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奇跡の大地  作者: ばらせん
4/4

-4- 大人

 -1-


 私は教師になる。


 そう自分の将来を決めてからは順調だった。

 それまでは進学するか否か、四年制大学か短大か、就職先はどうするか、果ては居酒屋で何を頼むかまで、何事もこうと決めるまでに時間がかかっていた優柔不断な私だったのだけど、そう目標が決まってからはそれほど悩まずに何かを決めることができるようになった。


 教師になろうと思った切っ掛けは公務員だから安定していそうとか、そういう俗な理由を除けば一つだけ、絶対的な理由があった。

 その理由というのは、私が今までの人生で出会った人の中で最も責任ある大人が教師という存在だったからである。


 私の両親は私が幼い頃に離婚した。

 当然幼い私は両親のどちらかに付いて行くことになり、色々悶着の末、父だけが出て行き、私は母の元に残ることになった。人が聞けばこの出来事を不幸だという人もいるかもしれないけれど、当事者としてはそこまでの出来事とは思っていない。実はもう父の顔も覚えていないくらいである。

 だけど母にとっては違ったのだろう。ふとした瞬間に暗い顔を浮かべていたのを今でも覚えている。


 私が高校生の時、母が職場の同僚の人と再婚することになった。もちろん女手一つで私を育ててくれた母には幸せになってほしいと思っていたし、再婚すると聞いた時は応援もした。初めて会った男の人を、違和感を押し殺して“父”と呼ぶことだってした。


 きっと上手くいくなんて無責任にその時は思っていた。

 しかし、そんな新たな父も母を捨てた。


 その時は私が大学生で、一人暮らしをしていたので、何が悪かったのか、どういう理由だったのかも分からない。いつの間にか父となった人は赤の他人に戻っていた。理解できたことはただその事実だけである。

 しかしそんな状況でもこれから訪れる未来が悲惨になることだけは分かった。

 それからすぐ、予想通りに母は体調を崩し、寝込むようになった。無気力や人間不信によって働くこともできなくなり、病院に行けばうつ病と診断された。他人とはもちろん、友人だった人や同じ職場の人とすら会話することを拒否し、娘である私以外とは関わろうとはしなくなった。


 今まで母が私を守ってきたように。

 今度は私が母を守らなくてはならない。


 私は大人にならなければならないのだと、そう理解したと同時に肩にとても重い何かが圧し掛かった気がした。



 教員免許を取るため、教育実習生として母校の高校に久しぶりに戻った。

 私は授業で担当する生徒達を見て、過去の自分を見るような懐かしさと同時に当時は気付かなかった無責任な子供であるという印象を受けた。

 でもそれは何も悪いことではない。生徒が子供であることは当たり前なのだ。きっと彼らもいつか大人にならざるを得ない瞬間が来るはずで。私の役目はまだ子供の彼らを大人になるまで守ることだと自分を納得させた。


 だって私は責任ある大人なのだから。

 と、納得させた。


 教師の卵として順調な滑り出しをした私はある日、不思議な出来事に巻き込まれることになった。

 眼前に広がるのはどこまでも続く荒野。

 周囲には私が授業を担当していた時に見覚えのある子を含む、数人の生徒達。

 自分の現在地も、帰る方法も分からない。


 そんな状況で大人は私だけ。

 その事実が私の体を縛り付けた。


 本当は叫び出したい。

 本当は泣きたい。

 本当は動きたくない。

 本当は冷静でなんていたくない。


 でもそんなことは許されない。

 だって私は大人で、彼らを守らなければならない責任があるのだから。


「代市さん」


 下を向きながら只管に歩き続けていた私は顔を上げる。

 正直歩くにしても姿勢が悪いのは承知していたけれど、この荒野で地平線を見続けながら進むことに比べたら、確かに進んでいる実感がある分、地面を見ている方が遥かにマシだった。


 声を掛けてきたのはミレイさん、だった気がする。

 初めて見た時も驚いたけれど、本当に綺麗な人。小さい顔に大きい目、長いまつ毛にきれいな肌。そして極めつけは歩く度に揺れる大きな胸。最早嫉妬の感情すら出てこないくらいの危険な美貌だった。傾国の美女なんて言葉があるけれど、きっとこんな人がそう言われていたのだと不思議と納得するほど、私が生涯で見てきたどの人よりも美しい女性だった。


 顔を上げたついでに周囲を見渡すと歩く速度に差があったためか、さっきまで近くにいたはずの善財さん、圓君の二人は少し離れた場所を歩いている。花野井君と谷風君は先に進んで石碑を探すと言っていたから多分遠くに見える二つの人影がそうなのだろう。櫃岡君は……あぁ、後ろの方にいた。


 本当は私が彼女らを見ていなければならないのに、そう思いながらもすでに私にそんな余裕はなかった。


「代市さん、少し進路がずれていましたよ」

「あぁ、そうだったの。ごめんなさい」


 だから生徒達と離れてしまっていたのか。

 下ばかり向いて歩いた弊害が出てしまった。


「……何かお話しながら歩きませんか?」

「……私なんかに気を遣わないでいいわよ」

「気なんか……私が代市さんとお話ししたかったんですよ。多分私達って同い年くらいじゃないですか」

「同い年って、でもあなた成人しているようには……」

「成人って日本では二十歳でしたっけ?……ってえぇ!?代市さん成人されているんです!?日本人若すぎます!ずるい!」

「ふふ、日本人は外国の人から見ると若く見えるらしいものね。でもずるいのはあなたよ。それだけスタイル良くて、顔も美人で。ずるいわ」

「そんな……代市さんもすらっとしててお綺麗ですよ」

「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」


 それからは不思議と会話が続いた。


「―――だからね。ミレイ。私は先生を目指したの」

「すごいです。亜梨花。あなたはとても偉い」


 いつの間にか下の名前で呼び合う仲になっていた。

 まだ出会って少ししか経っていない相手にここまで自分のことを話したのは生まれて初めてのことである。彼女が唯一私の生徒ではないからという理由もあるかもしれない。


「ごめんなさい。こんな重い話」

「謝らないで。亜梨花」


 いえ、きっとミレイが特別なのだろう。

 不思議と彼女の前では何でも話したくなる。


「でも亜梨花。そこまであなたが守る必要はあるのかしら」

「え?」

「だってあなたの母はあなたを守ってこれまで生きてきたのでしょう?それはとても強い人でなければできなかったはずだわ。今は弱っているかもしれないけれど、ずっと守っていかなければならないほど弱い人とは思わない」

「そ、うかもしれないけれど、でも……」

「それに亜梨花の言う子供を守るという気持ち。とても立派だけれど、無理だと思うの。だってあなたの手は二つしかないわ。母親も生徒もなんて……ううん、見知らぬ子供も守るだなんて限界があるはずだわ」

「……私には大人として責任があるのよ」

「それなら、亜梨花自身は誰が守るの?今の亜梨花、とても辛そうだわ。見ていられないくらい」


 思わず手で自分の顔を隠す。

 一体どんな表情をしていたというのだろう。

 大人である私がそんな弱った顔を見せるなんて、そんなことはあってはならないのに。


「亜梨花も一人の人間なのよ。ほら見て。彼らも一人の人間。この世界に子供も大人もないわ。当然教師と生徒もない」

「……」

「亜梨花も人に甘えていいの」


 その言葉はまるで私自身の核を直接刺し貫くような鋭利さを持っていた。


「……いいのかな」

「いいのよ。だってあなたはもう十分頑張ったもの」


 ミレイを見る。

 彼女は優し気に笑っていた。

 それはどこか母を思い出させるものだった。



 しばらく歩くと一行は石碑に辿り着いた。

 先に着いていた花野井君と谷風君、私と一緒に到着した圓君とミレイ、そして最後尾にいた櫃岡君で何かを話している。彼らが話している内容はきっと今後の行動予定についてなのだろうけど、今までのように私もその場に参加しようという気にはならなかった。

 話し合いに参加していないのは私と善財さんだけ。

 とはいえ善財さんは私とは違う。彼女は私を介抱するためにこちらに残っているだけで本来は向こうに行きたいはずだった。今までの私であれば生徒に介抱させるなんてあり得ない行為であったはずなのに、今ではそれすらも受け入れてしまっていることがどこかおかしくて笑みが出そうになる。


「莉杏、代市先生」


 花野井君が話し合いを終えてこちらに来た。

 きっと彼はまたこれまでと同じように私に相談をしに来たのだろう。行動の責任を取らせるために。


 そこでプツンと自分の中で何かが引きちぎれた。


「疲れているところすみません。代市先生、提案があるのですが「もう、先生と呼ばないで」……え?」

「先生?」


 二人の呆気にとられる顔がどうしようもなくおかしい。


「私なんか気にせず、あなたが決めたことをすればいいと言っているの。


 ―――もう私に頼るのはやめて」


 ようやく言えた。

 言ってやった。


 私の体を縛り付けていた何かが解けていくのを感じる。


「先生……」

「先生と呼ぶのはやめてちょうだい。今の私はもうただの代市亜梨花。何を背負うこともできないただの弱い人間。……だからもう無理なのよ。お願いだからもうこれ以上私に聞かないで」


 大人とか、子供とか、先生とか、生徒とか。

 ―――母とか。

 もうどうでもいい。

 もう無責任な私でいい。

 私を縛る鎖はもうない。

 ああ、なんて素晴らしいのだろう。


 ミレイ。

 あなたのおかげよ。


 そう思ってミレイを見ると彼女は優し気な笑みをこちらに向けるだけであった。




 -2-


 代市がおかしくなった。

 いや、おかしくなったというのは正確ではない。開き直ったと言う方が正しいだろう。ずっと無理をしている様子だった彼女がまさか開き直ってあんな発言をするとは思わなかったが、実際はそこまで悪いことではない。


 これ以上彼女が精神的に不安定になるよりは開き直ってくれた方が幾分、気が楽になるというものである。何も廃人になってしまったわけではないのだ。それにこちらの指示には従うと言っているため、そこまで非協力的になったわけでもない。


「―――という感じです」

「……」

「じゃあ私、また氏黎とは別行動になるんだ。はぁ~あ」


 話し合いで決まった今後の行動予定について代市と莉杏に説明した。

 無反応の代市はともかく莉杏からは特段反対の意見もなく、受け入れられたようでほっと安心する。


 二人には今回二つのグループに分ける予定であることを伝えてある。

 一つは交渉組。こちらは例の男達と塔の情報について交渉する役目。櫃岡と僕がこちらで行動する。もう一つは女性陣を中心とした居残り組。こちらはいざという時、危険がないようにするため石碑の前で待機してもらうことになる、実質お留守番だ。


 この二人から大きな反対がないようであれば、本格的に行動を開始できるようになる。そうなると次は―――


「花野井、ちょっといいか?」


 頭の中で予定を組み立てているとそれを遮るタイミングで、いささかの気まずさを見せている圓が声を掛けてきた。

 ここ数日共に過ごした身としては、おそらく勘違いでなければ僕は彼に嫌われている。これまで櫃岡と同じく話かけられたことすらなかったため、声を掛けられた事実に驚いてしまった。


「どうしたんです?」

「ちょっと僕の役割について相談が……」

「相談ですか。それならさっき説明した時に言ってくれれば……」

「しょうがないだろ。全員がいる場で言いにくいことだったんだから」


 言いにくい、となると。


「役割を変えたいとかそういう話ですか?」

「……うん」

「一応言っておきますが、何の根拠もなくあの役割にしたわけではないですよ?」


 暗に理由がなければ変えたくないということを圓に伝える。

 まず大前提として今回の交渉ではミレイを交渉組として連れていくことは考えていない。ミレイ本人が交渉カードだとしても、こちらにミレイがいることを向こうも知っているのだから、交渉が上手く行った場合にだけ会わせればいいという話だからだ。

 なお男性陣について、櫃岡は武力要員、僕は交渉担当、ノリは居残り組の護衛、圓は緊急用の連絡係という役割がある。不安定な代市は莉杏が見ている必要があるだろうし、そもそも女性である彼女らを連れて行くことはできない。つまり何が言いたいかと言えば、役割にはそれぞれちゃんとした理由があるのだ。


「……分かってる」


 流石に我儘を言っている自覚はあるのか、口籠る圓。


「それなら……」

「それでも僕が彼女を守りたいんだ。他の奴に任せたくない。都合が良いのは分かってる。この通りだ」


 ……あぁ。そういうことか。


「うーん。だったらまあ、ノリと交代が無難ですかね」

「そこを何とか…………あれ?」


 となるとノリには連絡係をお願いすることになる。

 連絡係は基本的には居残り組の方にいてもらうが、何かあれば急いで交渉組まで連絡に走ってもらう保険的な役割だ。ノリであれば十分熟すことができるだろう。


「本当に?冗談とか言わないよな!?」

「冗談は寧ろこっちのセリフです。連絡係よりもよっぽど責任重大ですけど大丈夫ですか?」

「……もちろん。危険は覚悟してる」

「なら、いいです」


 あっさり返事をすると呆気にとられる圓。

 ノリに予定変更を伝えようと圓に背を向けると。


「ちょ、ちょっと待てって。そんなあっさり。もっと何か……こう、無いのかよ!」

「ありませんよ。寧ろノリよりも先輩の方がやる気があると思いますし、良いと思いますけど」

「いや、そういうのじゃなくてさ……」


 何に納得がいかないのだろうか。


「僕と谷風じゃ……その、信用が違うだろ。もしまた襲われた時に僕のせいで守れなかった、なんてことが起きるとは思わないのか。てっきりそう思ったからこそ谷風を護衛役に選んだんだと……」

「そこまで自分を卑下しなくても……まあ大体合ってますけど」

「合ってんのかよ!そこは気を遣って違いますって言うところだろ!」


 圓は自虐したり怒ったりとせわしない。

 本人には悪いが、これほど揶揄い甲斐のある人も珍しい。


「すみません。でもいいんですよ。やる気が一番重要な要因だったんですから。ぶっちゃけると誰がやっても変わりません。圓先輩がいざという時に逃げないと分かったので適任だと思っただけです」


 実際複数人で襲われでもすれば櫃岡以外誰が護衛役でも結果は変わらないだろう。


「あ、でも」

「何だ。やっぱり無しとか言うなよ」

「あぁいえ。彼女以外もちゃんと守ってくださいよと言いたかっただけです」

「別にミレイさんは彼女じゃ」

「僕、ミレイさんなんて言いましたっけ」

「……やっぱり僕、お前嫌いだよ」


 自分では隠しているつもりだったらしい。

「先輩なのに」と呟きながら圓は複雑そうな表情でぶつぶつと呟いていた。




 -3-


 時は進み、僕と櫃岡の二人は交渉組として皆のいるその場を後にした。

 しばらく何の会話もないまま歩いていたのだが、ふと湧いた疑問を櫃岡にぶつけてみた。


「何を願うのかだと?」

「うん」


 もし塔の頂上に登った人間全員の願いを叶えられるなら、僕ら全員を元の世界に帰すように誰かが代表して願えばいいだけの話だ。何も一人ずつお願いする必要はない。もし二人以上が到達することができたのなら叶える願いが余ることになる。


「何か叶えたい願いがあるのかなって」

「……」

「答えたくないなら無理には聞かないけど」

「……別にねえよ」

「ないってそんな、何でも叶うのに?」

「ああ、俺は元の世界に帰れればそれでいい」

「不死身のまま元の世界に戻ることだってできるって言われても?」

「……ッチ。うるせえな。別にどうでもいいんだよ。そんなことは」


 予想とは異なり、櫃岡の願いは不死身になって無双することではなかったらしい。

 まあよく考えたら不死身になってしまえば、ボクシングの試合自体が成立しなくなってしまう。しかも不死身については黙っていればばれないというものでもない。いつかは絶対に誰かにばれる。そうなれば今までの経歴もすべて“不死身だから”と片付けられてしまう気がする。プライドの高そうな櫃岡には耐えがたいのかもしれない。


「そう言うテメエは何を願うんだよ」


 櫃岡はちらとだけこちらに視線を送った。

 そう言われると僕も特に叶えたい願いはない。


「うーん。お金かなぁ。あって困るものじゃないし」

「記憶はいいのかよ」

「あっ」

「おい」


 確かにそうだ。本当に塔が何でも叶えてくれるのであれば記憶を取り戻すことだって可能のはずだ。


「忘れてた。じゃあやっぱりそれで」

「……適当だな。結局それも本気で叶えたいと思ってるわけじゃねえ」

「そうかもね」

「無駄なこと聞いてねえで、テメエは黙って探せ」

「うーん。じゃあ別の質問」

「ッチ。いい加減に……」

「櫃岡が元の世界に戻りたい一番の理由って何?」


 一瞬、空気が止まった。


「やめようか。この話題」


 僕は戦略的撤退を決め込むべくそう言ったが、櫃岡はこちらを睨むまま足を止めた。


「俺はな、最強だったんだよ」

「ボクシングでってこと?」

「違え。人として、一人の男として、最強ってことだ」


 何を言ってるんだ。この男は。


「昔から俺はよく色んな奴と喧嘩した。同世代はもちろん大人すらも強そうな奴であれば誰とでもだ。ボクシングをやってたのも結局はその一環。ルールがある分遊びみたいなものだったがな。それでも俺は一度も負けなかった。苦戦すら記憶にない」

「随分とまた、すごいね」


 思わず「野蛮だね」と言いそうになったのを別の言葉で濁した。


「ただ一度だけ、この俺の喧嘩に決着がつかなかったことがあった。だから俺はそいつとの決着をつけるために元の世界に戻らないとならねえ」

「へえ。そんな人が……。ちなみにどんな人だったの?」

「名前は知らねえ。足技を使う格闘家だった。多分、空手とかその辺だろ」

「知らないんだ」

「顔と特徴を知ってれば問題ねえ」


 櫃岡にそこまで言わせるなんてその人も動きが目で追えなかったりするのだろうか。

 会ってみたいような。怖いような。


「ふーん。でもそれじゃあその人のことどうやって探すつもり?連絡先でも知ってるの?」

「……」


 あ、これ考えてなかったやつだ。


「俺の願いが決まった。そいつを見つけることにしよう」

「あ、そう」


 ごめん。名も知らない格闘家の人。言わなければ良かったかもしれない。

 名も顔もしらないその人へと懺悔しながら歩いていると、さっき来た方角から何か聞こえてきた。



 ―――――ぃ。


「ん?今何か聞いたことある声が聞こえたような」

「今来た方向か」


 ――――い。しれーい!ひつおかー!おーい!


 聞き覚えがあるはずだ。それは少し前まで一緒にいた同級生の声である。

 目を凝らすと遠くからこちらへ走ってくる一つの影。


「ノリだ。まだ出発してそれほど時間経ってないのに。もう何かあったのか」


 ノリは相当急いでいる様子で、すぐにこちらのいる場所まで辿り着いた。


「何があったの?」


 問題が発生した場合にのみ僕ら交渉組へと連絡する役目であるはずのノリがここにいるということは、相応の事件が起きたということでもある。嫌な予感が拭えない。

 不死身が作用したのか、すぐに息を整えたノリは焦った様子で口を開いた。


「実は代市先生が……」


 最後に代市と話した時の憑き物が落ちたような顔が思い浮かぶ。


 また精神的に不安定になったくらいでは流石にノリもここまで焦ることはないだろう。もっと緊急性の高い何かが起きたはず。

 まさかまたさっきの男達が?

 いや、だとすると僕と櫃岡に見つからずにすれ違ったことになる。迂回するのも難しいようなこの開けた場所でそれは流石にあり得ない。

 あと考えられるとすれば体調不良。不死身というがどこまで防ぐか分かっていない以上病気という線は残っている。こんなことなら九十九にその辺りのことも聞いておけばよかった。


 他にも様々な考えが浮かんでは消える。

 しかしそれらの予想は続くノリの言葉ですべて外れることになった。


「代市先生が石碑に触わってどこかに消えちまった!」

「は?」



 -4-


 ノリの話によると代市は自ら石碑に触れたらしい。

 触れるだけで転移してしまうため、皆注意して近づかないようにしていたはずだが、まさか自ら石碑に触れるなんてことをするとは欠片も想像していなかった。


 石碑の力は触れた人を別の石碑まで転移させるというもの。つまり代市は何らかの考えでまたどこかに転移したということになる。理由はともかく、追いかけるためにはまた同じ石碑に触れなければならない。

 代市以外の居残り組は、すぐに代市の後を追いかけても戻っては来られないことから、僕らとの連絡を優先した。僕らが戻り次第すぐに代市を追いかける。そのつもりでノリはここまで走って来たようだった。


「どうしてそんなこと……」

「分からない。直前まで善財が近くにいたらしいけど、目を離してる間に消えちまったそうだ。その後は急いでこっち来たからそれ以上のことは何も……」


 自ら石碑に触れたというのが事実であれば、動機は本人に聞かないと判断できないだろう。となるとここで考えても答えが出ることではない。今はそれよりも―――


「まさか今すぐ戻るとか言わねえよな」


 威圧すら伴ったそれにより、自分の口から出るはずだった言葉は喉の奥で止まる。原因となった人物を見れば、腕を組んだまま僕を見下ろしていた。

 段々と櫃岡の言葉の意味を理解し、戦慄する。少し遅れてノリも顔を青褪めさせた。


「お前何を言って。急いで戻らないと転移先の切り替えが起きればもう―――」

「知ったこっちゃねえな。それより今戻れば塔の入り口の情報はもう手に入らなくなっちまうだろうが」

「このまま元来た場所を探していったところで男達が見つかるとは限らないだろ!」

「そうかもしれねえし、いるかもしれねえ」

「なのにそっちを優先するって言うのか。それで何も塔の情報がなかったらどうするつもりなんだよ!」

「それを言うならもう転移先の切り替えがすでに起きている可能性もある。代市の奴を追いかけても、別の場所に転移することになるかもしれねえ。それでも同じく無駄足だ」

「櫃岡、お前そんな……血も涙もねえのか」


 櫃岡とノリの間に不穏な空気が流れる。


「今まで一緒にやってきただろ!本当に見捨てる気か!」

「どうしてそうなんだよ。そもそもあいつが望んでどっかに言ったって話だろうが。前提が間違ってんだよ。理由はどうあれあの女は一人離れることを望んだ。どうして俺がそんな奴のために元の世界に戻れる可能性を捨ててまで追いかける必要がある」


 櫃岡は耳をほじりながら、どうでもいいことのように言う。


「俺はこのままあの男達を探す。てめえらが戻るなら好きにしろ」

「こんの……氏黎、こんな奴放って戻ろう!」


 櫃岡の余裕な態度とノリの怒りを我慢した態度に、ここが岐路であることを理解し、唇を噛む。


 進むか、戻るか。

 何れにしても取り返しのつかない選択。


 そもそも代市を放っておく選択肢は取るつもりはない。いや、取れないが正しいか。

 元々法も常識もないこの世界で未だに僕らが集団を保てている要因は、お互いへの尊重があるからだ。そんな状況で代市を見捨てるような行為は最もしてはならない禁忌。ただでさえ崩壊しそうなところを誤魔化し誤魔化し繋いでいるというのに、そのせいで保っていた均衡が一瞬で崩壊し、皆がばらばらになりかねない。


 対してこのタイミングで塔の情報を得られなかったとしても、塔を見つけるまでにかかる時間が伸びるかもしれないというだけで差し迫った致命的な問題にはならない。実際情報自体も本当かどうか怪しいような状況である。無駄足の可能性も考えれば間違いなくここは戻るべきだった。


 そう頭では理解しつつ、ちらりと櫃岡を見る。


 一方で襲ってきた相手と交渉するという強気な行動を選べていたのは、この櫃岡の存在によるところが大きい。原始的な世界で最も強い力とは何か。―――暴力。それこそが今この世界で自分の身を守る唯一の力である。

 言い方は悪いが、もし最強の暴力装置とも言える櫃岡が僕らの集団から離脱することになってしまえば、単純に一人減るだけでは済まされない。これからの行動はより慎重さが求められ、色々な制限がかかることになるだろう。当然塔を見つけるまでにかかる時間も途方もないものになるはずだ。


 どちらかを選ぶことはできない。

 妥協線。

 それを見つけるしかない。


「二手に別れよう」


 言い合う二人を遮るように間に立つ。


「このまま男達を探すことは続ける」

「ふん。当たり前だ」

「っ!何を言っているのか分かって言ってるのか!氏黎!!」

「落ち着いて。最後まで聞いて」


 ノリを落ち着くまで待ってから続きを話す。


「もちろん代市……先生を一人で行かせる気なんてない。助けにも向かう」

「……?だったら早くしないと、今この瞬間転移先が切り替わっちまうことだって……!」

「だから二手に分かれようって言ったんだ」

「……!まさか」

「うん。


 ―――誰か一人。石碑の向こう側へ代市先生を追いかけてもらう」


 ノリは目を見開く。


「安心して。それを人に押し付ける気はないよ。僕が石碑まで戻って、その役目を熟す。ノリには僕の代わりに櫃岡と残って例の男達を探してもらうことになるけど、頼めるかな」

「な、何で一人だけ!全員で行けばいいだろ!」

「そうなれば櫃岡を置いて行くことになる。それはできない」

「……ッ」

「櫃岡もそれでいいよね」

「いや、駄目だ」


 櫃岡はどこまでも冷酷な目で僕を見る。


「代市を追いかけるのは花野井、テメエ以外にしろ。テメエにはこっちに残ってもらう」

「でもそれは……」

「逸れる可能性のある役目は他の適当な奴にやらせろ。もし強行するつもりなら覚悟しろ?テメエがこのまま消えた場合、俺もこの集団を抜ける」

「……!」

「気付かないとでも思ったか?他の奴らに襲われる可能性があると分かった時点で、テメエらを守れる俺の存在は他の何よりも価値が高くなった。―――つまり今のテメエらの平和は全部俺のおかげってことだ」


 そうか。流石に本人は自覚していたか。


「じゃあどうして皆のことを守ってくれていたの?櫃岡にメリットなんてなかったのに。やっぱり優し―――」

「勘違いするな。他の足手纏い共を守ってやっていたのは、花野井、テメエが使える奴だったから。それだけだ。塔への最短を進めると判断したから手伝ってやったにすぎねえ」

「足手纏い、だと?」

「谷風、じゃあ他に言い方あるか?俺にとっては別にいてもメリットはなく、ただ守られているだけの奴らなんてよ」

「友達だろ!」

「ここで友達とやらが何かしてくれんのか。それともこの俺が都合の良い駒(友達)にでも見えたかよ」


 櫃岡の鋭利さすら伴う言葉に反論ができない。

 きっとそれは説得力があるからだろう。櫃岡は僕らの中の誰よりもこの世界に順応している。


「ごめん。ノリ。やっぱり僕がそっちに行くことも、櫃岡を置いて行くことはできない。ノリだって分かったでしょ。櫃岡は僕らには必要なんだ。これは気持ちの問題じゃない」

「どうしてこんな奴が……!」

「今は文句を言い合う時間すら惜しい。ノリは今すぐに戻って居残り組の中で誰が代市を追いかけるか話し合ってほしい。もちろん拒否してもいい。それで誰も立候補しないのなら……残念だけど、僕らが戻るまで全員で待っていてもらうしかない。ごめん。辛いことを言ってる自覚はある。どうなったとしても全部僕が責任を取るよ」

「~~~……クソッ!」


 ノリは最後に殺意すら込められた視線で櫃岡を睨んだ後、元来た場所へと走って引き返して行く。その背中を余裕の笑みで見送る櫃岡を見て、彼らの間に致命的な亀裂が生じたことを理解した。


「恨み言くらいは聞いてやってもいいぜ」

「そんなことは言わないよ。全部が櫃岡のせいってわけじゃないんだから」


 元々櫃岡のことを都合よく使っていた自覚は僕にもある。櫃岡が怒るのも無理はない話だ。それに今回の事は切っ掛けだけを言えば代市の精神状態が不安定だったこととそれに気付かなかった周囲の人間に起因する。必ずしも誰かの責任という話にはならない。


「……よくもまあ、今そんなこと言えんな。記憶と一緒に感情も失ったんじゃねえのか?」

「どうだろうね。これが終わったら確かめてみようかな」


 と、できもしない冗談はさておき。

 これ以上ここにいてもただ時間を無駄にするだけである。

 さっさと例の男達を見つけて皆の元へ戻るため、止まっていた足を再び前へ進めた。

 しかし立ち止まったまま付いてこない櫃岡に気付いて振り返る。


「どうしたの?」

「……何でもねえよ」


 櫃岡は歯切れの悪い微妙な反応を残し、また同じように歩き出した。

 その時一瞬合った視線がもう一度交わることはなかった。




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