第十一話 好まぬ世界
そうだわっ!
………ねえ、ひとのこと、気味悪そうに見ないでくれる?
忘れそうになったのを思い出したんだから、少しは褒めてくれたっていいじゃない。
これは彼女が別の誰かから聞いた噺だから、少し曖昧になるかもしれないんだけど。
少し、離れた地の出来事も話しましょう。
彼のこと、覚えているかしら? 忘れていても、聞いている途中できっとわかるわよ。
…IN…
長い長い、ただ真っ白な廊下。足元に敷かれた真っ赤な地に金箔で唐草模様の描かれた絨毯だけが色彩を放つ。その色は明る過ぎて、ジヴァールはこれが大嫌いだった。
すれ違った二人の役人がジヴァールに礼をする。服装から見ると、下級の文官のようだ。軽く手を挙げて答えながら、ジヴァールは己の思想に耽っていた。
まるで薄い膜の中にいるかのように、周りの雑音が遠退く。礼されたり、話し掛けられれば返事はするが、本当は上の空だ。この集中力が、彼をこの若さで上級役人にしたのである。
「ジヴァール!」
聞き慣れた声が針のように突き刺さり、ジヴァールのシャボン玉がパチンッと割れる。頭を掻きながら振り返ると、廊下の先に一人の女性が歩いてくるのが見えた。
絹のような金髪はジヴァールのそれより色が薄く、ストレートで長い。穏やかで優しい面立ちをしているが、高い位置で束ねられた髪と、動き易さを重視した軽い服装、その腰に携えられた細身の剣が彼女の性格をより正確に示していた。
「シャルロットじゃん。どうしたの?」
ポニーテールの女性――シャルロットの白磁のような滑らかな眉間に、ギチッとシワが寄った。せっかくの優しい面立ちが台なしだ。しかし、それを言うと強烈な右ストレートが飛んでくるので、胸の中に留める。
「どうしたの、じゃないだろ。また失敗したそうじゃないか」
少し低めの声がはっきりと言葉を紡ぐ。少し非難を込めた目つきでジヴァールを睨みながら、シャルロットは腰に手を当てた。細くしなやかな身体のラインがより一層際立つ。
思わず下がりそうになった目線を鋼の精神でそこに留め、ジヴァールはそんなことを全く感じさせない態度でへらりと笑うと小さく肩を竦めた。
ベルたちと向かい合っているときとはまるで違う、温かみのある笑顔だった。
「だって彼の息子だよ? 足手まといの妹ちゃんやお嬢さんがいたって僕が敵うわけないって」
「ふん、戦闘員の中で常に上位にいる貴様が敵わないだと? ほざけ。どうせ適当に手を抜いているのだろう」
「手を抜いてたら、僕はきっとこの世にいないと思うなあ」
至極真面目に言ったジヴァールだが、シャルロットはいつものおふざけだと思ったようだ。不機嫌そうに眉間にシワを寄せると舌打ちをする。
「私が唯一対等以上だと認めるのは貴様だけなのだぞ。その貴様がまだ成人して二年足らずの童っぱに敵わぬなど信じると思うか、このたわけ」
「役人の中でトップスリーに入る実力者をつかまえて、対等以上は貴様だけだって言う君も、いろんな意味ですごいと思うな」
真顔でそんなことを言うジヴァールの頭に、シャルロットの平手が炸裂する。不意打ちを喰らったジヴァールは顔をしかめて「舌噛んだ……」と呻いた。
「まあ、それはいいとして。上からお呼びがかかっているようだぞ」
「君に?」
「何故私にお呼びがかかっているのを貴様に言わねばならん。呼ばれているのは貴様だ。ジヴァール」
うへぇ、と途端に嫌そうな顔を浮かべるジヴァール。シャルロットは厳しい表情を一転、どこか同情したような顔で彼の肩を軽く叩いた。
「観念して行ってこい。いくらおまえでも上司の命令は無下にはできまい」
「行くよ? 行くけどさあ……。ヤだな〜、面倒臭い」
「前よりはまだマシだろう。この間もオスカルに庇ってもらったのだろう?」
「うぅー、そうだけど。っていうか、オスカルが上議院に入ってなかったら、いくら僕だって呼出しに応じたりしないよ」
渋い顔をするジヴァールに、シャルロットは一瞬苦笑いを浮かべた。似ても似つかないこの二人も、上層部に対する感情は一緒なのだ。
ふと表情を引き締めると、シャルロットはジヴァールの隣を通り抜ける。その時、彼女は小さく呟いた。
「私が行ってくる」
シャルロットの靴音が遠退いていくのを聞きながら、ジヴァールはそっと右手を開いた。
そこにはすれ違い様に渡された小さな紙片があった。もう見慣れた彼女特有の角張った字が、八文字、綴られている。
それを読んだジヴァールは、グシャリとその紙を握り潰した。振り向いて彼女を追ってしまいそうになる身体を理性で制し、ジヴァールは聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「……死なないでよね」
ジヴァールは目を閉じて深呼吸すると、上議院の集う部屋へ向かい、足を踏み出した。
………遅い。
オスカルは会議室に設えられた椅子に座り、組んでいた腕を解いた。
会議室には扉を囲むように半月状に椅子と机が並べられており、人数分のお茶も置いてある。過去に、たかが数十分話し合うだけなのにわざわざこんなセッティングは必要ないと意見したことがあるが、それはあっさり無視された。
上議院とはこの国の最高決定機関である。役人の中から特に優秀な者を十人選び、彼らの話し合いで物事を決定する。しかし、決定されたそれを実行するには王の承諾を得る必要があった。もちろん王の承諾など形だけのものだ。十五年前、王族の直系であられる先代が亡くなってから、王族の権力は著しく低下した。今の王は上議院の傀儡に過ぎない。
「オスカル」
己の思想に耽っていたオスカルは、その声で我に返った。
ちょうど隣の席に座っていた同じ上議院のディランがこっちを見ていた。真っ白な髪にシワだらけの顔。五十代前半のこの御仁は、まだ若いオスカルをなにかと気にかけてくれていた。
「はい」
「そんなに厳しい顔をして、如何した」
「いえ……」
言葉を濁したオスカルに、ディランは苦笑を浮かべた。
「まあ、致し方ないか。今日呼び出されているのはおまえの友ということだからな。あまり気に病んではならぬぞ」
「はい」
オスカルはふと笑みを零した。この優しい御仁がオスカルは好きだった。彼がいなかったら、争いを好まないオスカルとてこんなところ抜け出している。
その時、会議室の扉が規則正しく二回叩かれる。ざわめいていた会議室が水を打ったように一瞬で静まり返る。一番扉の近くに座っていた狐目のムフェレルが、「入れ」と言った。
「しつれーしまーす」
緩慢な動きで扉が開き、気の抜けた挨拶を伴ったジヴァールが入室した。張り詰めた空気などそっちのけで、ジヴァールはいかにも面倒臭そうな顔で上議院の面子を見回すと、わざとらしくため息をつく。
ああ、こいつはまた……!
オスカルは表の態度は崩さないまま内心身もだえした。
こんな態度をこのひとたちの前でしたら……。
「貴様、何だその態度は!」
ほら、やはり絡まれた。思わず顔をしかめてしまったのをごまかす意味を込めて、オスカルはトレードマークの縁なし眼鏡を指で押し上げる。ちらりとそれを確認したジヴァールは口の端を吊り上げ、にたりと不敵に笑った。
あの顔、あいつまたなんかやるつもりか。オスカルはげんなりと肩を落とした。ジヴァールと役人育成施設で知り合って、はや十数年。このての勘は外れたことがない。
「別に少し大きめに息を吐き出してみただけですよ。深呼吸ですよ、しんこきゅー。断じてため息ではありませーん」
「何がため息ではありません、だ! どうみてもため息以外の何物でもなかろうが!」
「五月蝿いですねー。ほら、あんまり怒鳴ると血圧上がっちゃいますよ?」
「貴様っ……」
「ハイエリエス殿!」
ジヴァールがニヤリと笑う。これを流し目で確認してから、オスカルは議長であり上議院の最高責任者であるハイエリエスを見た。
「彼を召喚した理由をお忘れなさいますな。我々は彼に訊くことがあったのでございましょう」
「ちっ、ガキが口を出すでないわ。まあ、こ奴の戯れ事を聞いている暇もないのも事実。ジヴァールよ、単刀直入に訊くぞ。何故早急にゲルトの息子を捕らえぬ。貴様の実力ならばそう難しいものでもないだろう」
ハイエリエスを見つめるジヴァールの瞳が、氷のような冷たさを帯びる。しかしそれはほんの一瞬のことで、オスカル以外それに気がついたものはいなかった。
ジヴァールは腰に手を当てると、面倒臭そうにあくびを漏らす。
「まるで職務怠慢のようにあなた方は言いますけどね、僕だって必死に彼らを捕まえようとしてるんですよ? でも、いいですか? 僕の標的はあの大量殺人のゲルト殿の息子ですよ? ただの人間な訳無いじゃないですか。それとも」
ジヴァールは一旦言葉を切ると、挑戦的に上議院の面々を見回した。
「僕に教えてくださるんですか? 彼らが一体何者で、あなた方が何故彼らを欲しているのか。そしたら命をかけてでも彼らを捕まえて見せますよ?」
「ふざけるのも大概にしろ! 貴様にやる気がないのなら他の者に変えてもいいのだぞ!」
ハイエリエスの怒声に、ジヴァールは絶対零度の冷笑を返す。
「ご冗談を。僕以外の者には不可能だと判断したから、普通ならありえない、二十四歳のオスカルを上議院に入れてまで、僕にやらせてるんでしょ? 最年少でしたっけ。ま、僕もオスカルが上議院にいなかったらこんなとこ来る気はないし、命令だって聞く気はない。理由は聞かなくても解るでしょ? 僕は君らが大嫌いだからさ」
「きっ……さまぁああ……!」
ハイエリエスの顔は今や怒りで真っ赤に染まり、にぎりしめられた拳はぶるぶると震えている。怒りに任せて怒鳴り散らそうと開いた口を、静かな声が閉じさせた。
「お止されよ、ハイエリエス殿」
「ディラン殿……」
口を挟んだのはオスカルの隣に座したディランだった。ディランは大昔からこの国にある貴族の出身で、若い頃はかなり優秀だったらしい。ハイエリエスも一目置いている存在だった。傲慢で鼻持ち高いハイエリエスも、彼には頭が上がらない。
ハイエリエスが落ち着いたのを確認して、ディランは無表情にこちらを眺めるジヴァールを見た。
「その方が我らを嫌っているのはよう解る。されど、そなたに頼る以外、我らに方法はないのだ」
ジヴァールは、むむっ、と小さく唸るとカリカリと頬を掻いた。ディランに頭が上がらないのは、なにもハイエリエスだけではない。
「我らも責任を押し付けるようで申し訳ないと思っている。しかし、大魔術師であられた先王の教えを受け継ぎ、生き残っているのは、もうそなたしかおらぬのだ」
真摯な目で見つめてくるディランから逃れるように、ジヴァールは目を伏せた。
「解ってますよ。そんなこと。あなた方が"最後の魔術師"としてしか僕を見ていないのも解ってます。僕だって魔術を使えなければその辺の兵士と同じくらいの実力ですからね」
はあ、とため息をつくと、ジヴァールは彼らに背を向け、扉を開く。その行動に慌てて声をあげたのは、ムフェレルだった。
「どこへ行く!?」
「どこって自室だよ。もう話はおしまい」
「馬鹿な、話はまだ……」
「感謝ならディランさんにするんだね」
ムフェレルの言葉を遮る。ジヴァールは底冷えするような視線でムフェレルたちを見据えた。
見つめられたものは皆、ぞくっ、と背筋を氷塊が撫でたような感覚に襲われた。一兵士として能力は低くとも、ジヴァールは間違いなく"最後の魔術師"であり、同時に"最強の魔術師"なのである。
「彼がいなかったら、僕もオスカルもあなた方なんて見限っちゃってると思うよ。今回の命令はちゃんと受けてあげる。ただし、次があるかどうかは君ら次第だ」
ジヴァールがパチン、と指を鳴らす。その音に反応したかのようにハイエリエスの目の前にあったグラスが、パンッ、と弾けた。破片が飛び散り、お茶が高級な服に染みを残す。
「うわぁあ!」
「ハイエリエス殿っ!」
「あははっ! じゃあバイバイ」
にわかに騒がしくなった会議室の扉を閉める。中からジヴァールを呼ぶ声が聞こえた気がしたが、勿論無視だ。
数十秒後、足早に廊下を歩いていたジヴァールの背中に制止の声がかかった。予想していたので、特に慌てず振り返る。
「おい、ジヴァール!」
「お疲れさまー、オスカル。クソジジイたちの相手は大変だったでしょー? あんな奴ら世界のゴミなんだから、早く死んでしまえばいいのにね」
走って来たのだろう。少し乱れた息を整えながら、オスカルは中指で眼鏡を押し上げた。
「あんな脅しのような真似までして、何をそんなに急いでいる」
「おぉう、単刀直入。そして僕が吐き出した毒は華麗にスルーするわけだ。さっすが、オスカル。役人一の切れ者だ」
ジヴァールはうれしそうに笑うとポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙切れを取り出した。それをオスカルに渡す。そこに書かれていた文字に、オスカルは思わず声をあげた。
「『奴らが動き出した』だって? この字……まさか」
「そう。今、シャルロットが向かってる」
あくまで静かに告げられた事実にオスカルは絶句した。
「そんな……彼女は確かに強いが奴らは化け物ばかりなんだぞ? なんの能力もない人間が、殺されに行くようなものだ!」
「そんなことシャルロットだって解ってる。だから急いでるんだろ」
「ジヴァール、おまえ……」
ジヴァールは力強く頷くと、数少ない友人の肩を叩いた。
「オスカルはいつも通り適当にごまかしておいて。チャッチャと片付けてくるからさ。大丈夫。君の未来の花嫁は無事連れ帰るよ」
そう言うと、ジヴァールはニヤッと笑い、一瞬で掻き消える。ハッと我に返ったオスカルは、もう届かないと知りながらも大声で言った。
「誰が未来の花嫁だ!!」