フェンリルとタエさんの話 3
そこは本や映像で見た事があるような、長閑な農村だった。
建物は日本家屋にそっくりだ。日本家屋と言っても、簡単な作りの小さな平屋がぽつりぽつりと、田畑の間に点在している。電柱の一つもなく、家屋からは細い煙が上がっている。その時代劇めいた風景を私は強制的に見せられている。
夕暮れの農村では、人々が一日の仕事を終えそれぞれの家に帰ろうと各々動いている。その人々は紺色や茶色の着物を着ていた。
そんな村の外れから、一人の少女が自分の家に向かっているのか早足で歩いていた。
タエ!と行き交う人々から声を掛けられて、その少女は笑顔で手をあげた。
この少女がタエさんだ。
人々の話す言葉は、言い回しが少し現代とは違うけど、ちゃんと日本語だってわかった。やはりこの農村は、昔の日本なのだと思う。
タエさんは、笑顔で人々に手を振りながらも歩みを止めない。
早足で歩いていたタエさんは、手を振ったその拍子に平籠に山盛りに乗せていた山菜を地面にいくつか落としてしまった。
タエさんが足元の山菜を拾おうとして屈んだ時、タエさんは目も眩む光に全身を包まれた。
長閑な農村から一人の少女が忽然と姿を消した。
それからは、私の身に起こった事と同じような事がタエさんの身にも起こった。
多分明治以前の昔の日本の、素朴な農村に暮らしていたタエさんは突然スタンレー王国へ強制召喚された。
私とタエさんに違いがあるとすれば、私には欧米の文化や欧米人の容姿に対する知識があった事だ。更にはファンタジー作品によく見られる異世界物も趣味として多少目にした事があった。だから私は自分が異世界転移をしたと、周囲からの碌な説明が無くとも自分の置かれた状況を把握する事が出来た。
けれど狭い自分の生まれ育った農村が世界の全てだったタエさんにとっては、スタンレー王国で見る物、会う人々、全てが未知のもので恐怖の対象だった。タエさんの元にやって来る人間全員が、これまで知る人間とは違う身形の異形の者達だった。タエさんは泣き喚き、渾身の力で近づく異形の者達に抵抗した。それからタエさんは部屋に放置され、日に2回食事が部屋の入り口に置かれるだけの生活となった。
日々周囲に怯え暮らすタエさんは、ある日男達に剣を突きつけられ、行き先も分からぬまま馬車に乗せられた。タエさんは、とうとう自分は殺されてしまうのだと思った。
だからタエさんは馬車での移動中に、異形の者達の目を盗んでどうにか逃げ出した。恐怖に突き動かされて、タエさんは道なき森の中を走った。隆起した地面に足を取られ、何度も転んでは立ち上がり、手足を傷だらけにしながらもタエさんは走った。
逃げ出したタエさんを異形の者達は追いかけてこなかった。
タエさんが逃げ込んだ森は異形の者達には立ち入れない、北の森の主、フェンリルの住まう領域だった。
そして森の中で疲れ果て、動く事も出来なくなったタエさんは、周囲の木々よりも体の大きな白い獣を前にこれが自分の死だと覚悟した。
これがフェンリルとタエさんの出会いだった。
どうした娘と、首を傾げるフェンリルの声がタエさんには不思議と聞き取れた。
フェンリルを山の神だと思ったタエさんは、フェンリルに助けを求めた。フェンリルはタエさんの頼みを聞いて、自分の住処へとタエさんを連れて帰った。
早春の北の森で、フェンリルの巣へと迎え入れられた事でタエさんは命を繋いだ。
それから働き者のタエさんはフェンリルに助けられながら3度の春を越え、その夏の終わりに寝込んだまま還らぬ人となってしまった。
タエさんは亡くなる前にフェンリルに約束した。
私は生まれ変わって、必ずお前に会いに来る。
どんなに時間がかかっても、必ずこの森に帰って来るから。
だから、シロ。どうか悲しまないで。
私が必死に鼻を啜っていると、ノアが私の鼻をハンカチで押さえた。
うぐう、まるでタエさんの一生を描いたドキュメンタリー映画を一本見たかのようだ。
ノアから借りたハンカチで鼻を拭き、目元の涙も拭った。うう、拭く順番を間違えた。鼻水が目に。
タエさんはフェンリルにシロと名付け、とても仲睦まじくこのフェンリルの住処で暮らしていた。もうその光景を思い返すだけでまた涙が出てくる。
タエさんは突然家族と引き離されて悲しんでもいたけど、この森でのフェンリルとタエさんの暮らしはとても穏やかな物だった。
「タエさんは、スタンレーの聖女召喚の被害者ですね。本当にスタンレーは、なんと罪深い非道を繰り返し続けているのか」
私を抱きしめるノアが、低い声でつぶやく。ノアにも私が見たのと同じ映像が見えたらしい。どのような仕組みか分からないけど、このタエさんの魔石にはタエさんの残留思念のような物が残っているのかな。
スタンレーの王城でタエさんはしばらく過ごしていたようだけど、周囲の人達が恐ろしい化け物のようにタエさんの目には見えていた。私はほぼ同じ環境ではあったけど知識の差もあったし、かなりタエさんより図太くて、しっかりただ飯を食らっていた。怯えて食事も喉を通らずにやつれていくタエさんは、ただただ可哀想だった。
「魔獣の魔石でもこんな事が起きるの?」
「私は聞いた事はありませんが、高位の魔獣の物であれば有り得るのかもしれませんね」
そっかー。
私の身体にはどうやら、タエさんと同じように魔石が体内にあるらしい。
魔石を持つ魔獣のくくりだから、白竜は私を娘認定していたのかもしれない。
そして、タエさんの過去を見ていて気になったのだけど、タエさんは森で暮らすうちに自力で治癒魔法を会得していたようなのだ。
タエさんは森の中で怪我をする度に自分に治癒魔法を使っていたけど、映像で見た限りでは治癒魔法を使えば使う程、タエさんは元気を無くしていったように思える。
心配するフェンリルを元気づけるために、気力を振り絞って自分に治癒魔法を行使するタエさんは、その度にどんどん弱っていった。その最期の姿は病に侵された物なのか、それとも。
「タエさんがカノンと同じ召喚魔法で召喚されていたのであれば、タエさんの身にも何か制限が掛けられていたのかもしれません」
ノアの考えと私の考えは一致していた。
タエさんはひょっとして、魔力の枯渇で亡くなってしまったのではないか。
でもこの事をフェンリルに伝えるのはあまりにも可哀想だ。
タエさんはフェンリルにもかなりの回数の治癒魔法を使っていた。タエさんはフェンリルを心配させまいと、元気になろうとして、最後の力を振り絞って自分にも治癒魔法をかけていたのだから。
「フェンリル。タエさんに会えたよ。タエさんは明るくて優しくて、素敵な人だね」
『そうであろう。タエと話す事はもう出来ないが、記憶の中のタエとはいつでも会える。だが・・・』
フェンリルがタエさんの魔石に鼻を近づけて来たので、私とノアはタエさんが寝起きしていた小さな洞穴の前から脇へ退いた。
フェンリルは再び小さな洞穴に鼻を埋める。洞穴の淵が薄青く光っていたので、フェンリルはまたタエさんの残留思念に触れているのだと思っていたのだけど、その洞穴の淵の光がフッと消えた。
「・・・フェンリル?」
しばらくするとフェンリルはゆっくりと、小さな洞穴から鼻先を抜いた。
『タエはまた私に会いに来ると言った。だが、私を心配したタエは未だこの森に留まっている。私とタエが再び会うためには、タエは一度天に還らなければならない』
「カノン」
ノアが目線で私の注意を促した。
ノアの目線を辿って私が小さな洞穴の中を見ると、タエさんの着物の中に残されていた魔石が粉々に砕けていた。
「そんな、フェンリル・・・」
『タエとの暮らしを思い返す度に私の心は慰められた。だがカノン、私はお前をタエと間違えてしまった。その時、私の心は抑えきれない喜びで一杯になった。記憶の中のタエと何度も会えるのは嬉しかったが、私はやはり、もう一度本物のタエに会いたいと思う』
「そっか、そっか・・・」
やばい、涙が止まらない。明日には滅茶苦茶目が腫れてしまうだろう。そして鼻水も止まらない。ノアから借りたハンカチはもうぐちゃぐちゃだ。
『私はもうしばらくしたら天に還る。だが、私が突然いなくなれば森が荒れるだろう。だから還るための準備もしなくては。お前のお陰で私も気持ちの区切りが付いた』
「フェンリル・・・。また会えたら嬉しいけど」
『私とお前が会えたのは、白竜が私とお前の縁を繋いだからだ。縁が繋がればいずれまた会えるだろう。さて、上で白竜が心配し始めた頃か。白竜の娘、カノン。その番も。タエと会ってくれた事、礼を言う。では、息災でな』
そう言ったフェンリルは洞穴の底で横たわり、目を閉じた。
フェンリルの話は終わったようだ。
ノアは再び私をおんぶすると、危なげなく洞穴の壁面を昇り始めた。
急な斜面のように見えて、洞穴の壁面には蛇行しながら道筋が作られている。これなら鈍臭い私でも、慣れたら洞穴に出入りが出来るかもしれない。
多分、フェンリルがタエさんの為に整えたのだろう。洞穴の寝床だって、小さなタエさんが危なくないように、でも一緒に洞穴で寝起き出来るように、後からフェンリルが作ったのではないかと思った。あんなに寝心地の良さそうな、壁をくり抜いた水晶のランプ付きのベッド。私だって寝てみたいなと思った。
よく見ればフェンリルの住処のそこかしこにタエさんへの気遣いが見て取れて、私の涙はしばらく止まらなかった。




