりに背中を地面に強か打ちつけた。打ち所が悪かったのか、息が詰まり、一瞬目の前が真っ白になる。それでも鳩尾を狙って振り下ろされた拳を、女性は反射的に転がるようにして避けた。
膝と掌を同時に地面に叩きつけ、身体を反転させる。片膝を立てる形で着地した女性に、リュンヌはため息混じりに言った。
「痛ぅ……。マジ過激なお嬢さんだな? おい。普通に呉服屋営んどけよ」
皮膚が裂け、血まみれになった掌をひらひらと振りながら、リュンヌは様子を探るように女性を見る。対する女性は特に驚いた様子もなく、その端正な顔にうっすらと笑みを浮かべて見せた。
「ちゃんと営んでますわ。結構人気があるんですのよ」
「どうせテメェ目当ての客ばっかだろーが。なあ、『猫の目』のハルさんよ」
女性――ハルは口元に手を当てクスクスと笑う。顔にかかる金色の髪を手で払い、ゆっくりと立ち上がった。
「わたくしは優しくなんてないのです。やましい気持ちを抱きわたくしに近づいた輩は、みんな今頃後悔していますわ」
「だろうな。猫に引っ掻かれるほうがまだマシだろ」
「そうですわね。わたくしもそう思いますわ」
手の中でナイフを弄ぶハル。リュンヌにはそれが自慢の爪を研ぎながら獲物を狙う猫に見えた。
さながらハルは腹を空かせた山猫で、自分は哀れなネズミというところか。
リュンヌはニヤリと笑う。
ただやられるだけの被食者は性に合わない。
「なあ」
リュンヌはおもむろに口を開いた。
「窮鼠猫を噛むって知ってるか?」
「……知りませんわ」
「そんな顔すんな。知らなくて当然だ。ここにはない言葉っつーか、ことわざか? ここには無ぇことわざらしいからな。意味はまんまだ」
一瞬キョトンとした表情を浮かべたハルは、しかしすぐに我得たりという顔になる。
真っ正面からリュンヌを見つめ、楽しくて仕方がないというように彼女も笑った。
「それではわたくしは猫らしく……貴方を狩らせて頂きますわ」
「ネズミ舐めんなよ、呉服屋!」
次の瞬間、遥か遠くで光の柱が天を突いた。