グリーンバレーの魔女 2
次の目覚めはスッキリ、しゃっきり、眠気の残滓も全くなかった。
「おはようございます、カノン」
ノアの声がして横を見れば、ノアはいつもの肘枕ポーズで私に添い寝をしてくれていた。
「おはよう、のあ!」
私は横に転がってぽふんとノアの懐に収まる。眠気がしつこく残っている時は、ノアに抱っこされて二度寝をするのも至福の時間だけど、今日はとっても目覚めが良い。全く眠くない。
「ふふふ、昨日よりも元気ですね」
「うん」
もう完全に目が覚めた。そしてキュルルと私のお腹が鳴る。
「まずは軽食を取りましょう。それからお風呂もいただきましょうか」
ノアに抱っこされながら居間に移動すると、居間のテーブルにはクローシュが被せられた小さなサンドイッチが用意されていた。ハムとチーズのサンドイッチとか、キュウリのサンドイッチとか、フルーツとクリームチーズのサンドイッチもあった。小さくて全部の味が楽しめて嬉しい。
もちろん私が食べきれない残りはノアが全部食べてくれる。いつもありがとう。おかげで食べ残す罪悪感無し。
全部美味しかったとワゴンを下げるメイドさんに伝えると、料理長に必ず伝えますと笑顔で約束してくれた。こんな軽食までも料理長自ら・・・。私はどういう立ち位置でこのお城に居るのか、未だ分かっていないんだけど・・・。
「さて、久しぶりに浴室でお湯を使えますね。せっかくですから、贅沢をさせてもらいましょう」
「うん」
エスティナのサウナっぽいお風呂も嫌いじゃないけどね。やっぱりお湯をたっぷりかけ流せるって、お貴族様の特権なんだろうね。
「おおー」
来賓室の浴室には、真鍮の猫足が付いた真っ白なバスタブにお湯がなみなみと湛えられていた。
お湯に浸かるなんて、この世界に来て初めての事だ。スタンレーの来賓室には多分浴室もあっただろうけど、私の部屋にお湯を運んでくれる人がいなかったからなあ。
ぬるめのお湯だけど、南国のアストン王国ならこれ位がちょうどいい。
私とノアはゆっくりと湯船を堪能し、良い香りの石鹸や洗髪剤でしっかり体を洗う。
そしてお貴族様的お風呂から上がった私とノアは、庶民の冒険者とその子供スタイルに戻る。
もう今更だけど、私達のお世話をしてくれるメイドさん達の方が私とノアよりも高級な服を着ているよね。まあそれなりの服装が必要なら、そもそもお城への立ち入りも許されていない筈だから気にしない。それに昨日私達の寝室に居たミンミも普段の冒険者スタイルだったしね。
エスティナでのアシュレイ様と冒険者達の距離が余りにも近くて、ちょっと領都での振る舞い方も悩む所なんだけど、私とノアはアシュレイ様と知り合ったばかり。ご領主様と領民の線引きは崩さないようにしよう。
軽食をお腹に収めて身を清め、私とノアが小ざっぱりとした所でアシュレイ様から午後のお茶の招待の手紙が届いた。
その途端に思い出す、アシュレイ様の隣にいた黒ペンキファウンテンの人らしき塊。
あれはほんとにホラーだった。
私の聖女の力が発動したという事は、あの黒ペンキはこれまで払ってきた黒いもやの類だったのかな。
そもそもアシュレイ様からの呼び出しでエスティナから領都までやってきたのだ。アシュレイ様からの誘いを断る理由が無い。手紙を持って来たメイドさんには、お茶のお誘いを了承する。
「さて、カノン。あの日、何があったのですか?なぜ聖女の力を発動する事になったのでしょう」
そしてお茶の時間になるまでの間、私の保護者による尋問が始まった。私はノアと向かい合わせで膝の上、居間の長椅子の上で抱っこされている。もちろん私のお尻は絶妙な力加減でノアに押さえられている。
別に隠すつもりも逃げるつもりもないんだけど。
「黒いペンキとは何ですか?」
「あのー、あのね。あしゅれいしゃまのとなりにいたの、くろいかたまり」
それから、私があの日見た事一部始終をノアに伝えた。
私が話し終わると、ノアはクルリと私の身体の向きを変え、お腹に両手を回して抱えなおす。
「そうですか・・・。カノン、その日アシュレイ様の隣にいらっしゃったのは、アシュレイ様の手紙にもあったアストン王国一と謳われる魔術士様でした」
「やっぱりー」
そんな気はしてた。
人語を話すという事は、この黒ペンキファウンテンは人なんだなと思った。
そして黒ペンキの塊は私の聖女の力に興味津々だった。王国一の魔術士が私の力に興味を持っているって、アシュレイ様言ってたもんね。
「それで、今日の招待されたお茶会には多分、魔術士様も同席されるでしょう」
「・・・だよねえ」
そもそも私達だってその魔術士の人に会うために領都に来たんだもんね。
「もう少し、休ませてもらいますか?せめて、カノンの身体が大人に戻るまで。その黒い塊は、カノンにとって恐ろしいものだったでしょう?」
「うーん・・・。ううん、あう」
先延ばししてもいずれは会わなきゃいけないし。私達も魔術士の人から何か話が聞けたら良いなって魂胆で領都まで来たわけだし。
「とっととあっちゃおう!ちんぱいなことは、はやくかたじゅけちゃおう!」
「ふふ、そうですね。気が重い事は後回しにせずに、先に片付けてしまいましょう」
私の頭頂に何かが触れると同時にチュッと音がした。
私がノアを見上げるとノアも私を見下ろしていた。
「のあ、ちゅうちた?」
「はい」
「・・・・・」
ノアは涼し気な笑みを浮かべながら、それが何か?って顔をしている。
前にも頭にキスされたことがあったけど、それも幼児退行中の事だったな。
父性有り余るノアは、幼児の私を前にすると時々思い余ってキスしてしまうのだろうか。19歳の私にはキスしてこないしね。でも家族間なら大人同士でもハグ&キスとか欧米的にし合う世界なのだろうか。
良く分からないけど、とりあえず流しておこう。ノアが何て事ない顔しているのに、こちらが過剰に反応するのも恥ずかしいし。
私が何となくキスを落とされた頭を撫でていると、ノアが私の頭の上でクスクスと笑いを零す。
私が幼児退行を起こしてから、ノアも殆ど来賓室から出ずに過ごしていたらしい。これでもかと手厚いルームサービスを受けながら。
本当はお城に到着した5日前には魔術士の人と顔合わせする予定だったんだもんね。
今日はアシュレイ様からも何か話があるんだろうし、しっかりと話し合いをしないとね!
「もやもや」
壁一面がガラス張りになっている、庭に面した明るいサロンには、アシュレイ様とミンミと一緒に居た気がする金髪美人、そしてその隣に灰色のもやもやを全身に纏った人がいた。
金髪美人はアシュレイ様の奥様だった。名前はブルーベル様。
ベルって呼んでねと、ベル様は領主婦人らしからぬ気さくさで、改めて私に挨拶してくれた。
ベル様は私が気絶している間、あれやこれやと来賓室のサービスを手配してくれたのだそう。
「カノン、体調はどうだ。昨日はまだ本調子ではなさそうだとベルが言っていたが」
「カノンちゃん、サンドイッチ食べられた?」
「はい。おいちかったでしゅ」
「ブルーベル様、細やかにお気遣いくださり、ありがとうございます」
アシュレイ様とベル様に促されて、ノアは私を抱いたままアシュレイ様の対面、ベル様の隣に座る。
すると、自動的に私達は灰色のもやもやの人の隣にも座る事となる。
「ふふふ。随分と可愛らしくなったな、スタンレーの聖女よ」
まるで灰色のベールを全身に纏った感じになっている人は、ノアの腕の中に収まる私を覗き込んで灰色のもやの向こうで笑った。
この声は、黒ペンキファウンテンの人と同じだ。
灰色のもやでハッキリは見えないけど、その人は真っ黒なドレスを身に纏った女性だった。そして、座高が長身のアシュレイ様と同じくらいある。黒いペンキに包まれて大きく見えていたのかと思ったら、この人、実際に2メートル近いんじゃないかな・・・。
「かのんともうちましゅ。よろちくおねがいちましゅ」
この方には色々と教えてもらいたいし。
下位の者からの挨拶は基本だもんね。
私がノアに抱っこされたままではあったけど頭を下げると、灰色のもやを被った黒いドレスの女性は、赤い唇を奇麗に弓なりにした。
「スタンレーの聖女、私に頭を下げる事は無いぞ。私はビアンカ・ケープゴッド。王都を追われたしがない魔術士さ。スタンレー門外不出の聖女よ。お前の身はこのアストン王国において、王族に匹敵するほどの尊い身かもしれぬぞ」
「・・・・えへ・・」
・・・・またまたー。
ちょっと魔術士様改めビアンカ様が何を言っているのか分からない。私は異世界から召喚された異世界人だけど、尊き身などと到底言えない庶民だよ。
私が笑って流そうとすると、ビアンカ様も灰色のもやの向こうで笑みを深める。
「カノン、昨日は起きていられぬほどだったと聞くが。今日は元気そうだな。お前達が領都へ到着した日の事だが、お前の力が発動したという事は、ビアンカに黒いもやとやらが付いていたのか?」
「んえーと、はい」
アシュレイ様の質問に正直に答える。
黒いもやどころの騒ぎじゃない。真っ黒いペンキというかコールタールというか。もうビアンカ様本体が見えない位だったよ。でも今日のビアンカ様だって、今まで見た人の中で随分酷い。体全身を灰色のもやもやがすっぽり覆っているからね。
・・・ん?
そういえばノアのもやもやは、体全身を水に溶かした薄墨のようなもやが覆っていたな。
でも、他のエスティナの人達やアシュレイ様は体の一部分だけだった。
うーん?
全身を覆われている人と、体の一部分だけの人は何が違うんだろうな。
「スタンレーの聖女、カノンよ。私の穢れの殆どを吹き飛ばす解呪の力、見事であった。お前の魔力が満ち足りていれば、人の身にため込んだ呪など一瞬で消滅させられるだろう。しかし今、お前の魔力はほぼ無いに等しいほど枯渇しているではないか。何故それほどに魔力を消耗したのだ」
「・・・・・」
何故と言われても。
私はビアンカ様の質問に何も答えられない。
「ビアンカ様。カノンの体質について、聖女の力について、私達は分からない事ばかりなのです。もし、ビアンカ様にお分かりの事があれば、どうか私達にご教授くださいませんか」
ノアのお願いに、ビアンカ様は形の良い指を顎に当てた。
「ふむ。私にとっても聖女の力は未知の物ゆえ、その力の解明にはある程度の検証が必要になるがな。アシュレイの呪いを吹き飛ばしたその力、先日この身でも確かめる事が出来た。カノンよ。私のこの身は、今どのように見えている?」
「・・・はいいろの、もやもや。あたまからちゅましゃきまで、じぇえんぶ、もやもやでしゅ」
ここで嘘を付いてもしょうがない。私は今目に見えるありのままの状況をビアンカ様に伝えた。
「うん。私の見る景色とカノンの見る景色は似通っているようだな。私の目には、自身の身体が煤煙を纏っているように見える。しかしそれでも煤煙を透かして私の目で私の身体を見る事が出来る。昨日までの私は黒いインクを全身に被ったように黒く塗りつぶされており、私は自分の身体は鏡越しでなければ見る事は叶わなかった。まあ、私の世話は侍女に任せているゆえ、自分の身体が見えずとも支障はない。手元が見えない事で、食事をする際は慣れるまで難儀したがな」
「しょうでちたかー」
「自分の手が肉眼で数年ぶりに見る事が出来るようになった。おかげで手元も見えて食事が楽になったぞ」
それは何より・・・。
「私の長年の頭痛、倦怠感といった体調不良も改善された。アシュレイの片頭痛もお前が解呪を成したおかげで改善されたと聞く。本当にお前の力は大したものだ」
「おしょれいりましゅ」
「私の体調不良は、残すは断続的に全身を苛む疼痛位の物だな。これまでと比べれば体調が万全になったと言ってもいい位だ」
え、断続的に全身を苛む疼痛って、結構ひどくない?
「カノン、礼を言う。私が長らく苦しめられてきた片頭痛が、あの日エスティナでお前に解呪してもらった日からすっかり治ってしまった。我慢できぬ痛みではないのだが、いつ何時起こるか分からん頭痛は非常に忌々しかった。それが人の呪いの所為であったなら尚更腹立たしい限りだ」
「のろい?」
「ああ、私の全身を今も覆い尽くしている物。アシュレイの左足に執念深く潜んでいた物。人の恨み、妬み、嘆き、負の感情が凝り固まった呪いだ」
黒いもやもやが、人の呪い?
エスティナの人達の場合は、獣から受けた傷跡に大抵黒いもやがくっ付いていた。黒いもやを身に付けている動物もいた。だから魔獣や動物が黒いもやの原因なのかと思っていたけど。
「ビアンカ様、私に未だ穢れが残っているとおっしゃいましたが、私にも呪いが?」
「聖女の騎士、お前は表層の物は解呪がされているぞ。あとは深層の物だな」
ノアに呪いが残ってる?
私のお腹に回された手を掴んでノアを見上げれば、私を見下ろしたノアが私を安心させるかのようにフッと笑った。
「カノン。前にまるで生まれ変わったように体が軽いとあなたに言った事があったでしょう。今ビアンカ様の話を聞いていて、私も腑に落ちる事がありました。私は侯爵家に引き取られてから、父と兄に疎まれてきました。何なら父からは侯爵家に行く以前から・・・、憎まれてすらいたのかもしれません」
「のあ・・・」
「心配をせずともカノンの力をもってすれば騎士の呪いも解呪できよう。だが、まずはカノン。お前は魔力の回復に務めろ。今のお前は命を繋ぐための最低限の魔力しかない状態だぞ」
「ふえ?!」
思ったより私の状況、深刻だった。




