第一話 『彼女』
いらっしゃっい。
あら、あなた初めてのお客様ね。
ええ、今宵もいいお伽話を仕入れてあるわ。
そこにお架けなさいな。お茶は如何が?
今宵あなたを夢へ誘うのは、いつも通りの日々に嫌気がさしていた私の知り合いの元に訪れた、いつも通りじゃない出来事のお話。
少し深刻な内容だし、つまらないかも知れないわ。今なら間に合うから、引き返したら?
そう、いいわ。ならば聞いていきなさい。
当時彼女の住んでいた国はアジェンドって言って、アジェンド人が人口の八割を占めているところ。アジェンドは戦争で儲けた国で言うまでもなく軍事国家だったわ。
彼女みたいな一市民、ましてや戦いには無縁なただの女性にとって、軍事国家だろうが何だろうが、関係なかったのだけれど。
そう、あの日からだわ。
彼女が、アジェンドが軍事国家ってことに憤りを感じ始めたのは。
…IN…
いつもと変わらない賑やかな街道には、いつも通り日用品を買いに来た近所のひとたち。
うるさく魚を勧めてくる親父。聞き飽きた台詞、このひとは新鮮だよと一日に何回言うのだろう。
見世棚にのった鮮やかな果物も、派手な化粧をした客引きも、道のど真ん中で話しに花を咲かせているおばさんたちも。
今日も、『日常』だ。
そういう彼女も、いつも通りの外出用の小綺麗な服を着て、最近気に入っているハンドバックを持って、『日常』の中に違和感なく溶け込んでいる。
『日常』じゃない、何らかの変動を彼女は望んでいた。彼女は決して喧嘩とか流血騒ぎが好きな訳ではなかった。ただ、いつも通りの『日常』に飽きてしまっただけ。彼女の探求心は、『不変』ではなく『不偏』を望んでいた。
そして、そういうものは突然顕れるものだと、彼女はうっかり忘れていたのだ。
「うるさいな! 診ねえっつんてんだろ!!」
突然の怒声に、反射的に視線をそちら向ける。すると、建物の入口で口論している二人の人物が目に入った。胸の前で腕を組んだ四十を過ぎたくらいの男性と、みすぼらしい服を纏ったまだ若い青年。
たしかあそこはこの街で数えるほどしかない医院だったはず、と彼女は記憶を手繰る。そうしているうちにも、彼らの言い争いは続く。
「お願いします! 薬をくれとはまでは言いません! 診てくれるだけでいいんです!」
「だから診ないっつってんだろうが! というより、おまえロヴェル人だろ!? 迷惑なんだよ、他を当たってくれ!」
ロヴェル人。アジェンドの人口の残りの二割である。軍事国家であるアジェンドが植民地として吸収した小国の一つで、軍事が特化し工業が盛んで当時はかなり栄えていた。
アジェンドが攻めて来たと知ったときロヴェルは必死に抵抗を示したが、国の大きさが鍵になりとうとうロヴェルは降伏。戦に負けたロヴェル人はアジェンド人の奴隷の用に扱われ、差別の対象になっていた。
白衣を着た四十過ぎの男性はアジェンド人、みすぼらしい服装の青年はロヴェル人のようだった。乱雑に対応されるのも仕方がないのかも知れない。
しかし青年は引き下がらなかった。
「他のところにはもう行きました。もう此処しかないんです! お金もこれで足りないというのならもっと用意しますから、お願いします、どうか、どうか!」
彼にそんなものがあるのかは知らないが、青年はプライドをかなぐり捨て、男性の足に縋った。我慢が限界に来たのか、男性の顔が少しずつ赤くなっていく。
そこにいる誰もが噴火を予想した。
「うるせえってんだ!」
予想通り青年が殴り飛ばされる。バランスを崩して道に倒れた青年は、赤くなった頬を押さえて上体を起こし、静かに男性を見つめた。感情の読み取れない紫玉のような瞳が男性の赤ら顔を映す。
そこで初めて男性の態度が変わった。
急にうろたえたように辺りを見渡すと、ちらちらと横目で青年を見る。
その瞳に映る感情、まさかあれは、恐怖?
彼女は友達とまではいかないものの、医師とは多少の面識があった。頑固で融通のきかない彼は、銃を突き付けられても怯えるどころか、無抵抗のものに銃を向けたことを叱るようなひとだ。そんなひとが、武器も持っていない、地べたに倒れた青年を怖がっている?
なんとも不可解な光景だった。
「とっ、とりあえず帰ってくれ!」
男性が扉の向こうに消える。動揺を隠すためか勢いよく閉められた扉が派手な音を立てた。
その余韻が残る中、青年の視線が、すっ、と周りの野次馬に向けられる。その場にいた誰もが青年から逃れるように目を逸らす。何人かは目を逸らすだけでは飽きたらず、踵を返す者もいた。
ふと、青年と彼女の目が合う。彼女は、彼女だけは目を逸らさなかった。その憂いを帯びた、輝く紫苑の瞳を真っすぐに見つめ返す。長く感じたけれど、実際はほんの一瞬の出来事だった。
にわかに周りがざわめく。ハッとした青年は俊敏な動作で跳ね起きると、彼女とは逆方向に走り出した。彼女は追いかけようとしたけれど彼はなかなかの俊足で、あっという間にその背中は群集に紛れ見えなくなってしまった。
「なんなんだ、あのガキ」
「こっちです、お巡りさん!」
「あ、でね、あそこの奥さんが……」
「なんて不快なロヴェル人、嫌になるわ」
耳障りな効果音で賑わう中、彼女は青年が消えた方だけをじっと見つめていた。
…OUT…
これが彼女と彼の出会いよ。
え? そう急かない、急かない。
質問は全てが終わってからよ。まだ夜は更けてないわ。
あら、紅茶が冷めちゃう。どうぞお飲みになって? その茶葉、美味しいって評判なのよ。
…IN…
人気のない暗い路地で、青年はようやく立ち止まった。壁に寄り掛かり、胸に手を当てあがった息を必死に整える。
彼は苦しそうに息を吸うと、苦々しく顔をしかめた。長めの前髪を左手で掻き上げ、そのまま壁ずたいに座り込む。身体を丸めると小さく小さく呟いた。
「リロヴィーナ……」
「それ、あなたのお姉さん?」
青年の反応は過敏だった。
猫のように一瞬で跳ね起きると後ろに数歩跳びすさる。十分に距離をとった青年は紫色の瞳を鋭く光らせ、少し腰を落とすと臨戦体制をとった。その間、一秒に満たない。
が、彼はその体制のまま眼を剥いた。見覚えのある人物だったからである。
「あなたはさっきの……」
「その、リロヴィーナってひと怪我でもしているの?」
青年に声をかけたのは彼女だった。
走った彼をさりげなく追いかけた彼女は、人気のない路地に入っていくのを物陰から見ていたのだ。
彼女は小さく首を傾げる。
「あなた、健康そうに見えるから医者が必要なのは別の人なんでしょ? でもってあなたが呟いた名前、女性のものじゃない。だからお姉さんでもいるのかしらって思ったんだけど」
違っていたかしら、なんていう彼女は、言葉とは裏腹に自信満々な顔で青年を見る。
黙ったままの青年に、彼女は続けた。
「その恰好から察するにあなたたちまともな生活できてないんでしょ? 私は医者じゃないけど看病くらいは出来るつもりよ。つまり単刀直入に言うと、あなたたち私の家にいらっしゃいな」
青年は驚いたように紫色の瞳を瞠り、しかし怪訝そうに眉を顰めた。
「何故俺たちを助けようとするんですか。あなたはアジェンド人じゃないですか。俺たちを助けてもあなたにメリットがあるとは思えませんが」
猜疑心に満ちたその問いに、彼女は待っていましたとばかりに満面の笑顔を浮かべた。
「いいのよ、私にメリットなんてなくても。ただあなたが気に入ったの」
すっと青年が目を細める。最初は彼女を疑うような目で見ていた青年は諦めたようにため息をついた。
ゆっくりと構えを解くと、くるりと踵を返す。
その背中に彼女はやけに落ち着いた声で訊いた。
「来てくれるのね?」
「本意ではありませんが。………妹が流行り病を拾ってしまったみたいで、今、借りた部屋で休ませているんです。すごく辛そうにしてて、医者にも診てもらえなくて……。正直貴女の申し出はかなり有り難い」
ついてくる彼女を振り返り、青年はかなり厳しい表情で言った。
「一つ約束してください。もし危険だと判断したら俺たちなんか気にせずに逃げてください。貴女はあくまで『親切な他人』だ。俺たちと貴女は顔は見たコトあるかな程度の関係、いいですね?」
余程彼女の深入りを望んでいないらしい。
彼女が頷くまで、刃のような切れ長の瞳でじっと見つめていた青年は、彼女が頷いてやっとまた歩きだした。
青年の態度を見るに、教養がかなり行き届いているように思う。きつい物言いだが、口調は丁寧だし相手に多少の敬意をはらっているのも伺える。
どこぞの大金持ちの嫡子かとも考えたが、その考えは青年の服装が裏切っていた。薄汚れたシャツに七分丈のズボン、ズボンから伸びる脚には隙間なく布が巻かれているだけで靴はない。それらを隠すように裾が膝辺りまである、質素だが幾分かマシな黒い上衣を羽織っていた。
それに金があるならわざわざ町医者に診察を請う必要などない。
これは絶対裏がある。
もし彼女の親友がこれを聞いたら、推理小説の読みすぎだ、などと言われただろうが、彼女は己の出したその結論に、一人満足そうに頷いたのだった。
…OUT…
彼女はようやく見つけたの。
これが、止まっていた時間、彼女にとっての『日常』が終わった瞬間だったわ。
そういえば彼女、推理小説が大好きだった。
………え? ええ、そうね。彼女のうちの棚も、そこにある私の棚のように、シャーロック・ホームズとかポアロとかが沢山詰まってたのよ。
…IN…
まるで十キロの重りを括り付けたかのように、手足が重い。全身に力が入らなくて、肺が少しでも多くの酸素をその身に取り入れようとせわしなく動く。
浅く短く呼吸を繰り返していたリロヴィーナは、全身を取り巻く熱と倦怠感のなかに心地良い冷たさを感じた。
まるで砂漠に落とされた一滴のように、それはじんわりとリロヴィーナの中に染み渡っていく。
その冷たさを頼りにリロヴィーナは沈んでいた意識を引っ張りあげた。
「済まない、起こしたか」
目を開けた瞬間に耳に飛び込んで来た声に、無意識に込めていた全身の力を抜いた。
ゆっくりと首を動かすと、額に乗っていた布が滑り落ちる。パサッと音をたてたそれを、リロヴィーナの大好きな手が拾いあげ、再び熱を帯びた白い額に乗せた。
「お兄ちゃん……」
「なんだ、リロ。喉が渇いたのか?」
兄に振り向いてほしくて声をかけたのだが、その言葉にひどい喉の渇きを覚えコクンと頷く。
待っていろ、という声の後に気配が遠ざかっていくのを感じとる。数秒後、手渡された一杯の水をリロは喉を鳴らして飲み干した。
もう一杯いるか? という兄の問いに首を横に振ると、リロはたった一人の家族を見つめた。
癖のない艶やかな黒髪に、切れ長の眼。その奥には紫玉を思わせる美しい瞳が輝いている。日焼けした肌は浅黒く、もともとは白かったあの頃の面影はないに等しい。それでも見栄えがするように感じるのは、やはり兄の容貌が稀に見る美形だからだろう。
じいっと見つめてくる妹に、彼は穏やかな口調で尋ねる。
「なにか、欲しいものでもあるのか?」
兄は比較的穏やかな気性の人だ。滅多なことでは口調を荒げたりせず、年下だからと見下したりもしない。アジェンド人だから、ロヴェル人だから、という言葉を最も嫌いとする兄は、誰にでも同じ態度で接し、常に平等を心掛ける、今の時代珍しい人だ。そんな兄でも、こんなに優しい口調で話してくれるのは自分だけだと知っているリロは、顔を綻ばせた。
「ううん。平気。心配かけてごめんね、お兄ちゃん」
「何言ってんだよ。そんなの気にするなっていつも言ってるだろ? おまえは元から身体が弱かったんだから、無理だけはしないでくれ」
優しく諭され、リロは微笑み頷いた。兄が本心から妹を思って言ってくれているのがわかっているからである。
部屋のドアがノックされる。リロはそこでようやくここが知らない場所だと気がついた。
染み一つない白い天井に同色の壁。リロが寝かされているベットは、飾り気はないもののそれ自体は上質でふかふかだ。普段ロヴェル人が使う、木によれよれの綿を詰め込んだものとは天と地の差があった。そのほかに家具は小さなテーブルが一つあるだけで、かなり広く感じる。
兄が席をたち、ドアへ向かう。ドアのそばに立つと、問うような眼差しでリロを見た。その視線を受けて、リロは値踏みをするかのように数秒扉を凝視する。リロが頷いたのを確認し、兄は扉を開いた。
そこに立っていたのは籠を持った女性だった。リロの知らないひとだ。しかも見る限りアジェンド人のようで、それを認めたリロは細い首を傾げた。
アジェンド人はロヴェル人を軽蔑し、迫害する。それくらいのことは十四歳のリロも周知の事実だった。だが、その女性は目を開けてこっちを見るリロを見た瞬間、安堵したように微笑んだのである。
「よかった、目を覚ましたのね。昔祖母が作った薬だから効くかわからなかったけど、効いてよかったわ」
そう言って部屋の中に入ると、持っていた籠をテーブルに置き、ベットの脇に屈んで寝ているリロに視線を合わせた。
珍獣でも見るような目つきで女性を凝視するリロに、彼女は笑って言った。
「はじめまして、リロちゃん。私はエリティア。この家の持ち主よ」
「リ、リロ、です……?」
疑問系で自己紹介するというなんとも珍しい行動をしたリロは、当惑の視線を兄に送る。エリティアの隣に並んだ兄はいつもと変わらない笑みを浮かべた。
「エリティアさんは医者を探しにいった大通りで出会ってね、リロが病気だと知ると是非自分の家に来てくれって言ってくれたんだ。アジェンド人だけど、薬をくれたり、すごく優しいひとだよ」
端から見たら別になんともない会話だっただろう。しかし、リロはその会話に隠された意味をちゃんと掴んでいた。
『医者を探しにいった大通りで出会った』ということは、少なくともエリティアは"詳しい事情"を知らないということになる。そうなると何故彼女がリロの本名を知っているのかは気になるが、人一倍慎重な兄が関係のないひとにむざむざ本名を教えるはずがない。何か不測の事態が起きたのだろう。
リロは、"兄の言葉に納得した単純な妹"の笑顔を浮かべた。
「そうなの? じゃあエリティアさんはリロの恩人だね」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。その黒髪と翡翠色の瞳もとっても綺麗よ、リロちゃん」
「そういうエリティアさんの金色の髪もとても綺麗だよ。私、金髪はアジェンド人の象徴だと思って嫌いだったけど、エリティアさんのは好き」
「まあ、そんなに褒めるとお姉さん調子乗っちゃうわよ」
至極楽しそうに話すエリティアは、いつの間にか隣にいたはずの兄がいないことに気がついた。思わず視線を巡らせるエリティアにリロはさも面白そうにクスッと笑う。
不思議そうに目をしばたかせるエリティアに訊いた。
「気づかなかったでしょ?」
「全然だわ。一体いつ出ていったの?」
「ついさっきよ。お兄ちゃんは神出鬼没なの。私だって未だにいつの間にか居なくなっていて焦ったりするもの。今日初めて会ったひとがびっくりするのも仕方ないね」
そう、その兄の特技のおかげで私たちは今まで生き延びられたようなものなのだから。
胸の中でそうっと呟く。
何も知らないエリティアの無邪気な笑顔を見ていると騙しているような気がして少し気が引けるが、仕方がないのだ。
絶対彼女を巻き込む訳にはいかないのだから。