第十話 漆黒の援軍
リュンヌは右手を前に突き出し、指を三本立てる。
「三」
突然の出来事に呆然としていたヨハンナも徐々に平常を取り戻す。彼女はその茶眼にリュンヌを映すと、挑発するようにニヤリと笑った。
「誰? ヨハンナとベルの楽しみを邪魔するなんて不粋だよ」
「ニ」
リュンヌは聞こえていないというようにカウントを続ける。
ヨハンナは無視されたことに苛立ちを覚えたのか、綺麗な形の眉をぴくりと跳ね上げた。
「無視ぃ? ねえベルぅ、こいつ誰? 殺していい?」
「……リュ……ヌさ………ダメ……で、す……」
ベルが搾り出した声に、リュンヌの指がぴくりと震える。必死に身体を動かそうとするベルを見て、リュンヌの緑眼に苛烈な光が迅った。
「一」
ヨハンナはプロの暗殺者だ。たたずまいを見ればある程度の実力は解る。いくら女とはいえ、油断はならないのだ。現にベルはほんの少しの隙から動きを封じられてしまった。ベルは何とかリュンヌに逃げるように言おうとするが、その前にリュンヌの人差し指が下りた。
「……零」
「おい! 兄貴遅えよ、早く……って、は? なにこの状況?」
リュンヌを呼びに来たらしいネジュは、女に抱えられたベルと物騒な目つきをしたリュンヌを見て大袈裟に眉を顰めた。そんなネジュの頭に、リュンヌは、ぽんっと手を乗せる。
「よくやった、ネジュ。……ナイスタイミングだ」
一瞬だった。
ヨハンナがネジュに気を取られた、その瞬間、どこからともなく現れた巨大な犬がヨハンナの肩口にその牙を食い込ませた。
「きゃあぁああ!」
鮮血が噴き出る。口元から血を滴らせた犬は着地と同時に再び地を蹴った。
悲鳴をあげるヨハンナにその身体をぶつけて吹き飛ばす。その隙にリュンヌは地面に倒れたベルに駆け寄った。
「立てるか?」
「……なん、で……逃げ……くださ……」
「黙ってろ。こりゃ完全に毒が回ってんな。早くエトんとこに……」
「おい、何なんだよ。これっ。何でレニヴァが女に襲い掛かって!?」
ワンッ。
いつの間にか犬がリュンヌたちの前に立っていた。身を低く構えた犬は、茶色の毛を逆立てて威嚇の声をあげる。
ウヴゥーー。
「ネジュ、こいつを頼む」
「お、おい!? リュンヌ?」
傍らにいたネジュにぐったりしたベルを任せると、リュンヌは犬の隣に立つ。
その視線の先には肩から流れた血にまみれ、衣服や髪が砂でぐしゃぐしゃになったヨハンナがいた。顔を覆うように垂れ下がった髪は、笑みを象った口元を強調しているようで、見ている者に否応なく怨霊を想像させる。
「よくもやってくれたねえ、わんちゃん。ヨハンナ、犬は嫌いじゃないんだけどぉ……今ね、すごおぉく―――殺したい」
ヨハンナの目つきが変わる。同時に犬も後ろ脚に力を込めたのが解った。一触即発の張り詰めた空気の中、引き金を引いたのはどちらだったのか。ヨハンナと犬はほぼ同時に地を蹴っていた。
いつ取り出したのか、ヨハンナの手には短剣が握られている。その腕に向かって犬が牙を向いて飛び掛かろうとした、刹那。
「―――止せ、ヨハンナ」
静かな声音だった。しかしそれは驚くくらいその場に響き、リュンヌとベルの背筋を凍らせた。
「レニヴァ、下がれ!!」
リュンヌが咄嗟に発した大声に、犬はビクリと身体を震わせると、すかさず後ろに跳躍する。ヨハンナは頭上を仰ぐと、ギリッと歯を噛み締めた。それでも笑顔を崩さないのは称賛に値するが、若干頬が引き攣っている気がする。
「邪魔しないでくれるかなあ?」
「おまえの任務は紫苑の目を持つ男をあのお方の元へ連れていくことだろう。民間人の殺害は任務外だ」
ヨハンナの傍らの建物の屋根の上に一人の男が立っていた。くせのない藍色の髪は長さが不揃いで、右目にかかってしまっている。感情の乏しい瞳は夜の水面のような黒曜。腰にはニ振りの剣を帯びていた。
「民間人? んー、じゃあ人間はいらない。あの犬だけッ! ねーお願い。エドワールぅ」
両手を合わせてお願いをするヨハンナだが、エドワールは首を縦に振らない。エドワールの視線がキーキー喚くヨハンナから、ベルとネジュ、そして二人を守るように立つリュンヌに向けられた。
「……懐かしい顔だな」
「………?」
ベルはエドワールの言葉に眉を顰めた。少なくとも、あの男と自分は面識がない。一度会ったことがあるなら顔を見た瞬間に思い出すはずだ。
ならばまさかリュンヌかネジュと面識が? と思い、動かない首を捻り二人を見るが、二人とも怪訝そうにエドワールを見ていた。
そして、気がつく。漆黒の瞳が見つめているのは、自分でもネジュでもなく、リュンヌだということに。しかし、リュンヌはその視線を真っ向から受けながらも、怪訝そうな表情を崩さない。やがて沈黙に堪えられなくなったのか、リュンヌが低い声で言った。
「………誰だよ、テメェ。俺の記憶が正しければ俺はテメェに会ったことはねえ」
「安心しろ、おまえの記憶は正しい。私がおまえを知っているのは私がかつておまえと同じ立場にあったからだ。直接の面識はない」
「…………あ?」
背筋に霜が下りる。ベルは辺りの温度が一気に十度下がったような錯覚に襲われた。
尋常じゃない殺気がリュンヌの身体から陽炎のように立ち上る。そこまで身長差のないはずのリュンヌが、そびえ立つ巨人のように見えた。
クーーン、とレニヴァが鳴く。リュンヌは犬歯を剥き出し、凄惨と笑った。
「冗談は止したほうが身のためだぜ。"俺と同じ立場"? 居るわけがねえんだよ、そんなやつ」
「事実は変えられない。私はおまえを知っている。いつか、手合わせをしてみたいと思っていたんだ。あの頃のおまえは私から見れば英雄のようだったからな」
「ハッ!」
リュンヌが声を立てて笑う。恐怖を誘う笑いというのは、まさにこれだ。
「笑わせんなよ。英雄? 俺が? 本気で冗談きついぜ。俺はただのしがない鉄工技師だ。それ以上でも、以下でもねえ。解ったらさっさと帰れ。俺はこれから足りない道具の仕入れに行くんだからよ。通りすがりのガキにちょっかい出しているテメェらとは違って、忙しいんだ」
エドワールの目がすっと細められる。数秒間、緑玉の視線と黒曜の視線がぶつかり合う。その睨み合いに痺れを切らしたのは、当事者たちではなく、憂色を漂わせていたヨハンナだった。
「ウザったいなあ! もういーじゃん! こいつら全員殺しちゃえ!」
高らかに言ったヨハンナは、どこからか小瓶を取り出すと、中に入った液体を周りに振り撒いた。
咄嗟にベルを守るように身構えたネジュは、ヨハンナがそれ以上動かないのを見て、眉を顰める。殺すと大上段に宣言したわりに動きが少な過ぎる。と、その時、ネジュはかなり強い力で服を引っ張られ、思わず声をあげた。
「うおっ!?」
前のめりになったネジュの口に布が押し当てられる。払おうと手をあげたが、それを振り下ろす前に静かな声が届いた。
「………動かないで……下さい……。出来るだけ、息を吸わないように………」
ネジュの口に布を当てていたのはベルだった。動けないんじゃないのかよ。そう思ったが、額に脂汗を浮かべ速い呼吸を繰り返しているベルを見ておとなしくすることにする。
しかし、ある考えに至り、布を口に当てたままネジュは口を開いた。
「あんたは平気なのかよ。口に布当てるってことはあの女が撒いたの、毒かなんかなんだろ?」
ベルは驚いたように目を瞠る。しかし、すぐに微笑むと、言った。
「俺は……この手の毒には、慣れてますから。たいした障害……には……なりません」
毒に慣れてる? なんだかすごいことを聞いた気がする。
それに心なしか口調もはっきりし、呼吸も安定し始めているような感じもする。さっきまでひどく辛そうに歪められていた顔も、今はそうでもない。相変わらず血の気は引いて青白いが、その眼差しはしっかりしていた。
「弱いやつ、みぃんな死んじゃえっ! ベルだけ生きてればそれでいーや!」
ケラケラとヨハンナが笑う。自分は抗体を持っているのだろう。ずいぶんと余裕な表情だ。
その余裕が、命取りとなると、彼女はまだ気付いていない。
狂ったように笑うヨハンナを黙って見ていたリュンヌは、口に布も当ててなければその場から動いてすらいない。ガリガリと頭を掻くと、リュンヌは不意にヨハンナに向かって走り出した。
………息を止めたままで。
まさか来るとは思っていなかったヨハンナの反応が遅れる。その脇腹にリュンヌの拳が突き刺さった。小柄な身体が吹き飛び、ろくに受け身も取れずに壁に叩きつけられる。
「かはっ……」
弓なりになったヨハンナの身体が地面に触れる前に、リュンヌは彼女に向かって地を蹴っていた。身体の脇で拳を固め、地を這うように駆ける。その様はまるで、獲物を仕留めんとする黒狼のようだった。
リュンヌの拳がヨハンナを捉える――、その瞬間に、リュンヌは拳を引くと後ろに跳躍した。
一瞬前までリュンヌがいたところに剣が突き刺さる。リュンヌは屋根の上に視線を向けた。
「だから止せと言っただろう。さっき私が言った"民間人"はあっちの少年だけ。相手の実力も視ずに、下手に手を出すからこうなるのだ」
二振りの剣のうち一つを投げたエドワールは、もう一振りの剣を手に淡々と言葉を紡ぐ。白刃のような鋭い瞳で自分を見るリュンヌをちらりと見たエドワールは屋根の上で踵を返した。
「いつまで寝ているつもりだ、ヨハンナ……。引くぞ」
「何言ってんだ、テメェ。その女は完全におちて……」
「うぅん……ちょっと待ってえ、エドワールぅ」
何事もなかったかのように、ヨハンナがむくりと起き上がった。リュンヌは信じられない思いでそれを見つめた。
手加減はしていなかった。肋骨を折り砕いた感覚が今も手に残っている。意識は残っていたとしても絶対立ち上がれないようにしたはずだったのに。
ヨハンナは、うーん、と伸びをすると、リュンヌたちに背を向けた。
「逃げるのか?」
リュンヌの言葉にエドワールとヨハンナが立ち止まる。エドワールは肩越しに振り返ると、虚空のような瞳を向けてきた。
「……らしくない挑発だな。そこの二人を庇いながら私たちと戦って、どちらが優位に立てるか、わからないわけではないだろう」
リュンヌは黙ったままそれを見つめる。否定しないのが、何よりの肯定だった。
去り際にヨハンナが振り返る。鮮やかな赤い髪が鮮明に網膜に焼き付いた。
「また迎えに来るねっ」
ヨハンナはバイバイ、と手を振ると、屋根の上を移動するエドワールを走って追いかける。やがて角を曲がると、その姿は見えなくなった。
沈黙が空間を支配する。そんな中、口を開いたのはやはりリュンヌだった。
「この場を離れるぞ。動けるか?」
「はい」
ベルが立ち上がる。まだ若干ふらついてはいるものの、ちゃんと自分の足で立っていた。
さっさと歩いていくリュンヌを、ベルとネジュ、一番後ろを犬のレニヴァが追いかける。百メートル近く離れると、リュンヌは、ぶはっと息を吐き出した。
そのまま、ぜぇぜぇと数回深呼吸すると、髪を掻きあげ空を仰ぐ。ネジュが心配そうにその傍らに駆けよった。
「平気か、兄貴?」
「問題ねえ。……くそっ、見栄はらねえで、布、口に当てときゃ良かったぜ。十分以上息を止めたままでいるのは以外としんどい、な………」
はぁ、と息をつくと、リュンヌは流し目を黙ったままのベルに向ける。
ニヤリと笑うとリュンヌは肩を竦めて見せた。
「………訊くか? 俺が何者か」
反応を示さないベルに、リュンヌは続ける。
「まあ、普通のやつならここで背を向けて逃げるだろうな。俺、明らか危ねえやつに見えるだろうしよ。テメェは普通じゃねえだろうが、逃げても俺ぁ追わねえぜ。俺は"そっち"に戻る気はねえから」
「訊きませんよ」
皮肉げに笑ったリュンヌに、ベルははっきりと言った。リュンヌがほんのわずかに眉根を寄せる。
「ひとには知られたくない秘密や過去が一つや二つあってもおかしくはありません。だから俺は訊いたりはしませんし、かといって逃げたりもしません。相手のすべてを知っていなければ、側にいてはならないという決まりなんてないのですから」
リュンヌは一瞬目を見開くと、右手で顔を覆い顔を伏せた。肩が小刻みに震えている。最初はクックッと噛み殺したような小さな笑声だったのが次第に大きくなり、次の瞬間には大きく口を開けて豪快に笑い始めた。
「ハッハッハッ! 初めてだぜ、そんな切り返し方をされたのは!」
ひとしきり笑うと、リュンヌはニヤリと口角を吊り上げる。その様を見て、ネジュが呆れたような顔で嘆息した。
「ったく、兄貴は俺が勝手なことすると散々怒るくせにさ」
「うるせえ。おい、ガキ。人手が必要になったらいつでも言え。手ぇ貸してやっから」
「え?」
「え、じゃねえよ。困ったことがあったらいつでも言えっつってんだよ」
「何故です? 俺は貴方から見たらただの他人のはずですが」
ベルが素直に疑問を口にする。
「気に入ったからだ。文句あっか?」
堂々とそう言うリュンヌに、さしものベルも言葉が見つからない。ネジュがもう一度、はぁ、とため息をついた。
「兄貴は一回決めたら聞かないからなあ」
ワン。
ネジュの言葉を肯定するように、レニヴァが一つ吠えた。